先月のNHK特集「終戦 なぜ早く決められなかったか」は、新しく発見された資料を基にした、極めて興味ある内容であった。
ドイツが降伏した5月以降、日本は降伏への道を模索していた。しかし軍部はこぞって、本土決戦を国民に訴えていた。既に沖縄では悲惨な地上戦が始まっていた。
終戦への道を模索する鈴木貫太郎首相は、軍のトップと政府のトップの6者会談を始めていた。政府は、ソビエトに終戦の間を取り持つよう模索し、アメリカに一撃を加え、本土決戦を国民に鼓舞していた。
NHKの入手した資料では、この時既に軍部は、7月になるとソビエトが参戦する情報を得ていたのである。軍部はこの決定的に重要な情報を、首相に伝えなかった。6者会談は、縦割りの官僚体制を克服するためのものであったが、空手形に終わったのである。
この時、ヤルタ会談の密約であるソビエトの参戦を知っていて、少なくとも6月に終戦を迎えているとどうなったいたか?
まず、原爆投下はなかった。7月末にやっと完成していたからである。北方領土問題、シベリヤ抑留はまじ起きなかった。残留孤児もほとんど起きなかったであろう。
国内の空襲がほとんどなかったであろう。6月に終戦を迎えていれば、200万人ほどの死者を抑えることができた。
それでも軍部のトップは、原爆が2発落とされても本土決戦を模索し、天皇の終戦放送のレコード奪還を試みていた。
この構図は、先ごろ生じた東電の福島原発に関わる事故処理のドタバタとかなり重なる。日本のお役人は、建前と自らの立場を現実に優先させ、保身を図る。何も進歩していない。