中田敬二『転位論』(港の人、2012年01月28日発行)
中田敬二『転位論』にはいくつものスタイルの詩がおさめられている。どれについて書いていいのか少し迷ってしまう。
最初に掲載されているのは「るばいやーと・片言集」という4行が1篇(でいいのかな?)の作品。372 から375 までが、最初に読むせいなのかもしれないけれど、印象に残る。
ことばが「意味」になるまえに逃げていく。「意味」の追跡をふりきって弾ける感じがする。「ヴィーナス 愛/金星」というのは読み方によっては(読み方によらなくても)意味そのものではあるけれど、動詞(述語)がないために、とても軽くて気持ちがいい。述語があると重くなる。ことばが「もの」ではなく「意味」になる--と書いてもしようがないね。これは、私の「感覚」。
私が感じているものを、どうことばにすればいいのか、実はわからない。
酒の興奮--というより、酒により気分が軽くなる瞬間の解き放たれた感じが気持ちがいいのだろうと思う。やわらかい酒にじっくり酔うのではなく、荒々しい酒で一気に酔うのがおもしろいかもしれない。スピリットのぶつかりあい、とでもいえばいいのかな。
「ミルト酒」というのは、私はどういう味かまったく知らないのだけれど。
他の作品は、ことばがページの上に散らばっていて、正確な再現(転写)ができない。(こともないのかもしれないが、私は面倒でできない。)中田は「空白」にも気を配っているのかもしれないが、私は、ばらばらなことばの配置を把握する視力がないので、空白を無視して引用する。(原文は詩集で確認してください。)
「無明と無名」
突然出てくる「情死」がなかなかおもしろい。「無明と無名の情死」というのは、いいかな、と思う。何かがぶつかりあう感じが、たぶん、詩の基本なのだと思う。それが、ここには単純な形で存在している。
私の引用したスタイルでは、かなり窮屈な感じがするが、こうやって引用してみると、うーん、そうか、やっぱり散らばっていた方が、中田のことばは輝くのかとも思う。(反省)。
「フラミニア街道を行く」の途中(?)もとても生き生きとしている。
この作品も、活字の頭をそろえ、行間もなくして引用すると、何だか違ってくるなあ。実際に引用してみないと、わからないものだなあ。
--ということで、書きたいことが、引用している間に消えてしまった。かわってしまった。というべきなのか、この形式では中田のことばの輝きは伝えられないので、詩集で読んでくださいと言うべきなのか。
私はもともと何を書きたいか、きちんと「結論」を考えてから書きはじめるのではないので、しょっちゅう、こういうことが起きる。
中途半端だけれど、きょうの感想は、ここまでにしよう。
いや、強引につづけて書こう。いままで書いてきたことを否定して(といっても、書き直したりはしない)、思いついたことを書いておく。
中田のことばは、ことばそのものの音楽ではなく、そのことばを視覚化したときに聴こえてくる音楽と向き合っている。空白のなかにある音楽--それはことばの持っている音楽を分断し、意味を拒絶する。
あるいは「意味」は、それぞれのことばのなかにあるけれど、他のことばとは結びつかない。切断されることによって、ことばの持っている音楽と空白の音楽が拮抗する。そこに不思議な美しさがある。
でもねえ。
私は、中田の書いている詩を、私の「肉体」にはできない。「肉体」で覚えることができない。
そういう気持ちが、最後に、ぽつんと生まれてきてしまう。
やっぱり、中途半端におわるしかないね、私の感想は。
*
この詩集には、牧野伊三郎の絵と中田の写真も同時に掲載されている。牧野の絵はとてもいい。画材がはっきりしないのだが、クレヨンと水彩をつかっているのかな? 水彩絵の具がクレヨンではじかれてできる断絶が、中田のことばと空白の感じによく似ている。ことばが空白にはじかれてばらばらに飛び散るように、水彩絵の具がクレヨンにはじかれて飛び散る。飛び散りながら、それでもそこに連続というか、接続がある。
あ、この感想から書きはじめれば、中田のこの詩集の輝きは、もう少し私の「肉体」に近づいたかもしれないなあ。
でも、これもここまでにしておこう。
牧野の絵はモノクロだが、原画はきっとカラーだと思う。(カラーの絵を見たい。)印刷された絵は絵ではないから、感想を書いてもはじまらない、と思うので。
中田敬二『転位論』にはいくつものスタイルの詩がおさめられている。どれについて書いていいのか少し迷ってしまう。
最初に掲載されているのは「るばいやーと・片言集」という4行が1篇(でいいのかな?)の作品。372 から375 までが、最初に読むせいなのかもしれないけれど、印象に残る。
