荒木時彦『sketches2』(書肆山田、2012年02月10日発行)
荒木時彦『sketches2』は、ごく短いメモのようなことばと、いくらかまとまりのある散文が交互に動く。散文の部分は「日記」に近いかもしれない。散文の部分は、あまりおもしろくない。ことばに「過去」がない。「肉体」がない。
荒木は「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」に荒木の「過去」を忍び込ませたつもりかもしれない。しかし、あまりに抽象的すぎて、手触りがない。それは、その直前の「思っていたよりビーバーは大きく、ダムもかなり大がかりなものだ。」の「思っていたよりも」に通じることである。「思っていた」では、だれにもわからない。荒木だけがわかる「思っていた」である。そこには「肉体」がない。
荒木をそこへ案内してくれた「カーピーさん」にも「過去」が感じられない。荒木とカーピーさんの「衝突」がない。どうしてもゆずることのできない何かのぶつかりあいがない。「肉体」がない--と私は感じてしまう。
書いてあることばは全部理解できる。それが、問題なのかもしれない。えっ、なぜ? なぜ、ここでこんなふうにことばが動く? そういう疑問というか、ひっかかりがあると、「肉体」の手触りが出てくるのだけれど、「思う」だけがあって、何も見えて来ない。
この散文に比較すると、「メモ」の方が手触りがある。
「光が眼をさす。」そして、そのことによって「頭がはっきりする。」このときの「頭」が、「思う」につながる「思考」ではなく、「思考」以前の「肉体」に感じられる。「肉体」としての「頭」--まだ何も考えていない「頭」が、何も考えていないにもかかわらず、「はっきりする」。
この感覚は、うれしい。「手触り」がある。そうして、そういうことばに触れると、荒木の「肉体としての頭」と、私の「肉体としての頭」が「ひとつ」になったような感じがする。--別なことばで言うと、あ、そういう瞬間があるなあ、そういう「肉体としての頭」の瞬間を覚えているぞ、と感じるのである。
そのあとに、ぽつんと置かれた「時間」ということばは、まあ、そういう「頭」が何も考えないまま「はっきりする」瞬間を、そこにとどめ置くためのことばなのだろうけれど、これはどうでもいいな。荒木には申し訳ないけれど、「時間」ではなく、もっと具体的な「もの」の方がきっとよかったと思う。「時間」ということばを置くことで、せっかくの「肉体としての頭」が、「時間」ということばを置いた瞬間から「抽象」になってしまう。「思考(思う)」になってしまう。
--というのは、私の、ぜいたくな欲求かもしれない。
荒木は、「スケッチ」のなかに「思考」を書きたいのだろう。「思考」をスケッチにする、というのがこの詩集の目的かもしれない。
でも、スケッチは「思考」になる前の、これはいったい何になるのだろう、わからないけれど、この線が(このことばが)きれいだなあ、というような予感だけの方がおもしろいのでは、と私は思ってしまう。「思考」がまじってくると、その先に「完成予想図」のようなものがあらわれ、せっかくのスケッチを「体系」へと統合する力が働き、自由な感じが失われるように思えるのである。
ただ、そこにある何かだけを書いてものが、印象に残る。
「バター・トースト」という音が美しい。その音のなかへ、朝の透明な光が斜めにおりてくる。そうして、バターが金色に輝く。--そういうことは書いていないのだけれど、そういう「空気」が見える。
こういう部分は、たしかに「スケッチ」だと思う。
そこには何も書いていないのだけれど、書いてひとには、そのわずかなことばだけで「空気」を思い出すことができる。
そうして、読者には(私には、ということなのだけれど)、そういう勝手な空気を補う自由が与えられる。勝手なことばを補って、そこに書かれている「スケッチ」を「スケッチ」ではなく、ひとつの「作品」にしていく自由が与えられる。
これは、楽しい。
「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」というようなことばの場合だと、えっ、ここで、たとえば荒木の親子喧嘩とか親戚付き合いとかを考えないといけないのか、と思い、ちょっと気が滅入る。そして、そこには具体的な荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれていないので、どうしたって私自身の親子喧嘩、親戚付き合いで肉付けないといけないことになる。あ、めんどうくさい。いやだなあ、そんなことを思い出すのは、ということになる。
これがもし、そこに荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれているなら、その具体的な「過去」と私の「過去」が出合い、あっ、そんなことがあるの?という「違和」が生まれる。「異化」が生じる。そうなると、そこに「詩」への手がかりが生まれるのだけれどね……。
次の作品は、メモと散文が結合した美しい結晶である。
「ラベルライター」をつくった人の「肉体」と荒木の「肉体」が出合い、ひとつの仕事をする。そのとき荒木は荒木でありながらラベルライターをつくった人であり、その機械(?)の精密な(頑丈な、素朴な)構造そのものである。
「もの」が「肉体」になる瞬間が、的確に、とても美しく書かれている。
こういうことばを、もっともっと読みたいと思う。
この詩は、実は、あと少しつづいているのだが、それは引用しない。少しつづいている部分が詩を壊している、と私は感じているからである。
荒木時彦『sketches2』は、ごく短いメモのようなことばと、いくらかまとまりのある散文が交互に動く。散文の部分は「日記」に近いかもしれない。散文の部分は、あまりおもしろくない。ことばに「過去」がない。「肉体」がない。
カーピーさんの所有している島に連れていってもらった。島でバーベキューを食べた後、川にビーバーのダムがあると聞いた。ぜひ見たいと言うと、案内してくれた。草木が手入れされないまま生い茂っている道を歩いて、しばらくすると川にでた。少し離れた場所からダムを見ると、ビーバーが泳いでいるのが見えた。木の枝を咥えている。思っていたよりビーバーは大きく、ダムもかなり大がかりなものだ。ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?
