佐藤真里子『見え隠れする物語たち』(土曜美術社出版、2012年02月01日発行)
佐藤真里子『見え隠れする物語たち』は現実の何かに触れて、その何かの向こうにあるものを感じる--そのときのことを書いたものである。この何かの向こうにある何かを佐藤は「物語」と呼んでいる。
「ヒマラヤの塩」はヒマラヤの岩塩に触れて、ことばを動かしている。
「物語」ということばを佐藤はつかっているが、では「物語」とは何なのだろうか。佐藤の場合、どうやらここにないものである。いま/ここにないもの、それをことばにしたもの--私の定義では、それは「比喩」になる。「比喩」と「物語」の違いは、では何か。「比喩」は時間を含まないが「物語」は時間をふくむ。そして、時間のなかで何かが運動するということだろう。
で、この「時間」なのだが……。
「太古の海を想わせる」。うーん。私は意地悪な人間なのか、「太古」って何? と思ってしまう。「太古」を知っているの? 私はそういう「時間」を知らない。私の「肉体」はそういう時間を経験していない。肉体は「太古」なんて覚えていない。私は昭和の海を覚えている。廃油で汚れ、やがてきれいになった海。(見かけだけかもしれないけれど。)
「太古」ねえ。「太古」か。どんな、海だろう。
こういうとき、「太古」と向き合っている肉体--そのとき肉体のなかに生まれた感覚を克明に書いてもらわないと、それがどういうものかつかみきれない。「塩辛さ」だけではわからない。「硫黄のにおい」だけではわからない。
「波の音」以後に、それが書いてある--ということかもしれない。
「わたしの底にも刻まれていた/同じ音」。これが「男」にかわる。それは確かに「物語」なのだろうけれど、私は佐藤ではないので、こういうかすかなほのめかしでは「物語」がつかみきれない。
どうも「男」が見えてこない。
「物語」ならば、登場人物をもっと明確に特徴づけないと、輪郭がぼやけてしまう。いったいそこでどんな運動が起きているかわからない。その運動が、いま/ここのどういう運動の「比喩(パラレルの世界)」なのか、よくわからない。
「男」は消えて「はるかなわたし」がとってかわる。そこには「唇での刻印」「爪でひく浅い傷跡」が関係してくるが、この「触覚」と「わたし」の内部の海との関係が、どうもあいまいである。
語りきれていない。肉体化されていない。
「ときをゆらす風」「太古の海」のような「流通言語」が「わたし」の「肉体」をじゃましている。
「男」が触れたとき、「わたし」のなかに「海」が生まれた、その海はいまある海ではなく、わたしか生まれる前からある海(太古の海というより、永遠の海かな?--時間がなくなるから太古も永遠も関係ないのだけれどね)へとつながっている。海を感じた瞬間、わたしのなかにある海ではなく、わたしが海のなかにいる--というようなことを、たぶん書きたいのだとは思うのだが、どうも肉体の描き方に「正直さ」がない。ロマンチックを追い求める気持ちはあるが、「正直さ」が欠ける、と思う。
「さくら鏡」は、おもしろいと思った。
「映る」--この動詞を「つながる」へと結びつけていくときの肉体がおもしろい。鏡に映る顔--それを「わたし」と認識する。
どうやって?
