曽我ものは、何種類もあるのだが、今回は、「吉例寿曽我」で、日頃見慣れている「寿曽我対面」とは違って、同じ対面でも、豪華な工藤の屋敷での対面ではなく、富士山を望む大磯の曲輪近くの工藤祐経のもとへ、曽我十郎と五郎がやって来て、父の仇の工藤に対面を果たす舞台になっていて、舞台が平舞台でシンプルなので、豪華で派手な衣装が引き立つ。。
また、この「吉例寿曽我」は、“がんどう返し”という大掛かりな舞台転換や、闇の中で巻き物を奪い合う“だんまり”など歌舞伎の様式美が、前半の見せ場の一つである。
鎌倉の鶴岡八幡宮の石段前で、近江小藤太の又五郎と、八幡三郎の錦之助が、華麗な殺陣を披露しながら、石段が90度背後に上がるがんどう返しに消えて行く。
ところで、この曽我狂言だが、私にとっては、特に興味深いとも思えないのだが、何故、こんなに頻繁に歌舞伎座で上演されるのかと思っていた。
橋本治氏の説明によると、江戸歌舞伎にとっては、曽我ものは、断トツの人気狂言で、特別な芝居であるらしい。
1697年に、初代團十郎が、自作自演した「兵根元曽我」がバカ当たりして、十年二十年と経つうちに、曽我狂言が、「江戸の芝居にはなくてはならないもの」になった。
曽我兄弟が、富士の裾野で、父の仇・工藤祐経を討ち果たしたのは五月なのだが、江戸歌舞伎の正月は、曽我狂言で始まり、次から次へ続きが出て、延々と5月まで続いたと言う。
「助六」も、歌舞伎の形式上「曾我もの」の演目なのだが、何でも、実は曽我五郎、などと言って芝居を書けば、曽我ものになって人気が出たと言うことかも知れない。
「日本三大仇討ち」は、赤穂浪士の忠臣蔵と荒木又右エ門の伊賀上野鍵屋の辻と、この曽我兄弟で、この仇討ちだけが、関東のもので、これも人気の基らしい。
面白い話は、曽我兄弟の祖父伊藤祐親(平家方)の娘・辰姫、すなわち、兄弟のおばが、頼朝の最初の女性だったと言うのだが、この物語の対立も、鎌倉新政権と旧土着勢力との対決であって、幕府に弓を引かずに、祐経を仇としたところに、幕府に不満な分子にはストレス解消劇にはなったが、革命期待劇ではなかったと言うことである。
江戸庶民にとっても、徳川幕府と鎌倉幕府が重なって、幕藩体制の太平の世の中を謳歌しながら、曽我狂言は、幕府支配に不満な人間にとってストレス解消、個人的な不満だけが散発的に花開く、格好の娯楽だったと言うことである。
とにかく、幕府の規制もあって、恐れ多い江戸を避けて、舞台を鎌倉にしたり、時代を変えて時代物にしたり、しかしながら、勧善懲悪で、適当に悪を懲らしめる狂言で鬱憤を晴らす、江戸庶民の屈折した気持ちが分かるような気もする。
火事と喧嘩が江戸の華、任侠ヤクザに粋を感じる、江戸庶民の錯綜した気持ちと、江戸歌舞伎の荒事好みとがマッチしたところに、芝居の醍醐味があるのかも知れないが、もう一つ、曽我ものを見ていて、衣装や舞台の豪華さ華麗さ、それに、役者が見せて魅せる美しくて絵になる見得の数々、どのショットを撮っても錦絵になる、そんなところに魅力があって、ストーリーなどは、二の次であったのかも知れない。
尤も、あのシェイクスピア戯曲でも、毎日のように筋やストーリーが変わっていたし、翌日には、別の劇場で良く似た芝居がかかっていると言う状態であったから、江戸歌舞伎も、そうであっても当然なのだが、いずれにしても、曽我ものが年間の過半のプログラムを占め、それも、江戸時代17世紀後期から、ロングランを続けたと言うのだから、驚き入る。
曽我兄弟で、五郎は弟だが、五郎の方が偉いと思われているのは、祐経を討って由比ヶ浜で斬首の刑で非業の死を遂げていて、五郎は御霊だと言った駄洒落混じりながらも、いわば神扱いで、舞台でも、神様芸の荒事を演じさせている。
一方、十郎は、仇討前に殺されていて、女のような二枚目になっているのは、仇討を全うできずに死んでしまい、大磯の虎と言う愛人とラブシーンを演じる上方風の和事役者の傾城とされてしまったからだと言うのが面白い。
さて、祐経演じるは、風格十分の歌六で、大磯の虎の芝雀の雅と貫録が光っており、五郎の歌昇と十郎の萬太郎の曽我兄弟の溌剌としたフレッシュな舞台、それに、梅枝と児太郎の中々華麗で嫋やかな傾城、性格俳優ぶりが傑出していた已之助の朝比奈三郎、剽軽な珍斉の橘三郎、颯爽とした国郷の国生など、若手の脇役陣が、それなりに、華やかな舞台をつくりあげていて、世代替わりを感じさせてくれて興味深い。
近年の大御所の逝去、重鎮の病気休演が重なると、世代交代も当然であろう。
最近は少なくなったが、プロンプターの声が喧しくて邪魔になったり、動きがままならない高名な老優の舞台よりも、多少荒削りでも、溌剌としたパンチの利いた芝居の方が良い場合がある。
曽我ものの新作が、江戸の歌舞伎の人気を高めたと言うことで、当時は、團十郎など、どんどん新しい試みをして、庶民を魅了したと言うことだが、伝統は尊く守らなければならないとは思うのだが、最近の古典もの作品を見ていて、殆ど舞台に変化がなく、ハンで押したようなマンネリ芝居を観続けていると、何が古典芸能で伝統の継承なのか、多少、疑問に感じ始めている。
