福間明子「それからのキリン」(「孔雀船」79、2012年01月15日発行)
福間明子「それからのキリン」は前半がおもしろい。
1行目の「へうへう」がわからない。そして、わからないからおもしろい。タイトルや2行目の「背が高くなっていた」から想像するとキリンの名前と思えないこともないけれど、まあ、違うね。ほんとうの名前は別にある。名前だとしても、それは福間がかってにつけた名前だ。そして、そのときの「かって」に福間の気分が入っている。「流通言語」ではいえない福間だけの気分。それは何と言い換えるべきか--言い換えれない。そこに、なんとはなしの「手触り」のようなものがある。それが魅力だ。
このうまくことばにできない何か、「流通言語」にできなかったものを、そっくりそのままではなく、少しずつ言い換えながら追いかけていく。その追いかけ方、そのときあらわれてくることばに、詩がある。
「いまにも溢れそうな湖の目になっていたので/なにを抱え込んだのか心配になるほどだった」--そうか、「へうへう」は何が起きても平気というのではなく、何かが起きると敏感に反応するこころのありようなものを反映しているのだな、と思う。気弱な感じ。敏感な感じ。風に吹かれただけで動いてしまうような感じかなあ。「いまにも溢れそうな湖の目」ということばからは、湖の上を渡ってくる清潔な風のようなものも感じる。
そういう敏感で繊細で弱々しく清潔なもの、頑丈から遠いものが「地球上の異常な事」とであって、こころに影が落ちる。こころが傷つく。--福間は「人間の心は」と書いているが、「それが君の目にも映っている」ということは、そのこころを「へうへう」のこころもまた感じていることになる。
こういう微妙な揺れ動き、揺れ動きながら、書きたいことを少しずつ絞り込んでいく感じは、とてもおもしろく、その中心になっているのが「へうへう」という音である。音の持つ一種のイメージと、またそれがはっきりしない不可解さの交錯するおもしろさである。
途中で出てくる「ふつふつ」がちょっとイメージがかたまった音なので(ふつふつとたぎる、というときのふつふつを思い出してしまう)、ちょっと残念なのだが、このあともう一回、不思議な音が出てくる。
「うにうに」が変だね。
でも「へうへう」ほどはおもしろくない。「ふつふつ」が「流通言語」だったせいかもしれない。「うにうに」のなかには「うじゃうゃ」「うにゃうにゃ」に通じる何かがあり、それが音のおもしろさを邪魔する--意味へと引っぱりすぎるのかもしれない。
書き急いでいる、という感じがする。
「溢れそうな湖」というような、具体的なイメージが消え、「進歩」だの「縮小」だの「生活」だとのという「抽象」が意味を追いかけようとしすぎるのだと思う。
「野の花」さえも、ここでは「抽象」になっている。他のことばは指摘しなくても「抽象」であることがわかるだろう。「えもいえぬ」にいたっては「抽象」を通り越して、「流通言語」による「説明」である。描写のことばが消えてしまった。
「へうへう」を支えていた「描写」の力。--福間だけがとらえた「描写」の「具象」が、つまり「手触り」が消えてしまった。
このあと、福間の詩は、なんとかもちこたえようとするのだが、どうもおもしろくない。前半がおもしろいだけに、途中から失速していくことばがとても残念である。
福間明子「それからのキリン」は前半がおもしろい。
久しぶりにへうへうに遭った
いっそう背が高くなっていた
いまにも溢れそうな湖の目になっていたので
なにを抱え込んだのか心配になるほどだった
このところ地球上では異常な事が重複していて
人間の心は尖りふつふつとするものを抱え込んだ
これは君の目にも映っているだろうね
1行目の「へうへう」がわからない。そして、わからないからおもしろい。タイトルや2行目の「背が高くなっていた」から想像するとキリンの名前と思えないこともないけれど、まあ、違うね。ほんとうの名前は別にある。名前だとしても、それは福間がかってにつけた名前だ。そして、そのときの「かって」に福間の気分が入っている。「流通言語」ではいえない福間だけの気分。それは何と言い換えるべきか--言い換えれない。そこに、なんとはなしの「手触り」のようなものがある。それが魅力だ。
このうまくことばにできない何か、「流通言語」にできなかったものを、そっくりそのままではなく、少しずつ言い換えながら追いかけていく。その追いかけ方、そのときあらわれてくることばに、詩がある。
「いまにも溢れそうな湖の目になっていたので/なにを抱え込んだのか心配になるほどだった」--そうか、「へうへう」は何が起きても平気というのではなく、何かが起きると敏感に反応するこころのありようなものを反映しているのだな、と思う。気弱な感じ。敏感な感じ。風に吹かれただけで動いてしまうような感じかなあ。「いまにも溢れそうな湖の目」ということばからは、湖の上を渡ってくる清潔な風のようなものも感じる。
そういう敏感で繊細で弱々しく清潔なもの、頑丈から遠いものが「地球上の異常な事」とであって、こころに影が落ちる。こころが傷つく。--福間は「人間の心は」と書いているが、「それが君の目にも映っている」ということは、そのこころを「へうへう」のこころもまた感じていることになる。
こういう微妙な揺れ動き、揺れ動きながら、書きたいことを少しずつ絞り込んでいく感じは、とてもおもしろく、その中心になっているのが「へうへう」という音である。音の持つ一種のイメージと、またそれがはっきりしない不可解さの交錯するおもしろさである。
途中で出てくる「ふつふつ」がちょっとイメージがかたまった音なので(ふつふつとたぎる、というときのふつふつを思い出してしまう)、ちょっと残念なのだが、このあともう一回、不思議な音が出てくる。
だからといって
わたしと相変わらず人間模様のなかで
進歩も最早なく縮小の日々ですと告げる
生活を追いかけて
その手前でうにうにとして解らないものが
すこしおやすみというのです
「うにうに」が変だね。
でも「へうへう」ほどはおもしろくない。「ふつふつ」が「流通言語」だったせいかもしれない。「うにうに」のなかには「うじゃうゃ」「うにゃうにゃ」に通じる何かがあり、それが音のおもしろさを邪魔する--意味へと引っぱりすぎるのかもしれない。
書き急いでいる、という感じがする。
「溢れそうな湖」というような、具体的なイメージが消え、「進歩」だの「縮小」だの「生活」だとのという「抽象」が意味を追いかけようとしすぎるのだと思う。
丘の上の野の花の中で君は快適ではなかったと
あの日のえもいえぬ悲惨と地上の欠落と
逆らって進まぬ意志だけが虚ろで
勇気ってなんだろう……と
「野の花」さえも、ここでは「抽象」になっている。他のことばは指摘しなくても「抽象」であることがわかるだろう。「えもいえぬ」にいたっては「抽象」を通り越して、「流通言語」による「説明」である。描写のことばが消えてしまった。
「へうへう」を支えていた「描写」の力。--福間だけがとらえた「描写」の「具象」が、つまり「手触り」が消えてしまった。
このあと、福間の詩は、なんとかもちこたえようとするのだが、どうもおもしろくない。前半がおもしろいだけに、途中から失速していくことばがとても残念である。