荒木は「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」に荒木の「過去」を忍び込ませたつもりかもしれない。しかし、あまりに抽象的すぎて、手触りがない。それは、その直前の「思っていたよりビーバーは大きく、ダムもかなり大がかりなものだ。」の「思っていたよりも」に通じることである。「思っていた」では、だれにもわからない。荒木だけがわかる「思っていた」である。そこには「肉体」がない。
荒木をそこへ案内してくれた「カーピーさん」にも「過去」が感じられない。荒木とカーピーさんの「衝突」がない。どうしてもゆずることのできない何かのぶつかりあいがない。「肉体」がない--と私は感じてしまう。
書いてあることばは全部理解できる。それが、問題なのかもしれない。えっ、なぜ? なぜ、ここでこんなふうにことばが動く? そういう疑問というか、ひっかかりがあると、「肉体」の手触りが出てくるのだけれど、「思う」だけがあって、何も見えて来ない。
この散文に比較すると、「メモ」の方が手触りがある。
庭にでると、光が眼をさす。
ようやく頭がはっきりする。
時間
「光が眼をさす。」そして、そのことによって「頭がはっきりする。」このときの「頭」が、「思う」につながる「思考」ではなく、「思考」以前の「肉体」に感じられる。「肉体」としての「頭」--まだ何も考えていない「頭」が、何も考えていないにもかかわらず、「はっきりする」。
この感覚は、うれしい。「手触り」がある。そうして、そういうことばに触れると、荒木の「肉体としての頭」と、私の「肉体としての頭」が「ひとつ」になったような感じがする。--別なことばで言うと、あ、そういう瞬間があるなあ、そういう「肉体としての頭」の瞬間を覚えているぞ、と感じるのである。
そのあとに、ぽつんと置かれた「時間」ということばは、まあ、そういう「頭」が何も考えないまま「はっきりする」瞬間を、そこにとどめ置くためのことばなのだろうけれど、これはどうでもいいな。荒木には申し訳ないけれど、「時間」ではなく、もっと具体的な「もの」の方がきっとよかったと思う。「時間」ということばを置くことで、せっかくの「肉体としての頭」が、「時間」ということばを置いた瞬間から「抽象」になってしまう。「思考(思う)」になってしまう。
--というのは、私の、ぜいたくな欲求かもしれない。
荒木は、「スケッチ」のなかに「思考」を書きたいのだろう。「思考」をスケッチにする、というのがこの詩集の目的かもしれない。
でも、スケッチは「思考」になる前の、これはいったい何になるのだろう、わからないけれど、この線が(このことばが)きれいだなあ、というような予感だけの方がおもしろいのでは、と私は思ってしまう。「思考」がまじってくると、その先に「完成予想図」のようなものがあらわれ、せっかくのスケッチを「体系」へと統合する力が働き、自由な感じが失われるように思えるのである。
ただ、そこにある何かだけを書いてものが、印象に残る。
朝食をとる。
バター・トースト。
「バター・トースト」という音が美しい。その音のなかへ、朝の透明な光が斜めにおりてくる。そうして、バターが金色に輝く。--そういうことは書いていないのだけれど、そういう「空気」が見える。
こういう部分は、たしかに「スケッチ」だと思う。
そこには何も書いていないのだけれど、書いてひとには、そのわずかなことばだけで「空気」を思い出すことができる。
そうして、読者には(私には、ということなのだけれど)、そういう勝手な空気を補う自由が与えられる。勝手なことばを補って、そこに書かれている「スケッチ」を「スケッチ」ではなく、ひとつの「作品」にしていく自由が与えられる。
これは、楽しい。
「ビーバーにも、親子喧嘩や親戚付き合いがあるのだろうか?」というようなことばの場合だと、えっ、ここで、たとえば荒木の親子喧嘩とか親戚付き合いとかを考えないといけないのか、と思い、ちょっと気が滅入る。そして、そこには具体的な荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれていないので、どうしたって私自身の親子喧嘩、親戚付き合いで肉付けないといけないことになる。あ、めんどうくさい。いやだなあ、そんなことを思い出すのは、ということになる。
これがもし、そこに荒木の親子喧嘩、親戚付き合いが書かれているなら、その具体的な「過去」と私の「過去」が出合い、あっ、そんなことがあるの?という「違和」が生まれる。「異化」が生じる。そうなると、そこに「詩」への手がかりが生まれるのだけれどね……。
次の作品は、メモと散文が結合した美しい結晶である。
Penco というラベルライターを買った。
文字盤にアルファベットや記号が打ってあり、
文字をラインにあわせてハンドルを強くにぎると、テープにその文字がおされる。
「ラベルライター」をつくった人の「肉体」と荒木の「肉体」が出合い、ひとつの仕事をする。そのとき荒木は荒木でありながらラベルライターをつくった人であり、その機械(?)の精密な(頑丈な、素朴な)構造そのものである。
「もの」が「肉体」になる瞬間が、的確に、とても美しく書かれている。
こういうことばを、もっともっと読みたいと思う。
この詩は、実は、あと少しつづいているのだが、それは引用しない。少しつづいている部分が詩を壊している、と私は感じているからである。
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