見損なっていた映画「海賊とよばれた男」を、WOWOWで録画して見た。
沢山映画を録画していても、見ることは殆どないのだが、この映画は、珍しく、途中で途切れず最後まで見た。
石油の輸入・精製を手がける大手石油会社ながら、外資参入を拒否して民族資本で押し通した出光興産の創業者の出光佐三をモデルとした映画で、主人公国岡鐡造(岡田准一)の波乱万丈の人生と、時代の奔流にかく乱されて浮沈を繰り返す国岡商店の発展成長を活写した素晴らしい映画である。
悲惨な戦争が終わって廃墟と化した東京の焼け残った建物の中で、生き残った僅かな社員を前にして、鐵造が、「愚痴をやめよ、愚痴は亡国の声である。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と檄を飛ばして社員を鼓舞し、「誰も首を切らない」と解雇拒否を宣言する。この感動的なシーンから、この映画は始まる。
神戸高商を出ながら、従業員3人の神戸の酒井商会に入って丁稚として大八車に小麦粉を積んで神戸の町を歩くと言うのも驚きだが、鐵造の商売魂に共鳴した資産家・日田重太郎(近藤正臣)が、京都の別荘を売った大金・6000円を無償で提供すると言う信じられないような奇跡が、鐵造の起業をサポートする。
下関の漁業会社山神組に軽油を売ることになり、鐵造は、船首に仁王立ちして、社名を染め抜いた大幡を振り回して、伝馬船(手漕ぎ船)を使って船に接舷して、海の上で、山神組の漁船に軽油を納品する。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしない販売協定で、下関では売れないのだが、「海の上で売っているので、下関では売っていない。」と言い張って押し通し、黙認をよいことに、関門海峡を暴れて売りまくるので、国岡商会の伝馬線は「海賊」と呼ばれたと言うのである。
米国石油会社の強烈な圧力にも屈せず、合弁協定を一切拒否して民族資本を守り抜こうとする国岡商店に対して、「セブン・シスターズ」を中心とする国際石油カルテルは、一切の石油供給を停止したので、窮地に直面した国岡商店は、イランに、自社の2万トンタンカーを直接送り込んで、原油輸入を画策する。
ところが、当時、イランは、悲惨な経済状態から抜け出すために、石油国有化を実施したので、利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イギリス政府は、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕するなど、イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段で対処すると宣告し、セブンシスターズも、「イランの石油を輸送するタンカーを提供した船会社とは、今後、傭船契約を結ばない」と通告しており、イランに入港するタンカーは皆無であった。
イランの苦境は、国岡の苦悩であると檄を飛ばす鐵造の意気に燃えた日章丸(盛田辰郎船長(堤真一)は、イランを目指して日本を出港して、歓迎の出迎えでアバダンに入港して原油を積み込むが、帰途は、イギリス軍の基地のあるシンガポール経由のマラッカ海峡を避けて、遠回りしてスンダ海峡経由で日本に向かうのだが、途中で、英国軍船に停船命令を受けて突き当られながらも、無事に、川崎港に入港する。
この歴史を塗り替えた一連のシーンは、非常に淡白に淡々と描かれているのだが、当時の緊迫した国際情勢を反映していて、正に、感動的である。
この部分を、銘記するために、ウィキペディの出光佐三から、引用する。
1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。
この当時の欧米の多国籍企業の帝国主義的な経営戦略と言うか、国家をも巻き込んだ傍若無人の経営姿勢は、正に、利益追求のためには、進出先の経済社会を犠牲にしてでもと言った熾烈なものであった。
今日、多くの企業が、CSR(企業の社会的責任)に意を用い始めており、企業が追求する経済的価値(利益)と社会的価値を同時に実現する経営戦略を提唱するマイケル・E・ポーターの「CSV(共通価値の創造)」理論などは、いわば、驚天動地、青天の霹靂と言うべきであろうか。
とにかく、時代は変わったのである。
振り返ると、私が、ウォートン・スクールで学んでいた時、1970年代前半だが、インターナショナル・ビジネスの授業で、利益送金が困難なメキシコへの進出企業が、米国へ利益を送金するために、中古機械を子会社に送ってコストを水増しして回収すると言った手法など移転所得の問題なども含めて、強烈な米国流のMNC戦略を教えていたように思う。
それ以前の話であり、アメリカが世界制覇を実現した直後であり、多国籍企業でも最も強力で傍若無人なセブンシスターズ相手の戦いであったから、国岡商店にとっては、如何に熾烈で困窮を極めた戦いであったかは、追って知るべしであろう。
それに、新規参入を排除したい既存企業や国策会社の嫌がらせ抵抗は、もっと激しかった筈で、この映画では描き切れなかった多くの試練があった筈で、国岡鐵造、すなわち、出光佐三の果敢な経営者魂とその経営手腕に、深く敬服せざるを得ないと思って、映画を見ていた。
私自身は、日本がJapan as No.1の恵まれた時代に、欧米で戦っていたのだが、それでも、色々苦しいことがあったのを思い出しながら、当時を反芻していた。
沢山映画を録画していても、見ることは殆どないのだが、この映画は、珍しく、途中で途切れず最後まで見た。
