詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

城戸朱理「詩と比喩」

2012-02-01 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
城戸朱理「詩と比喩」(「現代詩手帖」2012年02月号)

 城戸朱理「詩と比喩」を読んだが、何が書いてあるのか全然わからなかった--というのは嘘である。城戸がポール・リクールの『生きた穏喩』を読んでいることはわかった。ほかにもいろんな本を読んでいることもわかった。比喩について書こうとしていることもわかった。しかし、それ以外はまったくわからない。
 ポール・リクールの『生きた穏喩』に関する城戸の読み方が正しいかどうか、それもまったくわからない。--というか、えっ、ポール・リクールって、ほんとうにこんなばかなことを書いてるのか、と思ってしまった。城戸が紹介している通りのことを書いているのなら、ポール・リクールを読む必要はない。
 「時が流れる」という慣用表現を取り上げて城戸は説明している。

「流れる」という述語の本来の意味は、液体がより低い方へ移動するとか、液体とともに何かが移動していくというものであって、それが転じて、時間の推移を「時が流れる」と表現するようになったわけだが、その表現の発生時には、まぎれもなく比喩的表現だったことになる。

そうした言い方があまりに慣用化され、直接的にその意味するところを理解できるので、それを比喩だとは気づかない。そうした比喩をポール・リクールは「死んだ暗喩」と読んだのだが、それは比喩でありながら、日常的な表現になってしまっている言葉を意味している。
   (谷内注・「暗喩」は「隠喩」の誤植か、それとも「隠喩」が「暗喩」の誤植か
    はっきりしない。城戸がつかいわけているのかどうかもわからない。)

 引用した前半部分が、ともかく変である。
 城戸が「比喩」をどう定義しているかの、不明のままポール・リクールの論に乗ってことばを動かしているために、変なことが生じている。(ポール・リクールが「比喩」をどう定義しているかも、城戸の紹介文からはわからない。後半の引用部分からは、「死んだ暗喩」の定義はわかるが、比喩そのものの定義は不明である。)
 「比喩」は私の定義では、「いま/ここにあるもの」を「いま/ここにないもの」をつかって表現することである。「君の唇は薔薇のように美しい」というとき「薔薇」が「比喩」である。その「薔薇」は「いま/ここ(ここでは唇になる)にはない」。「唇」は「薔薇ではない」ということが「薔薇」が「比喩」として成立する絶対条件である。
 この私の定義に従って「時が流れる」という表現を見直すと。
 「時」は「水が流れるように」流れる。
 「時」は「水の流れのように」流れる。
 という具合になる。「時」と「水」は同じではない。だから「水」あるいは「水の流れ」は「時」の「比喩」になる。
 「流れる」という述語に城戸は注目しているが、この「流れる」が「比喩」なのではない。「水が流れるように」あるいは「水の流れのように」が「比喩」なのである。
 この「比喩」が省略されるのは、たとえば多くの日本人ならば、「行く川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」というようなことばを繰り返し聴いていて、無意識的に「川の水」を思い浮かべるからである。そして、その無意識が「肉体化」してしまっていて、わざわざ「川の水のように」と言わなくてすむようになっているからである。また、鴨長明のことばを、私たちは実際に何度も何度も川の流れを見て、知っているからである。川の水は、一瞬足りとも同じところにとどまらないということを知っているだけではなく、肉体で覚えているからである。肉体で覚えていることは、人間は省略してしまうのである。覚えていることは、いつでも思い出せる。思い出す必要がないくらいに、思い出せる。それが肉体の力である。
 ちょっと言い換えると--。たとえば自転車に乗る。泳ぐ。そういうことは一度肉体で覚えたら、絶対に忘れない。長い年月をおいて自転車に乗る、泳ぐというとき、最初は不安定かもしれないが、いつでも自転車に乗れる、泳げる--そういうことを私は肉体が覚えているというのだが、同じように川の流れがどこまでも過ぎ去っていくということを、私たちは「知識」ではなく「肉体」で知っている。「肉眼」の記憶、あるいは川のなかに立って水の流れを感じた足や手で「覚えている」。「肉体」が覚えている。こういうものを「肉体」は忘れることができない。
 「比喩」は死んでいるのではなく、無意識になっている。「肉体」になっている。「肉体」のなかに生きている。それは、「死」ではなく、逆に完全に生きている。生きていることが自明だから、言わない。それだけのことである。人が何か言うとき、私の肉体は生きているとはわざわざいわない。
 城戸は、こういう「肉体化された比喩」を完全に見落としている。「肉体」の存在そのものを見落としている。
 たとえば、次の部分。

