(オリンピック招致の失敗について)
石原氏の小説は一冊も読んだことがない。正確にいえば一行も読んだことがない。したがって批評する材料がない。
わたしが彼をよし、とするのは従来の政治的言動である。主としてテレビ、新聞に報道される彼の言辞である。まれに雑誌座談会の記事を見たこともある。
彼の文章はあまり読んだことがないが、政治的パンフレットのようなことを産経新聞に連載していて、前に何かで読もうとしたことがあるが、はっきり言って文章として感心しないし、インパクトもない。ま、それが石原氏の文体なのだろう、政治的パンフレットにおいて。
「日本よ」と題された産経新聞のコラムである。
さて、オリンピック招致失敗について、石原氏が批判に反発しての発言がここのところ報道されている。ひどいものだとは前にここで書いたが、今日の産経の彼の連載欄「日本よ」に招致問題についての文章が出ている。礼儀として今度は一応目を通した。
おかしいね。アルファからオメガまでおかしい。オリンピック招致活動が学芸会のような最終プレゼンで決まるわけがない。「あるべき」論ではなくて現実論である。こんなことは招致活動を主唱するなら当然わきまえていなければならないことだ。
石原氏もどうやらわきまえてはいるらしいのだが、小学生の理想論のように非難ばかりしている。招致活動をしなければそれでもいい。膨大な税金を使って活動するなら当然そういう活動の渦中に入る覚悟と段取りがなければいけない。いまさら女学生のようなことを言われても困る。
産経の文章には、「国連という怪しげな組織」と書きながら女学生の理想論で自己の免責をはかる。自分の値段を下げるようなことはやめたほうがいい。国連が怪しげな組織でわいろで後進国の多数票が動くなら(そういうところがあるのは歴然としているが)、オリンピック組織などもっとひどいと認識するのは常識であろう。
それを招致活動に飛び込みながら、負けたからその非難にいまさら使うなど女々しいかぎりである。
それと文章の冒頭に、かっての東京オリンピックから40年もたって勝手が分からないほど事情が変わったと弁解しているが、これが通用するのか。日本は東京オリンピック以来冬季大会は札幌、長野と二回招致している。
また失敗したが、名古屋、大阪が招致活動をしている。したがって経験は十分に蓄積されていたはず。それを活用できなかっただけだろう。石原くんは謙虚に虚心坦懐にこれらの経験諸都市の関係者やJOCの関係者の意見、経験を聞いたのか。
そういえば、2016年の招致には早くから福岡市が名乗りを上げていた。それを後から強引にひっくり返して東京にしたのは、道義にかける行為だった。上記の地方都市が石原くんに協力してくれたか。頭の高い彼には謙虚に先輩の意見を聞く度量がないのかもしれない。
それを40年ぶりでさっぱり事情が分からなかった、と浦島太郎みたいなことを白々しくいうな。ロビンソン・クルーソーを気取るな。
また、IOCには日本人の委員がいて毎回の招致で開催希望国からアプローチされている。まさに彼らは常住、招致活動の渦中にいる当事者である。彼らの経験を真摯に聞く態度が石原氏にあったのか。
& 百歩譲って浦島太郎状態だったとしよう、一体何年招致活動の余裕があったのだ。前の任期から数年の余裕があったではないか。招致活動の第一歩は情勢分析であり戦略の基礎分析だ。その段階で150億円の百分の1以下の費用で情報収集が出来ただろうに。
150-200億を費消したあとで、数年の時間を浪費した後で、40年前の経験しかなかったと言うのは犯罪者的で許されない。あえて許されるのは心身消耗の障害者が殺人犯罪の刑を免れるケースだけだ。そうなのかね。
次号につづく