前文 次の二つの記事の比較から出てくるものを検証する。
9月1日産経1面昭和、天皇のお人柄「伝えたかった」 富田メモ公表 夫人語る(一のニ)
諸君10月号 上坂冬子 「富田メモ」 夫人を訪ねて(一の四)
インタビューの日時はいずれの記事にも示されていないが、上坂氏のものが早いと考えられる。また分量も多いから上坂氏の文章をもとに比較する。
一の四の一
上坂氏のところへ冨田夫人からの封書が届いたのは7月22日という。質問状というか詰問状だったらしい。便箋4枚に女子大生のような勢いのいい字で、びっしり書かれていたそうだが、上坂氏は簡単に要約して紹介しているだけだ。要約してみると大した内容ではなかったのかもしれない。
日経に富田メモがスクープとして出たのが7月20日の朝刊。その記事を読み、マスコミ各社が安易に日経の記事を受け入れているのに危惧を抱いた上坂氏が同日産経に原稿を送ったのが翌日21日の産経正論欄にのった。その翌日22日の日付で富田夫人が詰問状を出している。手回しがよいというか、素早い反応におどろく。しかも手紙を出す前に、夫人は上坂氏の靖国問題についての本を書店に買いにやらせて一晩で読了したうえで質問状を書いたというのである。81歳の老婆というが、その敏捷さ、エネルギーには驚く。ある意味ゾンビのようで不自然さを感じさせる。
プロの作家というものは、意に満たない文章を書くときには、それとなく文章にそのことをにおわすテクニックがある。読むほうが気がつかなければそれまでだが。もっとも、執筆者がその自分でも不満を意識せずに、結果として文章に現れることもある。この文章にも随所にそのような引っ掛かりを見つける。上記の経緯を書いたあたりにもそんなニュアンスを感じた。
インタビュー場所は「鬱蒼と木々の茂る山荘で」とある。ここでも富田家の別荘となぜ書かないのか気になる。「ブルーのマニキュアがよく似合う」そうだ。これもそこで「。」だが、作者の言外の意を感じなければなるまい。なお、上坂氏は手紙を受け取って連絡しようとして大分探したらしい。つまり手紙の住所ではそのころから連絡がつかなかったということだ。
夫人の言葉の引用は産経新聞では上坂氏の文章の四分の一以下なのに、8箇所に及ぶ。上坂氏の文章ではメモの内容と関連した直接引用は二箇所のみである。これも引用するほど内容のあるものがないと上坂氏が判断したのだろう。上坂氏の文章は間接的な方法で夫人の異様さを背後から光を当てて浮き立たせる意図が感じられる。表面的にはそんな表現は全く無いが。
上坂氏との対談は四時間にもわたったそうだが、諸君の記事はわずか4ページ、対談の内容はほとんどない。上坂氏も処置なしの発言ばかりだったのではないか。夫人の面子をつぶさないようにようやく4ページまで膨らましたという感じだ。
ところで7月21日の産経正論欄を読んだ。産経は日経と違ってネットに載せてくれているのは感心である。上坂氏の文章はあまりに安易に昭和天皇の言葉としてマスコミの裏書を得てこの情報が通用して政治的議論に利用されることを心配するものであった。
つまり、メモをだした富田家や夫人を非難しているわけでもない。この記事を読んで、作者の本を取り寄せて研究し、翌日に長大な詰問状を出す衝動にかられるようなものではないということだ。富田夫人というのはよほど偏狭な性格で自己主張が強く、自分が日経に渡したメモが20日の日経に出ることを事前に知っていて、全新聞、全テレビの報道に神経を尖らせていたとしか考えられない。
しかも産経はマイナーな新聞である。産経まで目をとおすということは他の全紙にも目を走らせていたということだろう。普通の家庭ではしないことだ(産経さん、ごめんなさい)。
これがすでに異様なことである。81歳の老婆にとっては。ご本人は記事が出たあと、はやくも所有者不明の豪勢な山荘に潜んで気に入らない記事には文句をつけようと待機をしていたということになる。
夫人のコメントそのものについては長くなったから別の機会にするが、彼女の頭を疑わせるものが多い。産経がわざわざ見出しにした昭和天皇お人柄伝えたかったというのはどういう神経だろうね。