安倍首相が執念のように取り組む”集団的自衛権容認”であるが、どう見ても唐突感が拭えない。国会答弁で15例の不自然さを突かれて、「あらゆる事態を考えなければ、安全保障は担保出来ない」と答えていた。
この空論と思えるたった15例の机上論の前に、やっておかなければならないことがあったはずである。個別的自衛権の論議である。ただ単に、本来どの国家も所有する権利であるとの説明以外に、ほとんど行われていない。
ましてや事例を挙げて、個別的自衛権の行使についての検討すら聞いたことがない。公明党が、自民党の挙げた事例の多くは、個別的自衛権か警察権で十分対応できると主張しているの、ももっともな話である。
国連では、「個別的自衛権とは、他国からの武力攻撃に対し、実力をもってこれを阻止・排除する権利である」と規定している。もっともらしい自衛権であるが、世界各国の好戦的指導者が、頻繁に乱用している。
我が国は攻撃されているという、恐怖か思い込みが軍事力行使へとなる。たとえば北朝鮮であるが、アメリカから敵視され韓国から攻撃されるため、核兵器を開発し瀬戸際外交を繰り返す。この国が自衛のために開発する核兵器も、韓国への挑発行為も自衛権の範囲と言えるのだろうか?
あるいは、アメリカの行ったアフガニスタン攻撃やイラク侵攻すら、9.11の反撃=自衛なのだろうか?アメリカは自衛の理由がなければ、ねつ造する。旧日本軍も事件をでっち上げている。
アル・カイダやボコ・ハラムですら、ヨーロッパ文明からの自衛だと主張する。
すなわち、個別的自衛権ですら単なる戦争理由で、どの国もが国連で謳われていると主張する。個別的自衛権ですら、このような好戦的な意味を持つ。ましてや複数国家が絡み合う集団的となれば、推して知るべしである。