詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『島嶼論』(2)

2012-02-20 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(2)(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 「コホウを待ちながら」という作品が、この詩集の中では、私はいちばん好きである。おもしろいと感じる。

コホウはやってくるだろうか

稲田の境に立つ柿の葉のそよぎ
穴井の底の水影のくらいゆらぎ

こうして旅のなかぞらに
途方にくれて
コホウを待つ

くさつつむ いしのつか
ひとも うまも
みちゆきつかれ
コホウのやってくるのを
待っていたのだろうか

コホウのことはわからない
素性を隠した神仙の名のようにも思えるが
路傍の小さな祠に住む名もなき神のしわぶきにも聞こえる

 「コホウ」とは何なのか、だれ(?)なのか、私はもちろん知らない。知らないことを知らないまま、かってに「誤読」して書くと、無知、あるいは低能という批判があっちこっちからやってくるのだが、知らないことは知らないので、私はしようがないと思っている。「辞書」か何かで調べれば何かがわかるかもしれないが、それはどっちにしろ「知る」こととは別問題。「辞書」や「文献」で調べたことは「知ったつもり」になるだけなので、始末に悪い--と私は思っている。で、知らないことは知らないまま、知っていることを書いていく。わかることを書いていく。
 この詩で何がわかるか。
 「コホウ」について、時里は「神のしわぶきにも聞こえる」と書いている。ここがおもしろい。この部分に、私の「肉体」は反応する。「コホウ」。そうか、しわぶき、咳か。「コホン」コホッ」なら軽い咳払いかな? そのとき「ン」「ッ」は聞こえるようで聞こえない。「コホウ」の「ウ」を時里は「ン」「ッ」のように聞こえるような、聞こえないような音としてとらえているんだな、とわかる。
 私は黙読しかしないが、その私の黙読でも、「ウ」は「ホ」のなかに消えるようにすいこまれていく。「コホー」がいちばん近い音だろうか。「ン」や「ッ」の伸びる音ではなく断ち切られる音だから、ほんとうは違うものである。でも、明確な形を持たないまま、消えてしまうという点では似通っているかなあ。
 --というようなことは、「意味」とは無関係なことがらなのだけれど、この「神のしわぶきにも聞こえる」ということばを読むとき、私の「耳」と「のど」は、ぐいっと時里に近づく。そして、「コホウ」という音が私の肉体の中で響く。
 ここから、私の「わかった(わかる)」という実感が生まれる。実感といっても、もちろん私の実感なので、私が感じていることが時里の感じていることと同じであるという保証は何もない。ようするに私の「誤読」である。--でも、私は、その「誤読」を手がかりにことばを読むのである。
 詩のつづき。

すべなくて
小さくコホウと呼べば
いっそうさびしい現身(うつそみ)のわれとなり
かつて<コホウ>と口うつしに言わせた少年の
うすいくちびるのかたちに開いた
あけびの花の香のする方へ
わが旅程はねじれ

 「神のしわぶきにも聞こえる」その音を、声に出す。「コホウを呼ぶ」。そのとき「肉体」がかわる。「いっそうさびしい現身のわれとなり」。「現身」というのは、この世に生きている人間くらいの「意味」だと思うけれど、その「現身」のなかにある「身」の文字が、私には「肉体」そのものを指しているように感じられる。「意識」ではなく「肉体」。
 「コホウ」と声にする。そうすると、その声は肉体に働きかけて、いままでとは違った肉体がそこに出現する。「われとなり」の「なる」が、出現するということ。その「肉体」は「いっそうさびしい」。それは「コホウ」が誰かわからず、コホウがやってこないからでもあるのだが、コホウがやってこないのはコホウが私になってしまったからでもある。この、誰かを待っていて、待っているひとが来ないさびしさがコホウの「肉体」なのかもしれない。
 ここには不思議な「肉体」の共有がある。重なり合いがある。「神のしわぶき」という「無意味」なもの。その無意味を具現化する神の肉体。その肉体とコホウと「われ」(時里と、かりに書いておく)が「一体」になる。
 「コホウ」という音をとおして、まったく別の存在がひとつになり、そしてまた分かれていく。そういう瞬間が、ここにある。
 そして、それはまた別の「肉体」を呼び起こす。「<コホウ>と口うつしに言わせた少年の/うすいくちびる」。口移しに言わせたのは「コホウ」自身か、あるいは「われ(時里)」か。どちらでもいいが、「われ」と読んでおく。
 「口うつし」とは、ことばを言って、それを復唱させることだが、そのことに「うすいくちびる」ということばを重ねあわせると単なる「復唱」を越えるものが浮かび上がる。実際にくちびるを重ね、そのくちびるの薄さを実感する--そういうあやしいげな肉体の動きも見えてくる。
 --こういうことは、書いてないといえば書いてないのだが、そういう書いてないことを「肉体」は知っている。「肉体」は感じてしまう。
 そして、その「肉体」のまわりでことばはねじれる。「純粋な意味」を失い(抽象的な意味を失い)、「肉体」そのものが知っていることだけを呼び寄せる。
 「あけびの花」を私はいま思い出すことができない。たしか同級生の家の庭にはあけびの木があって、実際、そのあけびをくすねて食べたことは何度もあるが、花は思い出せない。そのかわり、むらさきのあけびがぱっかり開いた口(それは私には「少年」というよりも「おんな」の性器だけれど)、そしてその腹のなかにある白濁した種、あるいは透き通った種(これは「少年」の噴出した精液のかたまりのようにも感じられる)が、セックスを想像させる。肉体の交わりを想像させる。
 実際に、その「少年」と「われ」の間に肉体の交渉があったかどうかは、どうでもよくて、たとえそれが想像だけだとしても、その想像は「逸脱」である。そして「逸脱」は「旅程のねじれ」(ゆがみ)でもある。