気持ちのありようを、私たちは「気分が高揚する」とか「気分が沈む」といったように当たり前に語るが、実際には、気分が上昇したり、下降したりするわけではなく、これもまた比喩に依存した表現ということになる。

 ほんとうにバカだと思う。「時が流れる」のときはまだ「水の流れ」について触れているだけいくらかまともだったが、この部分で私はあきれかえってしまった。
 「気分が高揚する」というとき「高揚する」の前に「比喩」が省略されている。たとえば「恋をしたときの気分は(燃え上がる炎、その火の粉が高く高く上がるように)高揚する」。そして「気分が沈む」なら「失恋したときの気分は(深く淀んだ水に落とした石がどこまでも沈んでいくように)沈む」という具合である。
 「比喩」が実際にどうつかわれ、どうして省略されるのか、それを点検しないで、読みかじったフランスの哲学者を引用したってはじまらない。他人のことばではなく、まず自分の肉体から語りはじめないと、そんなものは「借りてきたことば」の羅列に過ぎない。
 城戸にはたとえば燃え上がる炎を見た思い出がないのかもしれない。川や池に石を落として、それを眺めた記憶がないのかもしれない。炎を見て肉体が何かを「覚える」、どこまでも沈んでいく石を見て肉体が何かを「覚える」ということがないのかもしれない。こういうことをポール・リクールは書いていないのかもしれない。だから、それをことばとして語れないのかもしれない。
 さらに意地悪く書いておこうか。

「希望を抱く」とか「絶望に打ちのめされる」といった表現では、希望や絶望といった心理的な状態が、あたかも物であるかのように扱われ、それを「抱く」とか、「打ちのめされる」といった物理的で身体的な表わし方がされているわけであり、こうした表現も比喩にほかならない。

 あ、あ、あ……。たとえば城戸は大好きな女を(男でもいいが)抱いたことがないのだろうか。肉体を抱いて、そのとき肉体が興奮したということがないのだろうか。あるいは赤ん坊を抱いて、その強さや熱い何かを感じたことがないのだろうか。大切にしたいと思ったことはないのだろうか。そういうことを城戸の肉体は覚えていないのだろうか。
 あるいは誰かと取っ組み合いのけんかをして、完全に負けてしまって、悔しい思いをしたことがないのだろうか。そういうことを肉体で体験していないのだろうか。
 きっと本を読む、活字を読み、それを「知識」にすることに忙しかったんだねえ。ちょっとでいいから、自分の肉体で水の流れを確かめる、水の深みに沈んでみる、他人を抱いたり、他人と殴りあってみるということをすればいいのになあ。そうすれば「肉体」は、そのときのことをけっして忘れない。肉体は肉体が体験したことを「覚えている」。

 いろんな変なことが書かれているが、最後の方に出てくる「ご飯茶碗」もおかしくて笑いだしてしまった。

茶碗ならば英語では「Tea Bowl」になるが、御飯茶碗をそのまま訳すると「Rice Tea Bowl」になってしまい、明確な意味を結ばない。私たちは、それで茶を喫するわけでもないのに慣用的に茶碗と呼んでいるわけであり、こうした、ごく身近な名詞にも、言語が複雑化したときの曖昧さの実例を見ることができる。

 「御飯茶碗をそのまま訳する」と書いているけれど、なぜ、そんなことをする? 逐語訳は「頭」がすることだねえ。「肉体」で実際に日本語と英語の現場を通り抜ければ、そんなことをしないでしょ? 逐語訳の「意味」がわからなくても、そこでつかわれているもののつかい方を「肉体」が「肉体が覚えている」ことがらに結びつけて判断するというのが人間の生き方じゃない? 御飯茶碗を英語でなんというか知らなくたって、それをつかって実際に御飯を食べれば、これは御飯茶碗だなと思うんじゃないの?
 私は英語なんて知らないから、城戸の書いていることが「頭で考えた空想」にしか思えない。
 それから……。御飯茶碗で茶を飲むということは、そんなに変? 抹茶茶碗がないときは、私なんかは平気で御飯茶碗で茶を立てて飲むけどなあ。何か不都合がある? 抹茶じゃなくて、番茶を御飯のあとに茶碗に注いで飲むなんていうことも変じゃないけどなあ……というのは、まあ、「屁理屈」の類だけれど、そういうことも城戸に対しては言いたくなるなあ。

 「知っていること」ではなく、「覚えていること」を書いてね、と城戸には言いたいなあ。








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コメント (1)
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