この本の主張は、本文中のタイトルを繋げば、ほぼ理解できる。
日本は特別な国と言う思い込みを捨てろ
なぜ戦争の歴史から目を背けるのか
日本が負けた真の理由
アメリカを通してしか世界を見ない危険性
世界の中の日本を知るためのガイドブック
日本人はいつから教養を失ったのか
である。
「世界史としての日本史」と言う書名にあるごとく、世界史的な視点から、日本史を見なければ、正しい日本の位置づけなり立ち位置が理解できないと言う視点からの日本論である。
たとえば、日本人は、ろくに勉強していないのに、なぜ戦後経済がうまくいったのかと言うと、それは、アメリカに追い付け追い越せと言うキャッチアップモデルがあったからで、これに、冷戦構造と人口増加が加わったからである。
日露戦争に勝ったのも、当時、ロシアは、第一革命騒ぎで、戦争どころではなく、日本軍の疲弊も極に達しており、ルーズヴェルトの仲介があったればこそである。
ペリーによる開国を迫られた時にも、アメリカは、南北戦争の最中であり、ヨーロッパ列強も、ボーア戦争などで手を取られるなど、日本に激しく対応できなかったので、中国の様にはならなかった。
と言った調子であり、また、蒙古の来襲による神風神話も、蒙古にとっては、余った戦力を差し向けただけで、勝っても負けてもどっちでもよかったのだと言われれば、白けてしまうのだが、幸運もあったと言うことであろうか。
ところが、司馬遼太郎の著作で感化された日本人は、美談に酔うと言うということでもあり、
実際のファクトが、メディアなどの情報に煽られて、どんどん極端な方向にスキューしていくと言う現実を、克明に語っていて興味深い。
尤も、「世界史としての日本史」と言っても、例えば、ウィリアム・H・マクニールの「世界史」など世界史の本を見ても、日本は殆ど出てこないので、日本史を、世界史の中に位置づけて理解すべきであると言うことである。
この本では、日本人の高等教育の低さ、旧制高校で培われていた教養重視教育の消失などと言った形で、欧米に比べて、日本人の教養程度が低くて、これが、日本を如何に損ねているかと言うことを執拗に語っている。
特に、太平洋戦争開始時期のリーダーの教養の低さを問題にしているのだが、その一例として、ノモンハン事件当時の陸軍エリートの知的退廃について、
「根拠なき自己過信」「傲慢なる無知」「エリート意識と出世欲が横溢」「偏差値優等生の困った集団が天下を取っていた」「底知れず無責任」を指摘している。
もっと、興味深いのは、今でも、この傾向が続いていると言う指摘で、
現在の安倍内閣でもそうで、内閣官房と言う小さなエリート集団が、外部からの情報や進言を一切寄せ付けずに、自分たちだけで動かしている。まさにノモンハンの時に、少数の参謀本部と関東軍司令部の少数エリートがやっていたのと同じで、このように少数のエリートが国の方向を決め、国民が何も考えずにそこへ向かって押し流されていくと言う構図は、ずっと同じである。と言っている。
さて、エリートと言う言葉だが、ウィキペディによると、
エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団のこと。・・・政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。と記述されている。
問題となる時には、真にエリートに値する人物が、エリートの地位にあるのかどうかと言うことである。
この本では、先進国では、大学進学率が高くてしかも大学でもものすごく勉強しており、大学院への進学率も高く、幹部になれば、修士号、博士号を、ダブル、トリプルで持っているのが普通である。と言っているのだが、
日本の政治のエリートは、それに伍すのは勿論のこと、「統治者に必要な資質を持っている」と言う絶対的条件を満たし、なおかつ、リベラルアーツの知的素養を備えた高潔な人材でなければならない、それであっても、少数集団の支配構造は、極めて危険であると、著者たちは言っているのであろうと思っている。
