斎藤健一「都会の日」、みえのふみあき「青島にて」(「乾河」63、2012年02月01日発行)
ことばとことばの距離、そして孤立感を私はいま夢想している。きのう読んだ中田敬二の詩には「空白」が大きな位置を占めていた。その「空白」は絵画的だった。牧野伊三郎の絵が中田のことばのあり方をうまい具合に照らしだしていることに、私は感想を書き終わってから気がついた。で、きょう、書き直そうかな、と一瞬思った。思ったけれど、やめた。こういうことは、きっと、一瞬思ったということのなかにいちばん純粋な形で何かが結晶している。それを書きはじめると、また何か変な具合になるに違いないからである。
きょうは中田のことばの孤立感というか、散らばりかたとは対極にある斎藤健一の詩を読むことにする。「都会の日」。
ここには何が書かれているか。さっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、「夕闇の太い草。」からつづくことばが、それぞれにしっかりとそこに存在していることが感じられる。
ことばは「意味」ではなく、「無意味」の「もの」としてそこに存在する。そして、その「無意味」が私の「意味」へ向かって動く意識を破壊する。私の「意味」への意識は砕けて、ただ「もの」に向き合う。私は「斎藤」になって、公園にいる。夕暮れ。そして、公園にいながら、公園にいない。「太い草」になる。「ななめに垂れる(葉っぱだろう)」の「ななめに垂れる」という形、動作そのものになる。
この瞬間、ことばとことばの距離が、とても変な具合に動く。
それぞれのことばは「散文」の形で書かれているので、「距離」がない。(中田の書いていることばのように「空白」がない。「距離」と「空白」は、このとき同じものである。)そして、「距離」がないのだけれど、何か深い亀裂がある。
「太い草」から「ななめに垂れる」ということばへ動くとき、私はそこに「葉っぱ」ということばを仮に挿入してみたが、これは便宜上そうしたのであって、私の肉体に起きていることは、先に書いたこととかなり違うのだ。
「ななめに垂れる」ということばに向き合った瞬間、その直前の「太い草」が消える。完全になくなる。すぐそばにあるし、それを思い出すことができるのに、何か絶対的に辿り着けない「間」を感じるのである。
二つのことばの間にあるのは「空間」ではない。もし「空間」だとしたら、それは水平方向に広がる空間ではなく、垂直方向に広がる(深まる、あるいは高まるかもしれない)空間である。
あれこれ考えはじめると複雑になりすぎるので、とりあえずその垂直の空間を「亀裂」と読んでみる。
さらに変なことには(?)、その深い亀裂--亀裂の深さには、何か「音楽」がある。響きあうものがある。それは音がまったくない音楽である。音が聞こえる--とときどき錯覚するが、そのとき聞こえる音楽は、ことばそのものが、すぐそばにまで密着してきている亀裂に震えるための、ことばの音楽であって、亀裂が抱え込む音楽ではない。それは、いわば深い谷に谺したことばの孤独の響きである。
こんな印象があるからだろう。そこにあることばは、深い深いところから立ち上ってきた孤独という感じがする。そうして、その深い深いところから立ち上ってきたという印象があるから、「亀裂」ではなく、つまり垂直方向に深まるのではなく、垂直方向に立ち上がるという矛盾した印象も同時に存在することになる。
あ、こんなことは、いくら書いても何も書いたことにならないね。私の感想は「印象」にすぎなくて、それを誰かに伝えるには、もっと違ったことばが必要なのだが、それが今のわたしには見つけることができない。
逆のことを考えればいいのかもしれない。孤立することば。そのことばが周囲に抱え込む深い亀裂。あるいは、逆さまの亀裂--高い高い透明な壁。それを飛び越える、あるいは突き破って動く「もの」。
何が、この動きのエネルギーなのか。どうして斎藤のことばはこんなふうに動くことができるか。
「断定」の力かもしれない。迷いがない。意識を叩ききって、意識を断ち切って、「もの」として放り出す力が斎藤の魅力なのかもしれない。「だけである」「すぎるのだ」「ゆえなのだ」には、それが強調された形であらわれているが、「映らない」「沸く」というような動詞の断ち切りかたが、とても清潔で、それが力を感じさせる。
いま、「断ち切る」と書いたが、たぶん「断定」とは「切る」ということと関係があるのだ。その「切る」は「乾き切る」という形でもこの詩には登場するが、この「切る」はある意味では余分である。「乾く」でも「意味」は通じる。しかし、「乾く」を「乾き切る」と書いたとき、それは乾くという運動が完結した(完了した)というだけではなく、石の存在を他の存在から切り離し、独立させるような響きがある。そして、そこからはじまる音楽がある。
あ、これもまた、印象感想になってしまったなあ。
しかたがない。私は斎藤のことばの運動が好きなのだ。好きに理由(意味づけ)などいらない。だから、何か書こうとしても、知らず知らず、「意味」を遠ざけてしまうのだろう。
*
みえのふみあき「青島にて」の「Occurence 40」。
途中に出てくるこの2行が魅力的である。斎藤のことばが孤立感が強いのに対し、みえのこの2行は、切れ目がない。全部つながっている。そしてつながりながら、つながった瞬間に順番に消えていくような--何もかもが消滅していくような音楽がある。
それこそ最後のことばの「夢」のようなものがある。
