高岡淳四「腹がゆるい」(「現代詩手帖」2012年02月号)
高岡淳四の「正直」は、ことばそのものに対する「正直」なのかもしれない。「腹がゆるい」を読むと、高岡はことばを確実に「肉体化」している。
ここでのことばの「肉体化」というのは、単純に「お医者さんのともだち」の言ったことばを実践してみたら、それが肉体に反映したということなのだが、この「笑い話」のようなことばと肉体の関係が、意外と、深いところで「ことばの肉体化」ということそのものとつながっているように思えるのだ。
「ことばを聞く」が「肉体に効く」。「肉体」は「ことばを理解する」のかな? あるいは「肉体」はことばにだまされるのかな?
何か不思議なつながりがあるかもしれない。
このつながりを、強引に「思想」にしないで、つまり強引に論理で解明した振りをしないで、そのままほうりだすことを、高岡は得意としている。そのほうりだし方に、また、高岡の正直があらわれていて、私はとても好きである。
「頭」で考えた論理ではなく、「いま/ここ」にある「肉体」が「肉体」のまま、目に見えてくる。「肉体」のなかには、ことばにはなりきれない(論理にはなりきれない)なにかが動いている。それが、そのまま「肉体」としてわかる。
詩のつづき。
放射線量はどうなったのか。枯れ葉はどう処理されたのか。何もわからない。わからないまま、公園と高岡の肉体(高岡のこどもの肉体)は中途半端にほうりだされている。中途半端なまま、何かが「肉体」のなかにたまりつづける。「あの公園へは行ってはいけない」というような「抑止」が「肉体」のなかで動く。
「続報」を聞けば、その「肉体」のなかの「抑止」には変化か起きるかもしれない。けれど、「続報(ことば)」を聞かないので、「肉体」はかわりようがない。「放射線量が高かった」「遠足が中止になった」ということばが、高岡の「肉体」に効いているのである。
詩の最終連。
ことばは聞こえた。「肉体(耳)」はたしかに、それを聞いた。「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」。でも、このことばは、高岡自身の「肉体」でどう反復していいのかわからない。
「全身運動をする時は/マスクをしなさい」。これはすぐに「肉体」で反復できた。その結果、悩みの種だった「腹がゆるい」という状態は改善された。ことばと「肉体」は親密に交流している。
「放射線量が高い」公園へは、行かない。そのとき「肉体」はことばが伝える「行ってはいけない」を反復している。反復しているが、「続報」がないので、つぎに何をしていいかわからない。そのまま、「行かない」があいまいにつづいている。「肉体」はあいまいを生きている。
さて、「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」はどうすべきなのか。
わからない。
このわからなさが、「福島第一原発事故処理」を「意味」のある「漢字」ではなく、単なる音「ふくしまだいいちげぱつじこしょり」に解体する。「肉体」は、その「音」だけを受け入れている。「意味」をつかみ、その「意味」を「肉体」で反復することをほうりだしている。
ことばというより、音は聞こえた。けれど、それを高岡の「肉体」は覚えることができない。肉体で反復することはできない。
言い換えると。
たとえば自転車に乗っていて腹がゆるくなったとする。そのとき、「あ、そうだ、こういうときはマスクをして自転車に乗ればいいのだ」ということを、「ことば」ではなく「肉体」が覚えている。「肉体」がマスクを要求する。
「肉体」が覚えていることは、私たちはいつでも反復できる。そして、この「肉体が覚えていること」こそが、人間のほんとうの「思想・哲学」である。「肉体」の正直な反応こそが「思想・哲学」である。
高岡淳四の「正直」は、ことばそのものに対する「正直」なのかもしれない。「腹がゆるい」を読むと、高岡はことばを確実に「肉体化」している。
多摩川河川敷を
自転車をころがして通勤していたら
腹がゆるい感じがするのだが
ゆるくても大丈夫かな、
色々聞くから心配になるよ、
と、お医者さんの
ともだちに言ってみたら
全身運動をする時は
マスクしなさい、と
言われた。言う通りにしたら
ゆるくなくなった
ここでのことばの「肉体化」というのは、単純に「お医者さんのともだち」の言ったことばを実践してみたら、それが肉体に反映したということなのだが、この「笑い話」のようなことばと肉体の関係が、意外と、深いところで「ことばの肉体化」ということそのものとつながっているように思えるのだ。
「ことばを聞く」が「肉体に効く」。「肉体」は「ことばを理解する」のかな? あるいは「肉体」はことばにだまされるのかな?