日本は特別な国と言う思い込みを捨てろ
なぜ戦争の歴史から目を背けるのか
日本が負けた真の理由
アメリカを通してしか世界を見ない危険性
世界の中の日本を知るためのガイドブック
日本人はいつから教養を失ったのか
である。
「世界史としての日本史」と言う書名にあるごとく、世界史的な視点から、日本史を見なければ、正しい日本の位置づけなり立ち位置が理解できないと言う視点からの日本論である。
たとえば、日本人は、ろくに勉強していないのに、なぜ戦後経済がうまくいったのかと言うと、それは、アメリカに追い付け追い越せと言うキャッチアップモデルがあったからで、これに、冷戦構造と人口増加が加わったからである。
日露戦争に勝ったのも、当時、ロシアは、第一革命騒ぎで、戦争どころではなく、日本軍の疲弊も極に達しており、ルーズヴェルトの仲介があったればこそである。
ペリーによる開国を迫られた時にも、アメリカは、南北戦争の最中であり、ヨーロッパ列強も、ボーア戦争などで手を取られるなど、日本に激しく対応できなかったので、中国の様にはならなかった。
と言った調子であり、また、蒙古の来襲による神風神話も、蒙古にとっては、余った戦力を差し向けただけで、勝っても負けてもどっちでもよかったのだと言われれば、白けてしまうのだが、幸運もあったと言うことであろうか。
ところが、司馬遼太郎の著作で感化された日本人は、美談に酔うと言うということでもあり、
実際のファクトが、メディアなどの情報に煽られて、どんどん極端な方向にスキューしていくと言う現実を、克明に語っていて興味深い。
尤も、「世界史としての日本史」と言っても、例えば、ウィリアム・H・マクニールの「世界史」など世界史の本を見ても、日本は殆ど出てこないので、日本史を、世界史の中に位置づけて理解すべきであると言うことである。
この本では、日本人の高等教育の低さ、旧制高校で培われていた教養重視教育の消失などと言った形で、欧米に比べて、日本人の教養程度が低くて、これが、日本を如何に損ねているかと言うことを執拗に語っている。
特に、太平洋戦争開始時期のリーダーの教養の低さを問題にしているのだが、その一例として、ノモンハン事件当時の陸軍エリートの知的退廃について、
「根拠なき自己過信」「傲慢なる無知」「エリート意識と出世欲が横溢」「偏差値優等生の困った集団が天下を取っていた」「底知れず無責任」を指摘している。
もっと、興味深いのは、今でも、この傾向が続いていると言う指摘で、
現在の安倍内閣でもそうで、内閣官房と言う小さなエリート集団が、外部からの情報や進言を一切寄せ付けずに、自分たちだけで動かしている。まさにノモンハンの時に、少数の参謀本部と関東軍司令部の少数エリートがやっていたのと同じで、このように少数のエリートが国の方向を決め、国民が何も考えずにそこへ向かって押し流されていくと言う構図は、ずっと同じである。と言っている。
さて、エリートと言う言葉だが、ウィキペディによると、
エリート(フランス語: élite)は、社会の中で優秀とされ指導的な役割を持つ人間や集団のこと。・・・政治学的には、統治者(層)に必要な資質を持っている、あるいは持っているとみなされている場合が多い。と記述されている。
問題となる時には、真にエリートに値する人物が、エリートの地位にあるのかどうかと言うことである。
この本では、先進国では、大学進学率が高くてしかも大学でもものすごく勉強しており、大学院への進学率も高く、幹部になれば、修士号、博士号を、ダブル、トリプルで持っているのが普通である。と言っているのだが、
日本の政治のエリートは、それに伍すのは勿論のこと、「統治者に必要な資質を持っている」と言う絶対的条件を満たし、なおかつ、リベラルアーツの知的素養を備えた高潔な人材でなければならない、それであっても、少数集団の支配構造は、極めて危険であると、著者たちは言っているのであろうと思っている。