また、この「吉例寿曽我」は、“がんどう返し”という大掛かりな舞台転換や、闇の中で巻き物を奪い合う“だんまり”など歌舞伎の様式美が、前半の見せ場の一つである。
鎌倉の鶴岡八幡宮の石段前で、近江小藤太の又五郎と、八幡三郎の錦之助が、華麗な殺陣を披露しながら、石段が90度背後に上がるがんどう返しに消えて行く。
ところで、この曽我狂言だが、私にとっては、特に興味深いとも思えないのだが、何故、こんなに頻繁に歌舞伎座で上演されるのかと思っていた。
橋本治氏の説明によると、江戸歌舞伎にとっては、曽我ものは、断トツの人気狂言で、特別な芝居であるらしい。
1697年に、初代團十郎が、自作自演した「兵根元曽我」がバカ当たりして、十年二十年と経つうちに、曽我狂言が、「江戸の芝居にはなくてはならないもの」になった。
曽我兄弟が、富士の裾野で、父の仇・工藤祐経を討ち果たしたのは五月なのだが、江戸歌舞伎の正月は、曽我狂言で始まり、次から次へ続きが出て、延々と5月まで続いたと言う。
「助六」も、歌舞伎の形式上「曾我もの」の演目なのだが、何でも、実は曽我五郎、などと言って芝居を書けば、曽我ものになって人気が出たと言うことかも知れない。
「日本三大仇討ち」は、赤穂浪士の忠臣蔵と荒木又右エ門の伊賀上野鍵屋の辻と、この曽我兄弟で、この仇討ちだけが、関東のもので、これも人気の基らしい。
面白い話は、曽我兄弟の祖父伊藤祐親(平家方)の娘・辰姫、すなわち、兄弟のおばが、頼朝の最初の女性だったと言うのだが、この物語の対立も、鎌倉新政権と旧土着勢力との対決であって、幕府に弓を引かずに、祐経を仇としたところに、幕府に不満な分子にはストレス解消劇にはなったが、革命期待劇ではなかったと言うことである。
江戸庶民にとっても、徳川幕府と鎌倉幕府が重なって、幕藩体制の太平の世の中を謳歌しながら、曽我狂言は、幕府支配に不満な人間にとってストレス解消、個人的な不満だけが散発的に花開く、格好の娯楽だったと言うことである。
とにかく、幕府の規制もあって、恐れ多い江戸を避けて、舞台を鎌倉にしたり、時代を変えて時代物にしたり、しかしながら、勧善懲悪で、適当に悪を懲らしめる狂言で鬱憤を晴らす、江戸庶民の屈折した気持ちが分かるような気もする。
火事と喧嘩が江戸の華、任侠ヤクザに粋を感じる、江戸庶民の錯綜した気持ちと、江戸歌舞伎の荒事好みとがマッチしたところに、芝居の醍醐味があるのかも知れないが、もう一つ、曽我ものを見ていて、衣装や舞台の豪華さ華麗さ、それに、役者が見せて魅せる美しくて絵になる見得の数々、どのショットを撮っても錦絵になる、そんなところに魅力があって、ストーリーなどは、二の次であったのかも知れない。
尤も、あのシェイクスピア戯曲でも、毎日のように筋やストーリーが変わっていたし、翌日には、別の劇場で良く似た芝居がかかっていると言う状態であったから、江戸歌舞伎も、そうであっても当然なのだが、いずれにしても、曽我ものが年間の過半のプログラムを占め、それも、江戸時代17世紀後期から、ロングランを続けたと言うのだから、驚き入る。
曽我兄弟で、五郎は弟だが、五郎の方が偉いと思われているのは、祐経を討って由比ヶ浜で斬首の刑で非業の死を遂げていて、五郎は御霊だと言った駄洒落混じりながらも、いわば神扱いで、舞台でも、神様芸の荒事を演じさせている。
一方、十郎は、仇討前に殺されていて、女のような二枚目になっているのは、仇討を全うできずに死んでしまい、大磯の虎と言う愛人とラブシーンを演じる上方風の和事役者の傾城とされてしまったからだと言うのが面白い。
さて、祐経演じるは、風格十分の歌六で、大磯の虎の芝雀の雅と貫録が光っており、五郎の歌昇と十郎の萬太郎の曽我兄弟の溌剌としたフレッシュな舞台、それに、梅枝と児太郎の中々華麗で嫋やかな傾城、性格俳優ぶりが傑出していた已之助の朝比奈三郎、剽軽な珍斉の橘三郎、颯爽とした国郷の国生など、若手の脇役陣が、それなりに、華やかな舞台をつくりあげていて、世代替わりを感じさせてくれて興味深い。
近年の大御所の逝去、重鎮の病気休演が重なると、世代交代も当然であろう。
最近は少なくなったが、プロンプターの声が喧しくて邪魔になったり、動きがままならない高名な老優の舞台よりも、多少荒削りでも、溌剌としたパンチの利いた芝居の方が良い場合がある。
曽我ものの新作が、江戸の歌舞伎の人気を高めたと言うことで、当時は、團十郎など、どんどん新しい試みをして、庶民を魅了したと言うことだが、伝統は尊く守らなければならないとは思うのだが、最近の古典もの作品を見ていて、殆ど舞台に変化がなく、ハンで押したようなマンネリ芝居を観続けていると、何が古典芸能で伝統の継承なのか、多少、疑問に感じ始めている。