 実際にあったのか、なかったのか。なかったとしても、こういうことばを読めば、「肉体」は、そこに「肉体」の交渉を「感じて」しまう。つまり「知ってしまう」。「わかってしまう」。
 そのとき、やはり「肉体」はかわってしまう。

胸のつかえをうたによみ
うたの空虚をうつしうつし
脛の痛みに紛れて寄りそってくる
かそけさの影には気づいていても
コホウはそこにいない

すれ違うひとも絶え
驟雨にぬぐわれた島山を見晴るかす馬がえしの道を
やってくるもののように歩く
コホウのように歩く

 「われ」は最後は「コホウ」になってしまう。それは「コホウ」の「意識」かもしれないが、「意識」よりもまず「肉体」である。だから、「歩く」という動詞が「コホウ」を引き受ける。
 で、その「コホウ」に「なる」前--その直前の連に書かれていることが、ことばと音と肉体の交錯した感じそのもの--実感として「ある」。これがあるから最後の「コホウのように歩く」がいっそう実感できる。「コホウ」に「なる」、そして「コホウ」として「歩く」ということが肉体に迫ってくる。
 「空虚」は、たぶん時里の「好み」のことばのひとつだと思うが、この「空虚」を何と読むのか。どういう「音」として読むのか。時里は「るび」を振ってないが、私は「うつろ」と読みたい。
 
うたのうつろをうつしうつし

 「う・つ」の音の反復、「うた」が「うつろ」に変わる。「胸のつかえ」を「うた」にして詠むとき、それは一瞬美しい形で結晶するのだが、受け止めるひとがいないとき、うつろに広がり消えてしまう。そして、ただ「われ」という「肉体」が残る。
 「うつしうつし」は「映し映し」なのか「移し移し」なのか、あるいは「鬱し鬱し」なのか。「鬱す(し)」ということばはないだろうけれど、胸の「うつろ」を埋めるのは「鬱」である。
 あ、こんなふうに読んでしまうと、「うたの空虚はうつしうつし」は「胸のつかえ」に逆戻りしてしまうのだけれど、これは「逆戻り」というより、反復・往復、そして「一体化」かもしれないなあ。
 ことば(気持ち、感情)と肉体が、音の中で往復し、融合し、そのときそのときの都合(?)で、それぞれの存在になる。それぞれの存在になりながら、またいつでも「ひとつ」に戻ることができる。
 そんなあいまいな、そんないいかげんな、という「批判」も聞こえてきそうだが、まあ、詩なのだから、こういういいかげんというか、あいまいな状態の部分を残したまま、こんな感じだろうなあと「肉体」で受け止めるしかないなあと思っている。



 ちょっと「意味」を追いすぎた感想になったけれど。書き漏らしたことを追加。

こうして旅のなかぞらに
途方にくれて
コホウを待つ

 この3行の「こうして」「とほう」「こほう」の音の動き。これは美しいなあ。「旅のなかぞら」の「なかぞら」という音は「こう」「とほう」「こほう」とは違う音なのだけれど、その響きがあるから、余計に美しく感じる(のかもしれない)。
 そのあとの「くさつつむ いしのつか」も何度でも読み返したいくらい美しい。
 こういう美しい音から、「肉体」を通って「さびしい」「空虚」へ動いていくのが、変(?)といえば変だけれど、それが時里の肉体なんだなあ、思想なんだなあと思う。




翅の伝記
時里 二郎
書肆山田
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