ロシアのプーチン大統領が敵なしである。今回のウクライナの政変でさらに、国内の維持基盤を固めたと言える。
プーチンの政敵や批判的なジャーナリストたちが次々と不振の死を遂げたり、財閥とのつながりが取りざたされるが、「強いロシア」を掲げるプーチンは、ソビエトの崩壊で行き場のなくなったロシア国民の心をしっかり
と掴んだと言える。
プーチンの強権的、独裁的な手法は次第にスターリンに似てきた。スターリンは、1922年から1952年の30年少々政権の頂点に就いていた。この長さを支えたのは、強権的、独裁的な政治手法のが支えた。
プーチンは、2000年に大統領に就任し2期を務めた後、1期メドベージェフに大統領を任せ本人は首相であったが、実権はプーチンにあった。その間に大統領の任期を6年に延ばした。
こうしてプーチンは、多分最大期間として2000年から2024年まで権力の座にいることになるであろう。24年になる。
スターリンは、1945年2月に自国のクリミアのヤルタで、終戦処理の会談を開いている。アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、そして蒋介石の代理と名目だけの中国である。
この半年後の7月には、敗戦したドイツのベルリン郊外で、ポツダム会談を開催している。これを仕切ったにもスターリンである。この間にルーズベルトは死去している。チャーチルは、選挙で負けて政権の座を追われている。中国は実質不参加である。ヤルタからつないでいるのは、スターリンだけである。
この時はまだ、ソ連と日本は不可侵条約を破棄してはいない。スターリンが仕切りながらも、ポツダム宣言にソ連の名はない。
ウクライナの政変は、悪政の評判高かったクチマの後継の支援を行ったのが、就任間もないプーチンである。プーチンが推したヤヌコービッチが当選はしたが、オレンジ革命という街頭デモで失脚した。その後14年にわたり、ウクライナのEU化をプーチンは阻止続けている。
この間に、欧米はもちろん世界の権力者は次々交代している。プーチンは財政的にクリミアを縛り、東部の工業地帯の経済支援を行い取り込んできた。プーチンはスターリンを倣ったのではないかもしれないが、この国を治めるには同じ手法になった。
クリミアが自主投票でロシアに編入したというなら、チェチェンや南オセチアでも同じことをやればいい。プーチンは全く逆のことをやっている。ダブルスタンダードであるが、いずれもロシアという国家のためである。しかしこれでは、ロシアという国家を強くするばかりで、国民の自由もなければ、周辺国に隷属を強要するばかりとなる。