何か不思議なつながりがあるかもしれない。
このつながりを、強引に「思想」にしないで、つまり強引に論理で解明した振りをしないで、そのままほうりだすことを、高岡は得意としている。そのほうりだし方に、また、高岡の正直があらわれていて、私はとても好きである。
「頭」で考えた論理ではなく、「いま/ここ」にある「肉体」が「肉体」のまま、目に見えてくる。「肉体」のなかには、ことばにはなりきれない(論理にはなりきれない)なにかが動いている。それが、そのまま「肉体」としてわかる。
詩のつづき。
うちのちびすけが
遠足に行く筈だった公園は
枯れ葉が深く積もる場所。
放射線量が高かったと
報道されたのがそこで
春の遠足が中止になった
続報は聞かない
放射線量はどうなったのか。枯れ葉はどう処理されたのか。何もわからない。わからないまま、公園と高岡の肉体(高岡のこどもの肉体)は中途半端にほうりだされている。中途半端なまま、何かが「肉体」のなかにたまりつづける。「あの公園へは行ってはいけない」というような「抑止」が「肉体」のなかで動く。
「続報」を聞けば、その「肉体」のなかの「抑止」には変化か起きるかもしれない。けれど、「続報(ことば)」を聞かないので、「肉体」はかわりようがない。「放射線量が高かった」「遠足が中止になった」ということばが、高岡の「肉体」に効いているのである。
詩の最終連。
年の瀬ですね
うちは、ボーナスがでました、
一息つけました。
きょうテレビをつけていたら、
ふくしまだいいちげぱつじこしょりの
ステップ・ツーは終了、
そのような言葉が聞こえました
ことばは聞こえた。「肉体(耳)」はたしかに、それを聞いた。「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」。でも、このことばは、高岡自身の「肉体」でどう反復していいのかわからない。
「全身運動をする時は/マスクをしなさい」。これはすぐに「肉体」で反復できた。その結果、悩みの種だった「腹がゆるい」という状態は改善された。ことばと「肉体」は親密に交流している。
「放射線量が高い」公園へは、行かない。そのとき「肉体」はことばが伝える「行ってはいけない」を反復している。反復しているが、「続報」がないので、つぎに何をしていいかわからない。そのまま、「行かない」があいまいにつづいている。「肉体」はあいまいを生きている。
さて、「ふくしまだいいちげぱつじこしょりの/ステップ・ツーは終了」はどうすべきなのか。
わからない。
このわからなさが、「福島第一原発事故処理」を「意味」のある「漢字」ではなく、単なる音「ふくしまだいいちげぱつじこしょり」に解体する。「肉体」は、その「音」だけを受け入れている。「意味」をつかみ、その「意味」を「肉体」で反復することをほうりだしている。
ことばというより、音は聞こえた。けれど、それを高岡の「肉体」は覚えることができない。肉体で反復することはできない。
言い換えると。
たとえば自転車に乗っていて腹がゆるくなったとする。そのとき、「あ、そうだ、こういうときはマスクをして自転車に乗ればいいのだ」ということを、「ことば」ではなく「肉体」が覚えている。「肉体」がマスクを要求する。
「肉体」が覚えていることは、私たちはいつでも反復できる。そして、この「肉体が覚えていること」こそが、人間のほんとうの「思想・哲学」である。「肉体」の正直な反応こそが「思想・哲学」である。
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