詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「都会の日」、みえのふみあき「青島にて」

2012-02-06 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤健一「都会の日」、みえのふみあき「青島にて」(「乾河」63、2012年02月01日発行)

 ことばとことばの距離、そして孤立感を私はいま夢想している。きのう読んだ中田敬二の詩には「空白」が大きな位置を占めていた。その「空白」は絵画的だった。牧野伊三郎の絵が中田のことばのあり方をうまい具合に照らしだしていることに、私は感想を書き終わってから気がついた。で、きょう、書き直そうかな、と一瞬思った。思ったけれど、やめた。こういうことは、きっと、一瞬思ったということのなかにいちばん純粋な形で何かが結晶している。それを書きはじめると、また何か変な具合になるに違いないからである。
 きょうは中田のことばの孤立感というか、散らばりかたとは対極にある斎藤健一の詩を読むことにする。「都会の日」。

ぼくがただ認めるのは自身だけである。つまり自身が肉
眼に映らない。頬にいきなりひたひたと血液が沸く。而
して誰もいない公園。楽観が過ぎるのだ。夕闇の太い草。
ななめに垂れる。眉色のうす明るい光。線。古い洋服の
如く捨てられている。掌。動作が退行する。石はひとつ
ひとつ乾き切る。知らぬゆえなのだ。

 ここには何が書かれているか。さっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、「夕闇の太い草。」からつづくことばが、それぞれにしっかりとそこに存在していることが感じられる。
 ことばは「意味」ではなく、「無意味」の「もの」としてそこに存在する。そして、その「無意味」が私の「意味」へ向かって動く意識を破壊する。私の「意味」への意識は砕けて、ただ「もの」に向き合う。私は「斎藤」になって、公園にいる。夕暮れ。そして、公園にいながら、公園にいない。「太い草」になる。「ななめに垂れる(葉っぱだろう)」の「ななめに垂れる」という形、動作そのものになる。
 この瞬間、ことばとことばの距離が、とても変な具合に動く。
 それぞれのことばは「散文」の形で書かれているので、「距離」がない。(中田の書いていることばのように「空白」がない。「距離」と「空白」は、このとき同じものである。)そして、「距離」がないのだけれど、何か深い亀裂がある。
 「太い草」から「ななめに垂れる」ということばへ動くとき、私はそこに「葉っぱ」ということばを仮に挿入してみたが、これは便宜上そうしたのであって、私の肉体に起きていることは、先に書いたこととかなり違うのだ。
 「ななめに垂れる」ということばに向き合った瞬間、その直前の「太い草」が消える。完全になくなる。すぐそばにあるし、それを思い出すことができるのに、何か絶対的に辿り着けない「間」を感じるのである。
 二つのことばの間にあるのは「空間」ではない。もし「空間」だとしたら、それは水平方向に広がる空間ではなく、垂直方向に広がる(深まる、あるいは高まるかもしれない)空間である。
 あれこれ考えはじめると複雑になりすぎるので、とりあえずその垂直の空間を「亀裂」と読んでみる。
 さらに変なことには(?)、その深い亀裂--亀裂の深さには、何か「音楽」がある。響きあうものがある。それは音がまったくない音楽である。音が聞こえる--とときどき錯覚するが、そのとき聞こえる音楽は、ことばそのものが、すぐそばにまで密着してきている亀裂に震えるための、ことばの音楽であって、亀裂が抱え込む音楽ではない。それは、いわば深い谷に谺したことばの孤独の響きである。
 こんな印象があるからだろう。そこにあることばは、深い深いところから立ち上ってきた孤独という感じがする。そうして、その深い深いところから立ち上ってきたという印象があるから、「亀裂」ではなく、つまり垂直方向に深まるのではなく、垂直方向に立ち上がるという矛盾した印象も同時に存在することになる。

 あ、こんなことは、いくら書いても何も書いたことにならないね。私の感想は「印象」にすぎなくて、それを誰かに伝えるには、もっと違ったことばが必要なのだが、それが今のわたしには見つけることができない。

 逆のことを考えればいいのかもしれない。孤立することば。そのことばが周囲に抱え込む深い亀裂。あるいは、逆さまの亀裂--高い高い透明な壁。それを飛び越える、あるいは突き破って動く「もの」。
 何が、この動きのエネルギーなのか。どうして斎藤のことばはこんなふうに動くことができるか。
 「断定」の力かもしれない。迷いがない。意識を叩ききって、意識を断ち切って、「もの」として放り出す力が斎藤の魅力なのかもしれない。「だけである」「すぎるのだ」「ゆえなのだ」には、それが強調された形であらわれているが、「映らない」「沸く」というような動詞の断ち切りかたが、とても清潔で、それが力を感じさせる。
 いま、「断ち切る」と書いたが、たぶん「断定」とは「切る」ということと関係があるのだ。その「切る」は「乾き切る」という形でもこの詩には登場するが、この「切る」はある意味では余分である。「乾く」でも「意味」は通じる。しかし、「乾く」を「乾き切る」と書いたとき、それは乾くという運動が完結した(完了した)というだけではなく、石の存在を他の存在から切り離し、独立させるような響きがある。そして、そこからはじまる音楽がある。
 あ、これもまた、印象感想になってしまったなあ。