説明しようとすると難しいでしょ? 鏡に映った顔を「わたし」と思うのは勝手だが、というか--その「ほんもの」の顔を私たちは直接見ることはできない。だから、鏡に映った顔がほんとうのわたしを正確に映しているかどうか、わからない。
などということは--子供だましの「論理」だね。
鏡に何かが映る、そのとき鏡のなかにある「像」と鏡の外にある「もの」が同じであるということは私たちは何度も見ている。そういう経験を「肉体」が覚えている。だから、鏡に向き合って、そこに顔が映っていたらそれを「わたし」だと思う。
まあ、そういうことなのだと思うけれど、この肉体で覚えていたことを(私がいま書いたようなことを)、佐藤は「つながっている」と言い切る。
そうか、「肉体」が覚えていることは、「肉体」とつながっているのか。
この「つながっている」が佐藤の肉体の基本(思想)だから、「トンネル」ということばも響き合う。トンネルはある地点と別の地点を結んだものだ。トンネルによって、どこかとどこかがつながる。しかも、外からは見えない形で。
トンネルの向こうには、いま/こことは違う「場」がある。
「つながる」とは、別の言い方では「届く」(何かが、届く)ということでもある。何かが届き、それを受け止めるとき、そのとき「わたし」は「いま/ここ」にいながら、さっきまでの「わたし」とは違った生き方をしていることになる。「わたし」は生まれ変わるのだ。
「時からも場からも/滑り落ちた」は「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなったということである。「永遠」になったということである。けれど、その「永遠」は「いまはただ」としかいえない。「永遠」は「いま」である。
そこで、いのちの揺らぎに「合わせ」、息遣いを「合わせ」る。「合わせる」は「つながる」ことである。ただし、そのつながりは、直接ということとは少し違う。「わたし」と「対象」の間に「間(ま)」がある。「距離」がある。
「合わせる」のは「震え」を合わせるのである。それぞれの固有の「震え」。「震え」と「震え」が共鳴して、そこに「音楽」が生まれる。「音楽」として「つながる」。
これは美しいと思う。
見る-映す-つながる-あわせる-震える。このときの、「わたし」と「対象」の変化が、とてもいい。ここには肉体化された思想があり、ことばの肉体がある。ここに書かれている「物語」は、人間の純粋化された関係ということになるかもしれない。
「ヒマラヤの塩」には、こういう肉体がなかった。佐藤は書いているつもりかもしれないけれど、未整理の状態だと感じた。
佐藤真里子『見え隠れする物語たち』は現実の何かに触れて、その何かの向こうにあるものを感じる--そのときのことを書いたものである。この何かの向こうにある何かを佐藤は「物語」と呼んでいる。
「ヒマラヤの塩」はヒマラヤの岩塩に触れて、ことばを動かしている。
こわごわと齧ると
硫黄のにおいといっしょに広がる
塩辛さが
太古の海を想わせる
気が遠くなるほどの年月を重ねて
少しずつ変わったのだろう
この形と色に
なかに沈んでいる物語が聞きたくて
そっと耳を近づければ
かすかに響く波の音が
わたしの底にも刻まれていた
同じ音を呼び覚まし
赤みがかった茶色の肌の
潮の男が現れる
「物語」ということばを佐藤はつかっているが、では「物語」とは何なのだろうか。佐藤の場合、どうやらここにないものである。いま/ここにないもの、それをことばにしたもの--私の定義では、それは「比喩」になる。「比喩」と「物語」の違いは、では何か。「比喩」は時間を含まないが「物語」は時間をふくむ。そして、時間のなかで何かが運動するということだろう。
で、この「時間」なのだが……。
「太古の海を想わせる」。うーん。私は意地悪な人間なのか、「太古」って何? と思ってしまう。「太古」を知っているの? 私はそういう「時間」を知らない。私の「肉体」はそういう時間を経験していない。肉体は「太古」なんて覚えていない。私は昭和の海を覚えている。廃油で汚れ、やがてきれいになった海。(見かけだけかもしれないけれど。)
「太古」ねえ。「太古」か。どんな、海だろう。
こういうとき、「太古」と向き合っている肉体--そのとき肉体のなかに生まれた感覚を克明に書いてもらわないと、それがどういうものかつかみきれない。「塩辛さ」だけではわからない。「硫黄のにおい」だけではわからない。
「波の音」以後に、それが書いてある--ということかもしれない。
「わたしの底にも刻まれていた/同じ音」。これが「男」にかわる。それは確かに「物語」なのだろうけれど、私は佐藤ではないので、こういうかすかなほのめかしでは「物語」がつかみきれない。
