トーマス・トランスロンメル「青い家」(エイコ・デューク訳)(「現代詩手帖」2012年02月号)
トーマス・トランスロンメル「青い家」にも不思議なところがある。
「死んだばかりの自分が家をあらためて眺め直すかのように」という表現には「自己離脱体験」とでもいえばいいのか、まあ、一種の変な感覚がある。それはきのう読んだ詩の3篇目(3連目)に通じるものである。トランスロンメルが、詩を書くトランスロンメルと詩に書かれるトランスロンメルに分離するようなものである。
ここに不思議はない。不思議なのは、その家では死者が出るたびに家の内部が塗りかえられると書いたあとの、3段落目。
この描写は、どうも1段落目の「私は茂りの深い林に立ち」ということばがあらわす「立ち位置」とは違っているように感じられる。2段落目は林のなかから家のなかを想像した(あるいは追想した)描写だが、3段落目は、私には家のなかから見た風景にしか感じられないのである。
いつの間にか、詩人は林から家のなかへ移動している。2段落目の、家族の歴史の描写が詩人を家のなかに引き込んだといえるのだが、ここがちょっとおもしろく、そして、4段落目に、わけのわからないことばが突然出てくる。
「身内」。これは、どういう意味なのだろう。「肉親」なのか。それとも誰かの「身体の内部」なのか。
幼いこどもが死んだ。そのこどもが生きていたままのこどもの部屋。こどもの部屋がこどもが生きていたときのままに保存されているということなのだろうけれど、それを育てているのは「肉親」。それとも誰かの「身体(の内部)」?
ふつうに考えれば、肉親の誰か、ということになるのだと思うが、私は「身体の内部」という感じとしてとらえたくなるのだ。「身内」は「肉親」ではない。文字どおり「身(の)内」、つまり「身体の内部」「肉体の内部」と。
こどもが「実現」したもの。帆船をとおして思い描いた夢。帆船のなかに描かれた、おさない夢。--だけではなく、こどもが「身体の内部」で描いたもの、ここに「実現」されていないものをも、トランスロンメル自身の実感として取り戻してみたい、と書いているのだと思う。
「私たちのいのちには、まったく別の航路をたどる姉妹船が存在する」。トランスロンメルは、いつも「別の世界」があり、「別の世界を生きているいのち」があるということを感じているのだと思う。
そしてそれを「身(の)内」にこそ取り込もうとしているように思える。ことばをとおして、「別の世界」を自分自身の「肉体」にする。
そしてそのための「出口」(入り口)を書こうとしているようにも思える。「別の世界」そのものを書かなくても、その「出口」(入り口)さえ書けば、そこを通って人は「別の世界」を生きることができる。その「出口」(入り口)を短く切り取ったのが、詩人が書いている「俳句詩」ということになるだろう。
トーマス・トランスロンメル「青い家」にも不思議なところがある。
陽の照り輝く夏の夜。私は茂りの深い林に立ち靄がかかった青色
の壁の私の家に視線を送る。まるでつい今しがた死んだばかりの自
分が家をあらためて眺め直すかのように。
「死んだばかりの自分が家をあらためて眺め直すかのように」という表現には「自己離脱体験」とでもいえばいいのか、まあ、一種の変な感覚がある。それはきのう読んだ詩の3篇目(3連目)に通じるものである。トランスロンメルが、詩を書くトランスロンメルと詩に書かれるトランスロンメルに分離するようなものである。
ここに不思議はない。不思議なのは、その家では死者が出るたびに家の内部が塗りかえられると書いたあとの、3段落目。
家の向う側には野原が展がる。以前の庭が、今は野生の茂み。野
原の造る波のしぶきの静止、野草のパゴダ、文字が前に投げ出され
た野草のヴェーダ、野草のバイキングの船が一つ、その竜頭が反り、
槍、まさに野草の主権国家!
この描写は、どうも1段落目の「私は茂りの深い林に立ち」ということばがあらわす「立ち位置」とは違っているように感じられる。2段落目は林のなかから家のなかを想像した(あるいは追想した)描写だが、3段落目は、私には家のなかから見た風景にしか感じられないのである。
いつの間にか、詩人は林から家のなかへ移動している。2段落目の、家族の歴史の描写が詩人を家のなかに引き込んだといえるのだが、ここがちょっとおもしろく、そして、4段落目に、わけのわからないことばが突然出てくる。
家はこどもの描く絵に似る。童児の期からあまりに早く抜け出し
た誰かが、身内に育ててしまったこどもっぽさの故だ。扉を開けて、
なかへどうぞ! このなかは天井が不安で壁には自由がある。寝台
の上には17の帆布を掲げた帆船のしろうと絵がかけられ、白く泡だ
つ波がしらと金の類縁も防ぎきれぬような風が描かれている。
「身内」。これは、どういう意味なのだろう。「肉親」なのか。それとも誰かの「身体の内部」なのか。
幼いこどもが死んだ。そのこどもが生きていたままのこどもの部屋。こどもの部屋がこどもが生きていたときのままに保存されているということなのだろうけれど、それを育てているのは「肉親」。それとも誰かの「身体(の内部)」?
ふつうに考えれば、肉親の誰か、ということになるのだと思うが、私は「身体の内部」という感じとしてとらえたくなるのだ。「身内」は「肉親」ではない。文字どおり「身(の)内」、つまり「身体の内部」「肉体の内部」と。
この室内には、常に、とても早い、その時代に先行した感覚があ
る。帰路の前、取返しのつかぬ選択の前に立つかのような。この生
活に感謝! しかし、なお、私は別のものを得たい。思い描いたす
べてを実現させたい。
こどもが「実現」したもの。帆船をとおして思い描いた夢。帆船のなかに描かれた、おさない夢。--だけではなく、こどもが「身体の内部」で描いたもの、ここに「実現」されていないものをも、トランスロンメル自身の実感として取り戻してみたい、と書いているのだと思う。
遠くの水上に響く機動音が夏の夜を引き伸ばす。喜びと悲しみが
露の鏡に拡大する。何としても私たちにわかることではないが、想
像は働く。私たちのいのちには、まったく別の航路をたどる姉妹船
が存在する。その間も、島々の後に陽は輝くのだ。
「私たちのいのちには、まったく別の航路をたどる姉妹船が存在する」。トランスロンメルは、いつも「別の世界」があり、「別の世界を生きているいのち」があるということを感じているのだと思う。
そしてそれを「身(の)内」にこそ取り込もうとしているように思える。ことばをとおして、「別の世界」を自分自身の「肉体」にする。
そしてそのための「出口」(入り口)を書こうとしているようにも思える。「別の世界」そのものを書かなくても、その「出口」(入り口)さえ書けば、そこを通って人は「別の世界」を生きることができる。その「出口」(入り口)を短く切り取ったのが、詩人が書いている「俳句詩」ということになるだろう。
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