酒は夜なかに飲むのがいい
HARD AND CLEA
サカナもいい
HERBS & SPICES
サルデーニャ島のミルト酒
Miro ギンバイカ 銀梅花
ヴィーナス 愛
金星
夜のひとり歩き
が
またいい
酔って
ながれる雲と
傷ついた木の葉のゆくえを追う
老いた風
よって
ことばが「意味」になるまえに逃げていく。「意味」の追跡をふりきって弾ける感じがする。「ヴィーナス 愛/金星」というのは読み方によっては(読み方によらなくても)意味そのものではあるけれど、動詞(述語)がないために、とても軽くて気持ちがいい。述語があると重くなる。ことばが「もの」ではなく「意味」になる--と書いてもしようがないね。これは、私の「感覚」。
私が感じているものを、どうことばにすればいいのか、実はわからない。
酒の興奮--というより、酒により気分が軽くなる瞬間の解き放たれた感じが気持ちがいいのだろうと思う。やわらかい酒にじっくり酔うのではなく、荒々しい酒で一気に酔うのがおもしろいかもしれない。スピリットのぶつかりあい、とでもいえばいいのかな。
「ミルト酒」というのは、私はどういう味かまったく知らないのだけれど。
他の作品は、ことばがページの上に散らばっていて、正確な再現(転写)ができない。(こともないのかもしれないが、私は面倒でできない。)中田は「空白」にも気を配っているのかもしれないが、私は、ばらばらなことばの配置を把握する視力がないので、空白を無視して引用する。(原文は詩集で確認してください。)
「無明と無名」
さむい
無明
と
さみしい
無名
情死だったそうです
突然出てくる「情死」がなかなかおもしろい。「無明と無名の情死」というのは、いいかな、と思う。何かがぶつかりあう感じが、たぶん、詩の基本なのだと思う。それが、ここには単純な形で存在している。
私の引用したスタイルでは、かなり窮屈な感じがするが、こうやって引用してみると、うーん、そうか、やっぱり散らばっていた方が、中田のことばは輝くのかとも思う。(反省)。
「フラミニア街道を行く」の途中(?)もとても生き生きとしている。
切り立った断崖が
フルロの峡谷を見下ろしている
まさしく’フルロの喉’である
息がつまる
深いミドリの恐怖が
わたしを呑みこむ
夕陽が
影を落す
静謐
私は
空翔する鷲である
この作品も、活字の頭をそろえ、行間もなくして引用すると、何だか違ってくるなあ。実際に引用してみないと、わからないものだなあ。
--ということで、書きたいことが、引用している間に消えてしまった。かわってしまった。というべきなのか、この形式では中田のことばの輝きは伝えられないので、詩集で読んでくださいと言うべきなのか。
私はもともと何を書きたいか、きちんと「結論」を考えてから書きはじめるのではないので、しょっちゅう、こういうことが起きる。
中途半端だけれど、きょうの感想は、ここまでにしよう。
いや、強引につづけて書こう。いままで書いてきたことを否定して(といっても、書き直したりはしない)、思いついたことを書いておく。
中田のことばは、ことばそのものの音楽ではなく、そのことばを視覚化したときに聴こえてくる音楽と向き合っている。空白のなかにある音楽--それはことばの持っている音楽を分断し、意味を拒絶する。
あるいは「意味」は、それぞれのことばのなかにあるけれど、他のことばとは結びつかない。切断されることによって、ことばの持っている音楽と空白の音楽が拮抗する。そこに不思議な美しさがある。
でもねえ。
私は、中田の書いている詩を、私の「肉体」にはできない。「肉体」で覚えることができない。
そういう気持ちが、最後に、ぽつんと生まれてきてしまう。
やっぱり、中途半端におわるしかないね、私の感想は。
*
この詩集には、牧野伊三郎の絵と中田の写真も同時に掲載されている。牧野の絵はとてもいい。画材がはっきりしないのだが、クレヨンと水彩をつかっているのかな? 水彩絵の具がクレヨンではじかれてできる断絶が、中田のことばと空白の感じによく似ている。ことばが空白にはじかれてばらばらに飛び散るように、水彩絵の具がクレヨンにはじかれて飛び散る。飛び散りながら、それでもそこに連続というか、接続がある。
あ、この感想から書きはじめれば、中田のこの詩集の輝きは、もう少し私の「肉体」に近づいたかもしれないなあ。
でも、これもここまでにしておこう。
牧野の絵はモノクロだが、原画はきっとカラーだと思う。(カラーの絵を見たい。)印刷された絵は絵ではないから、感想を書いてもはじまらない、と思うので。
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