詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

瀬尾育生「分割」

2012-02-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
瀬尾育生「分割」(「雷電」1、2012年01月25日発行)

 瀬尾育生「分割」を読みながら、この作品の感想を書くのはむずかしいなあ、と思った。ことばの次元が私のことばの肉体と合わないのである。

時間の地層が二十八世紀になる。
ヤコブは傍らに人がいることに耐えられない病気だ。
神の文字の見張り人はおまえにふさわしい官職だが、
残された者にはくりかえし恐ろしい夕ぐれが襲うだろう。
もし人が「待つこと」をやめたら……。
地の分割がすべての執務をむなしいものにする。
どんな政治も収税も
どんな祭儀も集会も、どんな修理も建築も、
家畜の小屋の毎夜の藁屑掃除さえ。
九千の恐ろしい夕ぐれのなかを人は遠ざかってゆく。

 これは書き出し。「神の文字」とは聖書だろう。私はキリスト教徒ではないので、聖書は読んだことがない。ヤコブについても知らない。そのことが、この詩をむずかしく感じさせるのではない。--というと、かなり語弊があるのだが……。たしかにキリスト教について、あるいはヤコブについて知っていたら、「意味」がわかりやすくなるとは思うのだが……。
 まあ、面倒くさいので、省略して書いてしまうと。
 ここには「ヤコブ」の矛盾が書かれている。「神の文字の見張り人」は「神の文字を見はる」と同時に「神のことばを伝える」こともするだろう。けれど、そのとき「ヤコブ」のなかで「分割」が生じるのだ。「土地の分割」(国境?)のように、「ひと」の分割がはじまる。ヤコブに属する(?)人、そうではない人。--これは致し方のないことなのだけれど、でも、結果的には「神の文字(ことば)」に、その「分割」は矛盾しないか。矛盾する。だから、ヤコブの苦悩がある。
 --ということを(と、私は勝手に「誤読」するのだが)、瀬尾は、独自の論理性のなかに閉じ込めてことばを動かす。完結させる。別な言い方をすると、瀬尾にとって重要なのは、ことばの運動(論理)を矛盾なく構築することであり、それはどんなに「対象」を描いても、彼の内部でしかない。瀬尾の判断でしかない、ということだ。
 あ、なんのことか、わからないね。いや、私にも、どう書いていいかわからない部分があり、こんな変な言い方になるのだが。

 瀬尾にとっては、「真実(と仮に呼んでおく)」はたった一つしか存在せず、それはことばの運動の論理性であり、それは瀬尾の判断で完結するという特徴を持っている。ここに書かれている「ヤコブ」は一つの「真実」である。ややこしいのは「ヤコブ」が「人間」であり、「真実」というのは「人間」のように「具体」ではなく、いわば「抽象」であることだ。「具体」と「抽象」の「結合」があり、それを瀬尾は「知性の力(論理)」でのみ構築しようとする。

 書きながら、だんだん頭が痛くなってくるが--これって、「日本語の文体」じゃないね。「これ」というのは「私の文体」ではなく、「瀬尾の文体」のことだけれど。
 直感で言うのだけれど、「ドイツ語の文体」だね。「ドイツ哲学の文体」だねえ。私はカントもヘーゲルも1-2ページくらいしか読んだことがないから、いいかげんなことを書いてしまうのだが、ことばを自分で定義して、その定義に従って「論理」を作り上げていく。「知性」がそのままことばの運動のエネルギーであり、「実体(?)」でもあるという文体。
 で、こういう文体には、なんといえばいいのだろうか、「批判」というものが通用しない。それ自体で完結することを目指しているのだから、どんな批判もその文体にとってはあらかじめ排斥したものだからである。
 どんな批判も「矛盾」でしかないからである。
 あ、このときの「矛盾」というのは、その「批判」を組み込めば「論理」が成り立たなくなるという純粋に「論理上の矛盾」なのだけれど、このときの「論理上の矛盾」というのは、瀬尾の自己判断だね。

 なんのことか、わからないでしょ? 私の書いていること。まあ、いいや。私だけのための「メモ」だね、きょうの「日記」は。

 で、この強さ--それが「強引」ならいいのだけれど、つまり、簡単に「嫌い」と言えばすむのだけれど、瀬尾の場合、「強引」ではなく、「強靱」になっている。
 ことばの「強靱さ」。
 論理も強靱なのだけれど、論理以前の、それぞれのことばの強靱さが、不思議な形で迫ってくる。それに圧倒される。
 それは私の「肉体」には合わないのだけれど、合わないがゆえに、圧倒され、あ、ここに「特権的な力(詩人の力)」があると感じてしまうのだ。

どんな政治も収税も
どんな祭儀も集会も、どんな修理も建築も、
家畜の小屋の毎夜の藁屑掃除さえ。

 この抽象と具象のリズム。

 それから「恐ろしい夕ぐれ」ということばの繰り返しの罠。ことばは繰り返されると、そこに必然的に論理(意味)を引き寄せる。繰り返しは、ことばを「二重」にすることであり、その緊張感のなかに、いままで存在しなかった何かが「意味」となって結晶するというのが、あらゆる「論理の構造」である。

おまえは末端におり、
おまえは種族の戸口の外におり、おまえは
存在が中空に向かって開く部分であり、
路傍でとつぜん
横倒しになって息絶える死だ。その傍らに
「二人の人間を収容できる
ひとつの遠近法はけっして存在しない」
と書かれている。

 「おまえ(ヤコブ)」の、世界とのかかわり。「部分」の複数化。「部分」の集合が、それでは「ヤコブ」かというと、あるいは瀬尾の「論理」かというと--うーん、違うんだろうなあ。「ひとつの遠近法(哲学/神)」はそれ自体で完結する。「分割」され得ないから「哲学/神」。

 「ひとつ」というとき、たぶん瀬尾は「知性」で「ひとつ」をとらえている。「ひとつ」は、私の場合どうしても「肉体」に向かってしまうが、瀬尾は「知性」なんだろうなあ、「純粋論理」なんだろうなあ、とふと、思った。

 きょうの「日記」も感想というよりも、思いついたことの「メモ」になってしまった。


アンユナイテッド・ネイションズ
瀬尾 育生
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