ことばとことばの距離、そして孤立感を私はいま夢想している。きのう読んだ中田敬二の詩には「空白」が大きな位置を占めていた。その「空白」は絵画的だった。牧野伊三郎の絵が中田のことばのあり方をうまい具合に照らしだしていることに、私は感想を書き終わってから気がついた。で、きょう、書き直そうかな、と一瞬思った。思ったけれど、やめた。こういうことは、きっと、一瞬思ったということのなかにいちばん純粋な形で何かが結晶している。それを書きはじめると、また何か変な具合になるに違いないからである。
きょうは中田のことばの孤立感というか、散らばりかたとは対極にある斎藤健一の詩を読むことにする。「都会の日」。
ぼくがただ認めるのは自身だけである。つまり自身が肉
眼に映らない。頬にいきなりひたひたと血液が沸く。而
して誰もいない公園。楽観が過ぎるのだ。夕闇の太い草。
ななめに垂れる。眉色のうす明るい光。線。古い洋服の
如く捨てられている。掌。動作が退行する。石はひとつ
ひとつ乾き切る。知らぬゆえなのだ。
ここには何が書かれているか。さっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、「夕闇の太い草。」からつづくことばが、それぞれにしっかりとそこに存在していることが感じられる。
ことばは「意味」ではなく、「無意味」の「もの」としてそこに存在する。そして、その「無意味」が私の「意味」へ向かって動く意識を破壊する。私の「意味」への意識は砕けて、ただ「もの」に向き合う。私は「斎藤」になって、公園にいる。夕暮れ。そして、公園にいながら、公園にいない。「太い草」になる。「ななめに垂れる(葉っぱだろう)」の「ななめに垂れる」という形、動作そのものになる。
この瞬間、ことばとことばの距離が、とても変な具合に動く。
それぞれのことばは「散文」の形で書かれているので、「距離」がない。(中田の書いていることばのように「空白」がない。「距離」と「空白」は、このとき同じものである。)そして、「距離」がないのだけれど、何か深い亀裂がある。
「太い草」から「ななめに垂れる」ということばへ動くとき、私はそこに「葉っぱ」ということばを仮に挿入してみたが、これは便宜上そうしたのであって、私の肉体に起きていることは、先に書いたこととかなり違うのだ。
「ななめに垂れる」ということばに向き合った瞬間、その直前の「太い草」が消える。完全になくなる。すぐそばにあるし、それを思い出すことができるのに、何か絶対的に辿り着けない「間」を感じるのである。
二つのことばの間にあるのは「空間」ではない。もし「空間」だとしたら、それは水平方向に広がる空間ではなく、垂直方向に広がる(深まる、あるいは高まるかもしれない)空間である。
あれこれ考えはじめると複雑になりすぎるので、とりあえずその垂直の空間を「亀裂」と読んでみる。
さらに変なことには(?)、その深い亀裂--亀裂の深さには、何か「音楽」がある。響きあうものがある。それは音がまったくない音楽である。音が聞こえる--とときどき錯覚するが、そのとき聞こえる音楽は、ことばそのものが、すぐそばにまで密着してきている亀裂に震えるための、ことばの音楽であって、亀裂が抱え込む音楽ではない。それは、いわば深い谷に谺したことばの孤独の響きである。
こんな印象があるからだろう。そこにあることばは、深い深いところから立ち上ってきた孤独という感じがする。そうして、その深い深いところから立ち上ってきたという印象があるから、「亀裂」ではなく、つまり垂直方向に深まるのではなく、垂直方向に立ち上がるという矛盾した印象も同時に存在することになる。
あ、こんなことは、いくら書いても何も書いたことにならないね。私の感想は「印象」にすぎなくて、それを誰かに伝えるには、もっと違ったことばが必要なのだが、それが今のわたしには見つけることができない。
逆のことを考えればいいのかもしれない。孤立することば。そのことばが周囲に抱え込む深い亀裂。あるいは、逆さまの亀裂--高い高い透明な壁。それを飛び越える、あるいは突き破って動く「もの」。
何が、この動きのエネルギーなのか。どうして斎藤のことばはこんなふうに動くことができるか。
「断定」の力かもしれない。迷いがない。意識を叩ききって、意識を断ち切って、「もの」として放り出す力が斎藤の魅力なのかもしれない。「だけである」「すぎるのだ」「ゆえなのだ」には、それが強調された形であらわれているが、「映らない」「沸く」というような動詞の断ち切りかたが、とても清潔で、それが力を感じさせる。
いま、「断ち切る」と書いたが、たぶん「断定」とは「切る」ということと関係があるのだ。その「切る」は「乾き切る」という形でもこの詩には登場するが、この「切る」はある意味では余分である。「乾く」でも「意味」は通じる。しかし、「乾く」を「乾き切る」と書いたとき、それは乾くという運動が完結した(完了した)というだけではなく、石の存在を他の存在から切り離し、独立させるような響きがある。そして、そこからはじまる音楽がある。
あ、これもまた、印象感想になってしまったなあ。
しかたがない。私は斎藤のことばの運動が好きなのだ。好きに理由(意味づけ)などいらない。だから、何か書こうとしても、知らず知らず、「意味」を遠ざけてしまうのだろう。
*
みえのふみあき「青島にて」の「Occurence 40」。
なぞなぞ遊びのあぞの迷路のその果ての
はかなくしどけない怠惰な春の夢のうえ
途中に出てくるこの2行が魅力的である。斎藤のことばが孤立感が強いのに対し、みえのこの2行は、切れ目がない。全部つながっている。そしてつながりながら、つながった瞬間に順番に消えていくような--何もかもが消滅していくような音楽がある。
それこそ最後のことばの「夢」のようなものがある。
方法―みえのふみあき詩集 (1982年) (レアリテ叢書〈10〉) | |
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