熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

十二月大歌舞伎・夜の部・・・「重の井」「船弁慶」「松浦の太鼓」

2005年12月27日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   「恋女房染分手綱 重の井」は、福助と児太郎父子の舞台である。
   10年前に演じているとは言え、父芝翫や雀右衛門の世代から完全にグンと若い次の成駒屋の世代に移った、そんなことを感じさせてくれる福助の舞台であった。
   実子児太郎も、来年中学生でぎりぎりの自然薯の三吉役とのことだが、まだ幼さの残った型を忠実に辿った初々しい演技が、大人と子供の境を彷徨う役柄とマッチしていて見せてくれる。
   
   お姫様を道中双六で慰めた子供の馬方三吉が、今や乳母となっている重の井の実子と分かるが、縋りつくわが子を引き離して別れて行かざるを得ない悲しい母を福助は感動的に演じている。
   実子である児太郎が、母様じゃと縋り付いてくるのを必死になって抱きしめたい一心で突き放すのであるから、実際に親子でこんなことになればどうなるかとの思いが込上げてきて、それが芸に現れて来るのは当然であろう。

   武士の子でありながら、「昼は馬追い夜は沓打ち」、健気に生きる三吉を見捨てて、主家の為、義理と人情の相克に慟哭する全く理不尽な世界であるが、江戸中期の封建制度の世の中、観客が当然のこととして涙に咽ぶ舞台であった。
   昼の部の「弁慶上使」も、やっと巡り合えたわが子を殺さざるを得なかった弁慶の苦衷を描いており、「菅原伝授手習鑑」の「寺子屋」でも、義理の為にわが子を身代わりに殺させて首検分をせざるを得ない松王丸を描き、そして、「芦屋道満大内鑑」の「葛の葉子別れ」でも、母親は子供を残して去る。
   ヨーロッパでは、長い間子供と言う概念がなく、小さな大人として扱われていたようであるが、日本では、子供は親の所有物であり、人格などさらさらなく、歌舞伎の世界でも、こどもの人格など考慮の外で、親の義理人情、忠君愛国の世界が総てであった。

   しかし、この「重の井」の三吉は、少し違う。
   主家への義理に咽ぶ母親に向かって、「あまり遠慮が過ぎまする」と抗議するし、母が小遣いを渡しても「親でも子でもないならば病もうと死のうと要らぬお構い、胴慾な母様、よう覚えていさっしゃれ」と言って叩き返す。
   子供の主張と個性が強烈に示されていて、全く人格を無視されて死んでゆく、或いは、消えていく封建社会の子供を描いた舞台においては異色のヒューマニズムの発露(?)ではないであろうか。
   それだけに、これに応えて対応する親の演技に深みと工夫が要求される。

   次の「船弁慶」は、完全に玉三郎の世界である。
   普通、能「船弁慶」を素材にした舞踊劇で演じられるが、今回は、玉三郎が、これより古い二世杵屋勝三郎作曲、藤間勘吉郎振付で新しい「船弁慶」を創り、南座で初演したのを歌舞伎座の舞台にかけた。
   玉三郎は、前シテの静御前と後シテの平知盛の幽霊を、前半は赤を基調とした四種の花をあしらった唐織の衣装で能楽師のように殆ど動きのない荘重な舞を舞い、後半は、銀箔地に金の稲妻と龍の文様の衣装で白顔に隈取りしてなぎなたを持って勇壮に演じる。
   玉三郎の楊貴妃などの珍しい舞台も見ているが、今回も玉三郎の新しい舞踊の世界を見せて貰った様で感激であった。

   「松浦の太鼓」は、吉右衛門と勘三郎の得意とする舞台であるから、見ていて面白くない筈のない舞台だが、今回は、特に、勘三郎のバカ殿ぶりが板について楽しませてくれた。

   祖父芝翫が、勘太郎は女形が向くと言っていたが、私としては始めて見る娘役の勘太郎で、流石に、勘三郎と息が合っていて、大高源吾(橋之助)の妹でお縫役を上手くこなしている。
   昼の淀君役の七之助が、父親の勘三郎秀吉の奥方で、この勘太郎が父親勘三郎の松浦鎮信がちょっかいをかける腰元だが、芸の上とは言え、言うならば一寸複雑な関係で、面白い。
   下手な俳句で、取り巻きから「よいしょ」されると有頂天になり、敵を討たないと言っては、大石や源吾を嫌って、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、妹のお縫まで暇に出す単純バカの殿が、山鹿流の陣太鼓を数えて討ち入りを知って助太刀じゃと言って馬に乗ってハシャギ、源吾の報告で、天晴れじゃとその忠義心を褒める。
   とにかく、勘三郎が地で言ったような舞台で、こんな忠臣蔵の世界もあったのかと、楽しませてくれた。
コメント
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