詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」

2012-02-03 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」(エイコ・デューク訳)(「現代詩手帖」2012年02月号)

 トーマス・トランスロンメル「野うさぎと樫の樹々」は「俳句詩」と呼ばれる4篇の作品で構成されている。それぞれ独立しているとも読めるし、ひとつづきの作品としても読める--のかもしれない。
 私には一か所、これはどういうことだろう、と迷ってしまったところがある。

野うさぎ一匹が消えた
見知らぬ出口を抜け出たものか
野の風景から去った。



風吹きすさぶ春の一夜。
なべて 樫の樹々が
空の扉を打つ



遠ざかり行く足音が
床に沈みこんだ
さながら梁(やな)に落ちる葉のように。



森が空に浮き--
松の枝々が広がり--
そして 森ごと飛び去った。

 「野うさぎ」の3行は非常によくわかる。こどものころ、こういう世界に私は何度も出合っている。私たちの見る世界は限られている。そしてそこには私たちの知らない世界もある。野うさぎだけが知っている「出口」がある。それはきっと別の「野」につながっている。私たちの見る「野」の真裏(?)にあるのかもしれない。
 「風吹きすさぶ」もわかる。木々が風のなかで激しく乱れる。その枝が空の扉を叩いているというのも、あ、春だ、と思う。エリオットは四月の雨と大地(気の根っこ)を描いたがトランスロンメルは空と木の関係を描いている。うさぎにとって「野」が私たちの「野」と違うように、樫の樹にとっても私たちの「空」とは違う「空」があり、そこへ向かって、その「扉」を叩くのである。それは私たちの「空」からの「出口」であり、樫の樹にとっては樫の樹の「空」の「入り口」ということだろう。
 こういう作品を読むと、俳句というより、私には宮沢賢治の「童話」の世界が近づいてくる。私たちの世界とは別の世界が、いま/ここに同時に存在し、その別の世界を生きているものが、なまなましく動いている。それは、私たちの世界から見えるといえば見えるが、いつでも「消える」ものでもある。私たちの意識できない「出口」「入り口」を利用して、その別の世界の主人公たちは動いている。
 「森が空に浮き--」も、わかる。そういう別の世界を生きているものたちは、いつかは完全に別の世界へ行ってしまう。私たちは私たちの世界に取り残される。野うさぎは野から去った。そして森は大地から飛び去って、空へ--だが、その空は、私たちの見ている空ではない。私たちの見ている空の反対側というのか、それともそれを超越した特権的な空といえばいいのか、特別な空へ飛び去った。私たちは、森が飛び去って消えた空をみているつもりだが、ほんとうはその空は見えない。これも、私には、とてもなつかしい風景である。
 私がわからないのは、「遠ざかる足音」の3行である。
 ここには何が書かれているのだろうか。
 「足音」とはだれの足音なのか。「床」とは、どこにある床なのか。「梁」は川に仕掛けられた「梁」なのだと思うが、どこにある川なのだろう。そして「梁に落ちた葉のように」「沈みこむ」とはどういうことだろうか。葉っぱは簡単には沈み込まない。まず水に浮く。浮いて流れる。それが梁にぶつかり、流れかねて、やがて沈む。そこには「時間」がある。野うさぎが「出口」から去るのに「時間」は必要がない。一瞬である。でも、梁に葉が沈むには「時間」がかかる。--これは、なんだろうなあ、どういうことを書いているのかなあ。それがわからない。

 別の読み方をしてみなければならないのかもしれない。4篇の詩。それは4篇ではなく、1篇だとすれば、この作品には「起承転結」があるということになるかもしれない。
 起「野うさぎ」は野の風景。野うさぎが消える。
 承「風」は樫の樹と空の風景。樫の樹が空に入れてくれと訴えている。
 転「足音」--これは、わからない。保留。
 結「森」。森ごと(野うさぎの野、樫の樹を含めて)空に消えてしまう。
 「転・足音の世界」は、どうも「自然」の世界ではないように感じる。人間の世界かもしれない。自然の世界を「起・承」と描いてきて、「転」でその世界とは別なものを描く。そのあとで「結」のことばを動かすことで、全体をもう一度統一し直す、ということかもしれない。
 で、ここからは、まあ、私の勝手な想像である。
 トランスロンメルは、この4篇(あるいは1篇)を「家」のなかで書いている。家のなかから世界を見て書いているのである。家のなかから野と野うさぎを見ている。家のなかから樫の樹と空を見ている。家のなかから森を見ている。空を見ている。
 そしてそのとき、野に私たちの見ている野と野うさぎが生きている野の違いがあったように、もしかすると私たちの見ている家と詩人(トランスロンメル)の見ている家との違いがあるのかもしれない。
 野うさぎの3行では、私たち(私、と言い換えた方がいいかもしれない)とトランスロンメルは「一体」になって生きている。野うさぎという人間以外のいのちがそこにあるために、私とトランスロンメルは「人間」という「ひとくくり」のなかに生きていることになる。
 しかし、「家」のなかでは、そういう具合にはいかない。「家」はあくまでトランスロンメルの家であり、私の家ではないのだから。
 で。(ここから飛躍してしまうので、「で」としかいいようがないのだが。)
 で、その「家」のなかで、トランスロンメルは、トランスロンメルと「トランスロンメル」に分離(?)する。変なたとえになってしまうが野から消えた「野うさぎ」としての「トランスロンメル」。野から「出口」を見つけて消えていく野うさぎのように、「家から消えて行くトランスロンメル」--それを見ているトランスロンメル(詩を書いているトランスロンメル)。
 そして、「トランスロンメル」が家から消えていく(去っていく--この詩では「床に沈みこむという形で消える)とき、「トランスロンメル」は「野うさぎ」であり、「樫の樹」であり、「森」なのだ。つまり、私たちの世界から「消え去る」。そのとき「トランスロンメル」は「野うさぎ」「樫の樹」「森」と「一体」になっている。
 この「一体感」のなかに、「俳句」の神髄につながるものがあるのだけれど--うーん、私の感じる「俳句」とは違う。まあ、違って当たり前なのだけれど。
 何が違うかというと……。
 俳句の場合、「世界」は消えない。「私」も消えない。「世界」と「私」の区別がなくなる。私は世界にとどまりつづける。私は消滅しているが、それは便宜上の言い方で、私は世界そのものとして現前している。
 けれど、トランスロンメルの場合、「去る」ということばが象徴的だけれど、何かが動いていくのである。別の世界へ行くのである。




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