 しかたがない。私は斎藤のことばの運動が好きなのだ。好きに理由(意味づけ)などいらない。だから、何か書こうとしても、知らず知らず、「意味」を遠ざけてしまうのだろう。
 


 みえのふみあき「青島にて」の「Occurence  40」。

なぞなぞ遊びのあぞの迷路のその果ての
はかなくしどけない怠惰な春の夢のうえ

 途中に出てくるこの2行が魅力的である。斎藤のことばが孤立感が強いのに対し、みえのこの2行は、切れ目がない。全部つながっている。そしてつながりながら、つながった瞬間に順番に消えていくような--何もかもが消滅していくような音楽がある。
 それこそ最後のことばの「夢」のようなものがある。




方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉)
みえの ふみあき
レアリテの会
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谷川俊太郎「シミ」

2012-02-06 21:31:02 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「シミ」(「朝日新聞」2012年02月06日夕刊)

 谷川俊太郎の詩はときどきとても変である。どこまで本気(?)かわからないときがある。今回の「シミ」にもそういうものを感じだ。

妬(ねた)みと怒りで汚れた心を
哀しみが洗ってくれたが
シミは残った
洗っても洗っても
おちないシミ
今度はそのシミに腹を立てる

真っ白な心なんてつまらない
シミのない心なんて信用できない
と思うのは負け惜しみじゃない
できればシミもこみで
キラキラしたいのだ
(万華鏡のように?)

 谷川の詩は「意味」で動くときがある。「意味」が常識をひっくりかえす。あるいは気がついていなかったことを明確にする。そういうとき、何かを発見した気持ちになる。あ、そうだったのだ、と納得し、その納得を「詩」と感じるときがある。
 1連目の最後の行「今度はそのシミに腹を立てる」が、それにあたる。「シミに腹を立てる」--ああ、そうなんだ、と思う。それは私がまだ気がついていないことがらだった。自分ではことばにできなかったが、肉体で感じていたことだと思う。あるいは、あ、こういうことがあった、覚えている--と思い出す。
 そういう感じがある。
 ところが2連目は、同じ調子では読めない。「真っ白な心なんてつまらない/シミのない心なんて信用できない/と思うのは負け惜しみじゃない」という3行が、とても理屈っぽい。論理的でありすぎる。1連目の「シミに腹を立てる」というような、直接性がない。
 なぜだろう。
 2連目をていねいに読み返すよりも1連目に引き返した方がいいのかもしれない。なぜ、「シミに腹を立てる」ということばに私は強く惹かれたのだろう。すーっと引き込まれ納得したのだろう。
 たぶん「腹を立てる」ということばが腑におちたのだ。
 「腹を立てる」は冒頭の1行目に出てくる「怒る(怒り)」と同じことを意味している。でも、「今度はそのシミに怒る」では、たぶんすとんとは納得できなかったと思う。理屈っぽいなあ、と感じたと思う。
 「怒り(怒る)」の方がことばを正確に引き継ぐことになるから、「今度は」の意味もよくわかる。でも、そんなふうにわかりすぎると、理屈っぽく感じると思う。
 「腹を立てる」と「肉体」を直接ことばにしているから、私の「肉体」に響いてきたのだ。「怒り(怒る)」だと、肉体ではなく、感情に響いてくる。--その肉体と感情の違いの差--肉体の方が納得しやすいのだ。
 2連目には、その肉体がない。「つまらない」「信用できない」「負け惜しみじゃない」--ここには肉体がない。
 「キラキラしたい」の「キラキラ」に肉体じゃない。
 最終行の「万華鏡」は、もう完全に「肉体」とは別なものだ。
 「シミ」は肉体についてはいないのだ。
 もちろん、谷川は最初から「肉体」とは書かず「心」と書いているのだが……。

 あ、私は谷川の書いている「心」を「肉体」と感じていたけれど(1連目の「腹を立てる」は「心」が「腹」であるという証拠だと思う……)、2連目でその「心」と「肉体」の関係が、「心」と「論理」になっている。
 そこで私はつまずいたのだ。
 「万華鏡のように?」で、私は完全に谷川のことばと離れてしまった--分離してしまった。首をかしげてしまった。
 書いている谷川自身はどうなんだろう。2連目に満足しているのかな?
 よくわからない。
 最終行が括弧に入って、疑問符までついているのは、谷川も納得していないということ?




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