石油の輸入・精製を手がける大手石油会社ながら、外資参入を拒否して民族資本で押し通した出光興産の創業者の出光佐三をモデルとした映画で、主人公国岡鐡造(岡田准一)の波乱万丈の人生と、時代の奔流にかく乱されて浮沈を繰り返す国岡商店の発展成長を活写した素晴らしい映画である。
悲惨な戦争が終わって廃墟と化した東京の焼け残った建物の中で、生き残った僅かな社員を前にして、鐵造が、「愚痴をやめよ、愚痴は亡国の声である。戦争に負けたからと言って、大国民の誇りを失ってはならない。すべてを失おうとも、日本人がいるかぎり、この国は必ずや再び立ち上がる日が来る」と檄を飛ばして社員を鼓舞し、「誰も首を切らない」と解雇拒否を宣言する。この感動的なシーンから、この映画は始まる。
神戸高商を出ながら、従業員3人の神戸の酒井商会に入って丁稚として大八車に小麦粉を積んで神戸の町を歩くと言うのも驚きだが、鐵造の商売魂に共鳴した資産家・日田重太郎(近藤正臣)が、京都の別荘を売った大金・6000円を無償で提供すると言う信じられないような奇跡が、鐵造の起業をサポートする。
下関の漁業会社山神組に軽油を売ることになり、鐵造は、船首に仁王立ちして、社名を染め抜いた大幡を振り回して、伝馬船(手漕ぎ船)を使って船に接舷して、海の上で、山神組の漁船に軽油を納品する。当時、元売りの日邦石油の門司の特約店は対岸の下関では商売をしない販売協定で、下関では売れないのだが、「海の上で売っているので、下関では売っていない。」と言い張って押し通し、黙認をよいことに、関門海峡を暴れて売りまくるので、国岡商会の伝馬線は「海賊」と呼ばれたと言うのである。
米国石油会社の強烈な圧力にも屈せず、合弁協定を一切拒否して民族資本を守り抜こうとする国岡商店に対して、「セブン・シスターズ」を中心とする国際石油カルテルは、一切の石油供給を停止したので、窮地に直面した国岡商店は、イランに、自社の2万トンタンカーを直接送り込んで、原油輸入を画策する。
ところが、当時、イランは、悲惨な経済状態から抜け出すために、石油国有化を実施したので、利権を失ったイギリスの国営会社アングロ・イラニアンは猛反発し、イギリス政府は、イランの原油を積んだイタリアのタンカーを拿捕するなど、イランの石油を購入した船に対して、イギリス政府はあらゆる手段で対処すると宣告し、セブンシスターズも、「イランの石油を輸送するタンカーを提供した船会社とは、今後、傭船契約を結ばない」と通告しており、イランに入港するタンカーは皆無であった。
イランの苦境は、国岡の苦悩であると檄を飛ばす鐵造の意気に燃えた日章丸(盛田辰郎船長(堤真一)は、イランを目指して日本を出港して、歓迎の出迎えでアバダンに入港して原油を積み込むが、帰途は、イギリス軍の基地のあるシンガポール経由のマラッカ海峡を避けて、遠回りしてスンダ海峡経由で日本に向かうのだが、途中で、英国軍船に停船命令を受けて突き当られながらも、無事に、川崎港に入港する。
この歴史を塗り替えた一連のシーンは、非常に淡白に淡々と描かれているのだが、当時の緊迫した国際情勢を反映していて、正に、感動的である。
この部分を、銘記するために、ウィキペディの出光佐三から、引用する。
1953年(昭和28年)5月9日 イラン石油輸入{日章丸事件:日章丸二世(1万9千重量トン)が、石油を国有化し英国と係争中のイランのアバダンから、ガソリンと軽油を満載し、川崎へ入港}。英国アングロイラニアン社(BPの前身)は積荷の所有権を主張し、東京地方裁判所に提訴したが、出光の勝訴が決定し、日本国民を勇気付けるとともに、イランと日本との信頼関係を構築した。このとき、佐三は、東京地方裁判所民事九部北村良一裁判長に「この問題は国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として俯仰天地に愧じない行動をもって終始することを、裁判長にお誓いいたします。」と答えた。
この当時の欧米の多国籍企業の帝国主義的な経営戦略と言うか、国家をも巻き込んだ傍若無人の経営姿勢は、正に、利益追求のためには、進出先の経済社会を犠牲にしてでもと言った熾烈なものであった。
今日、多くの企業が、CSR(企業の社会的責任)に意を用い始めており、企業が追求する経済的価値(利益)と社会的価値を同時に実現する経営戦略を提唱するマイケル・E・ポーターの「CSV(共通価値の創造)」理論などは、いわば、驚天動地、青天の霹靂と言うべきであろうか。
とにかく、時代は変わったのである。
振り返ると、私が、ウォートン・スクールで学んでいた時、1970年代前半だが、インターナショナル・ビジネスの授業で、利益送金が困難なメキシコへの進出企業が、米国へ利益を送金するために、中古機械を子会社に送ってコストを水増しして回収すると言った手法など移転所得の問題なども含めて、強烈な米国流のMNC戦略を教えていたように思う。
それ以前の話であり、アメリカが世界制覇を実現した直後であり、多国籍企業でも最も強力で傍若無人なセブンシスターズ相手の戦いであったから、国岡商店にとっては、如何に熾烈で困窮を極めた戦いであったかは、追って知るべしであろう。
それに、新規参入を排除したい既存企業や国策会社の嫌がらせ抵抗は、もっと激しかった筈で、この映画では描き切れなかった多くの試練があった筈で、国岡鐵造、すなわち、出光佐三の果敢な経営者魂とその経営手腕に、深く敬服せざるを得ないと思って、映画を見ていた。
私自身は、日本がJapan as No.1の恵まれた時代に、欧米で戦っていたのだが、それでも、色々苦しいことがあったのを思い出しながら、当時を反芻していた。