どうも「男」が見えてこない。
「物語」ならば、登場人物をもっと明確に特徴づけないと、輪郭がぼやけてしまう。いったいそこでどんな運動が起きているかわからない。その運動が、いま/ここのどういう運動の「比喩(パラレルの世界)」なのか、よくわからない。
かすれた声は
ときをゆらす風のように
もうみな忘れてしまったのかと
塩辛い唇での刻印
爪でひく浅い傷跡が
太古の海を泳いでいたはずの
はるかなわたしへと
押し戻してゆく
「男」は消えて「はるかなわたし」がとってかわる。そこには「唇での刻印」「爪でひく浅い傷跡」が関係してくるが、この「触覚」と「わたし」の内部の海との関係が、どうもあいまいである。
語りきれていない。肉体化されていない。
「ときをゆらす風」「太古の海」のような「流通言語」が「わたし」の「肉体」をじゃましている。
「男」が触れたとき、「わたし」のなかに「海」が生まれた、その海はいまある海ではなく、わたしか生まれる前からある海(太古の海というより、永遠の海かな?--時間がなくなるから太古も永遠も関係ないのだけれどね)へとつながっている。海を感じた瞬間、わたしのなかにある海ではなく、わたしが海のなかにいる--というようなことを、たぶん書きたいのだとは思うのだが、どうも肉体の描き方に「正直さ」がない。ロマンチックを追い求める気持ちはあるが、「正直さ」が欠ける、と思う。
「さくら鏡」は、おもしろいと思った。
ひらいた花びらの
小さな鏡を
そっと覗くと
淡い香りがして
一瞬、映った
不安げなわたしの顔は
すぐに消えて
見えてきたのは
花の奥の
白いトンネルの
先の先
糸のような光線が
ひとすじ届く
あそこはきっと
この星によく似た
遠い星
遠い星では
わたしも
ひらいたばかりの
花びらの一枚になって
映っている
つながっている
「映る」--この動詞を「つながる」へと結びつけていくときの肉体がおもしろい。鏡に映る顔--それを「わたし」と認識する。
どうやって?
説明しようとすると難しいでしょ? 鏡に映った顔を「わたし」と思うのは勝手だが、というか--その「ほんもの」の顔を私たちは直接見ることはできない。だから、鏡に映った顔がほんとうのわたしを正確に映しているかどうか、わからない。
などということは--子供だましの「論理」だね。
鏡に何かが映る、そのとき鏡のなかにある「像」と鏡の外にある「もの」が同じであるということは私たちは何度も見ている。そういう経験を「肉体」が覚えている。だから、鏡に向き合って、そこに顔が映っていたらそれを「わたし」だと思う。
まあ、そういうことなのだと思うけれど、この肉体で覚えていたことを(私がいま書いたようなことを)、佐藤は「つながっている」と言い切る。
そうか、「肉体」が覚えていることは、「肉体」とつながっているのか。
この「つながっている」が佐藤の肉体の基本(思想)だから、「トンネル」ということばも響き合う。トンネルはある地点と別の地点を結んだものだ。トンネルによって、どこかとどこかがつながる。しかも、外からは見えない形で。
トンネルの向こうには、いま/こことは違う「場」がある。
「つながる」とは、別の言い方では「届く」(何かが、届く)ということでもある。何かが届き、それを受け止めるとき、そのとき「わたし」は「いま/ここ」にいながら、さっきまでの「わたし」とは違った生き方をしていることになる。「わたし」は生まれ変わるのだ。
ひらいたばかりの
花びらの一枚になって
映っている
つながっている
時からも場からも
滑り落ちた心地よさで
いまはただ
いのちの揺らぎに合わせ
息遣いを合わせ
少し震える
「時からも場からも/滑り落ちた」は「いま/ここ」が「いま/ここ」ではなくなったということである。「永遠」になったということである。けれど、その「永遠」は「いまはただ」としかいえない。「永遠」は「いま」である。
そこで、いのちの揺らぎに「合わせ」、息遣いを「合わせ」る。「合わせる」は「つながる」ことである。ただし、そのつながりは、直接ということとは少し違う。「わたし」と「対象」の間に「間(ま)」がある。「距離」がある。
「合わせる」のは「震え」を合わせるのである。それぞれの固有の「震え」。「震え」と「震え」が共鳴して、そこに「音楽」が生まれる。「音楽」として「つながる」。
これは美しいと思う。
見る-映す-つながる-あわせる-震える。このときの、「わたし」と「対象」の変化が、とてもいい。ここには肉体化された思想があり、ことばの肉体がある。ここに書かれている「物語」は、人間の純粋化された関係ということになるかもしれない。
「ヒマラヤの塩」には、こういう肉体がなかった。佐藤は書いているつもりかもしれないけれど、未整理の状態だと感じた。