熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

「井上道義&村治佳織 with 都響」を聴いて

2017年11月23日 | クラシック音楽・オペラ
   大田区民ホール・アプリコで、「井上道義&村治佳織 with 都響」があったので、出かけた。
   久しぶりに、村治佳織のギターを聴いて、「アランフェス協奏曲」を聴きながら、スペインの思い出を反芻したいと思ったのである。
   何度か、仕事や家族旅行で、スペインを訪れていたので、このギター協奏曲を聴いていたく感動したのを覚えている。

   本日の「井上道義&村治佳織 with 都響」は、

   指揮/井上道義 ギター/村治佳織
   曲目
   ロドリーゴ:小麦畑で(ギター・ソロ)
   ロドリーゴ:アランフェス協奏曲
   チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64
   アンコール:フランシスコ・タレガ:アルハンブラの思い出
   
   随分前のことになるが、ロンドンにいた時、指揮者は、コリン・デイヴィスだったか、チルソン・トーマスだったか、誰だったか覚えていないが、ロンドン交響楽団で、ジュリアン・ブリームのアランフェス協奏曲を聴いた。
   その次に聴いたのは、6年前の都響定期で、アラン・ブリバエフの指揮で、この村治佳織の「アランフェス協奏曲」そのものであった。
   村治佳織は、2013年7月22日、舌腫瘍に罹患していることを公表し、治療のために長期休養に入っていたが、今回は、全快しての復帰公演で、初めて、井上道義との共演が実現したと言うのだが、益々、円熟味の増した艶のある感動的な演奏で、観客を魅了した。

   切戸から颯爽とギターを持って現れた村治佳織は、グリーンがかった濃いシックなコバルトブルーの腰がキュッとしまった丸首のゆったりした衣装に、白いバレリーナ風のふんわりとしたスカートを身に着け、三連の真珠の首飾りが微かに光る、短く切りそろえた髪型が実に優雅で、(このあたり、知識不足で上手く表現できないのだが)、とにかく、実に美しいのである。
   殆ど終曲に及び始めた頃、左足をベンチに置いてギターを抱えて夢心地で華麗なサウンドを奏でる村治佳織の姿が、弁財天の彫像に重なったような錯覚を覚えて、はっとした。
   前方、やや、右手の座席にいたので、都響楽員の演奏よりも、村治佳織のギター演奏と、華麗な井上義道の指揮ばかりを観ていたのだが、曲そのものは、イエペス(ナルシソ) やウィリアムス(ジョン) のレコードやCDを聞き込んでいたので、正に、懐かしさを反芻しているような感じで聴いていた。

   私は、クラシック音楽ファンとして、殆ど半世紀で、欧米を含めて随分コンサート行脚を続けてきたが、音楽については、音楽の”お”も分からない程音楽音痴だが、その音楽を聴くと、偶々、海外経験が長いので、その背景の風土や故地への思いなど、想像の世界で鑑賞しようとしてしまう。
   
   アンコールで、タレガの「アルハンブラの思い出」を演奏した。
   アランフェス協奏曲もそうだが、このギターの音を聞くと、色々な苦衷に喘ぎながら激しくも奮闘していたヨーロッパ時代を思い出して、何故か、無性に胸を締め付けられるような郷愁に似た気持ちに襲われて、不覚にも、つい涙してしまう。
   実際に、企業戦士として戦っていたのは、英仏蘭なのだが、私には、何故か、スペインの風土が無性に郷愁を誘う。
   このアルハンブラには、何度か訪れており、このグラナダからコルドバまでタクシーで走ったり、コルドバからマドリードまでTEEに乗ったり、マドリードからサラマンカやセゴビアまで車で走るなど、田舎を見る機会があったし、都会もそうだが、とにかく、スペインは、他のヨーロッパとは違った異様な地形やエキゾチックな風景が随所に展開していて、たまらなく、胸に迫るものがあった。

   全く、関係ない話ながら、
   信じられないのだが、アフリカに近いグラナダの背後のネバダの山の中で、「ドクトルジバゴ」の極寒のシベリアのシーンのロケをしたと言う。
   南アメリカを征服して、金銀財宝を無尽蔵に持ち込み世界最強の国家として君臨しながらも、経済発展を遂げられないような体たらくの後進国に成り下がったスペイン。
   米国や南米にいたので、よく知っているが、スペインの中南米に残した足跡の凄さを思えば、スペインのチグハグぶりは、驚異ででさえある。
   今、バルセロナで揉めているが、私は、そんなスペインが、無性に好きなのである。
   
   さて、井上道義の「チャイコフスキー:交響曲第5番 ホ短調 op.64」
   凄い演奏で、指揮者会心の演奏とも言うべき素晴らしいチャイコフスキーであった。
   ギター協奏曲では、華麗にタクトを振っていた井上が、この5番になると指揮棒なし。
   とにかく、握りこぶしを振り上げて仁王立ち、激しくロコモティブの様に腕を前後に振り回したり・・・激しい全身運動で指揮を取るのであるから、指揮棒があっては、指揮できるはずがない、と言うことであろう。
   しかし、終曲に近くなり、ダイナミックに移り始めると、穏やかな指揮姿に戻って、都響を頂点に導いて歌わせていた。
   以前、カラヤンが、ベートーヴェンの運命の指揮途中で、指揮棒が折れて吹き飛んで、その後、指揮棒なしの華麗なタクト裁きを続けた演奏会を見たことがあるが、最近では、小澤征爾もそうだが、指揮棒なしで演奏する人が多くなった。
   これも、井上とは違って、昔、エルネスト・アンセルメが、殆ど指揮棒を振らずに直立不動に近い姿勢で、スイスロマンドを華麗に歌わせていたのを見たが、指揮者夫々であって面白い。

コメント
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