伊達風人『風の詩音』(思潮社、2012年02月12日発行)
伊達風人『風の詩音』にはいくつかの方法論で書かれた作品がある。「数詞」という作品が伊達の詩のひとつの特徴をあらわしている。
この作品は、零から九までが「私は」という形で自分を語る。そこに書かれていること(内容)も重要なのだろうけれど、それよりも伊達にとっては、「方法」が大事なのだと思う。
なぜ、「方法」が大事か。
「方法」によってことばを動かすと、そこに論理が出てくる。その論理はほんとうの論理であるかどうかわからないけれど、方法のあるところ、論理が出現する。そして、この「出現」が、伊達にとっての詩なのである。
いままでそこになっかたものが、ことばの運動、一定の方法で動くことばによって、浮かび上がってくる。「抒情」とか「感情」ではなく--そういうものとは対極にある「論理」、あるいは「理性」といえばいいのかな?
まあ、一種の「哲学」が「出現」する。その「哲学」そのものよりも、それが「出現」することが大事なのだと思う。
こういう感覚は、私はとても好きである。
論理というのは不思議なもので、方法に従ってことばを動かしつづけると(くりかえしつづけると)、それがどんな運動であっても、なんとなく論理っぽく見える。持続する方法が疑似論理をつくりだしてしまう。
そして、そこから「虚数」のような、なんとも不思議な力というか、論理の力だけが出現させることのできる何かが生まれてくる。
これは、とてもおもしろいことだと思う。
ただし、それがほんとうにおもしろくなるのは、その持続が「虚数」になるとき、何か、「いま/ここ」を裏切るものがないといけないと思う。
伊達のことばの運動は、まだ、そこまでは行っていないと思う。行こうとして、行けないもどかしさがある。
いわば、これから(今後)、ほんとうの詩が生まれるのだと思う。
しかし、残念なことに、伊達はもうことばを動かすことができない。2011年に死亡している。くやしい思いが残る。
それとは別に、一篇とてもかわった詩がある。「レシート」。私は詩集のなかでは、この作品がいちばん好きである。
この作品には論理が作り上げる虚数の出現とはまったく違うものがある。
ここに書かれていることばは、それぞれ「過去」を持っている。「肉体」を持っている。「時間」を持っている。
それはまるで唐十郎の芝居のことばのようでもある。
人間が生きている、動いている、そのときに肉体があるということを前提としていることばである。
は、単なる「記号」のようなものである。
「数詞」のことばのように「私は……」と主張しない。
ことばは主張しないが、そのかわりに、そのときそこにある「肉体」が「論理」ではないものを「出現」させる。
これはなかなか手ごわくて、拒絶できない力をもっている。
そういうものをさして、私は「肉体」ととりあえず呼んでいるのだが--これは正確ではないかもしれない。--まあ、私にもよくわからない。
こういうことばは、書こうとしてもなかなか書けない。「論理」を捨てないと書けない。「論理」は、どちらかというと「肉体」と相性が悪い。「肉体」は「論理」では動かない。
この詩は、伊達の書きたい詩ではなかったかもしれない。というか、目指していた世界ではなかったかもしれない。
これは、ちょっと難しい問題である。
ひとが書きたいと思うことと、他人がそのひとのおもしろいと思うところが必ずしも一致しない。
かなわないことなのだけれど、もし伊達が生きているなら、こういう詩をもっと書いてみて、と言いたい。
伊達風人『風の詩音』にはいくつかの方法論で書かれた作品がある。「数詞」という作品が伊達の詩のひとつの特徴をあらわしている。
零「 、 。 、 。」
一「私こそは、究極の強み。つまりは存在そのもの。私は、
私以外のものを一切所有したいとは思わない。故に、
この世に現われるいかなる苦難も、私は、この存在の
強みで、割り切ることが出来る。」
二「私は初めての素数。誰もが憧れる素敵な存在。常に昼
と夜とで二分される地球においては、グウスウ……と
眠る整数世界の半分は、みな私の虜。」
この作品は、零から九までが「私は」という形で自分を語る。そこに書かれていること(内容)も重要なのだろうけれど、それよりも伊達にとっては、「方法」が大事なのだと思う。
なぜ、「方法」が大事か。
「方法」によってことばを動かすと、そこに論理が出てくる。その論理はほんとうの論理であるかどうかわからないけれど、方法のあるところ、論理が出現する。そして、この「出現」が、伊達にとっての詩なのである。
いままでそこになっかたものが、ことばの運動、一定の方法で動くことばによって、浮かび上がってくる。「抒情」とか「感情」ではなく--そういうものとは対極にある「論理」、あるいは「理性」といえばいいのかな?
まあ、一種の「哲学」が「出現」する。その「哲学」そのものよりも、それが「出現」することが大事なのだと思う。
こういう感覚は、私はとても好きである。
論理というのは不思議なもので、方法に従ってことばを動かしつづけると(くりかえしつづけると)、それがどんな運動であっても、なんとなく論理っぽく見える。持続する方法が疑似論理をつくりだしてしまう。
そして、そこから「虚数」のような、なんとも不思議な力というか、論理の力だけが出現させることのできる何かが生まれてくる。
これは、とてもおもしろいことだと思う。
ただし、それがほんとうにおもしろくなるのは、その持続が「虚数」になるとき、何か、「いま/ここ」を裏切るものがないといけないと思う。
伊達のことばの運動は、まだ、そこまでは行っていないと思う。行こうとして、行けないもどかしさがある。
いわば、これから(今後)、ほんとうの詩が生まれるのだと思う。
しかし、残念なことに、伊達はもうことばを動かすことができない。2011年に死亡している。くやしい思いが残る。
それとは別に、一篇とてもかわった詩がある。「レシート」。私は詩集のなかでは、この作品がいちばん好きである。
机の後ろにレシートが一枚落ちていた
人の記憶がいつもそうであるように
インクもかなり薄くなっていたけれど
あのころ好きだった人と一緒に
百円ショップで買ったものが
そこには羅列して記されていた
ザッカ ¥100
ザッカ ¥100
ショクヒン ¥100(×2ヶ)
小計 ¥400
消費税 ¥20
合計 ¥420(内税 ¥20)
それがあまりにも機械的な買い物だった
というのが少し笑えた でも
雑貨のひとつは あのマグカップで
もうひとつは 僕の裸電球で
そして食品は 甘党の二人が好きだった
ビターチョコレートだったということは
世界中の記録を調べても出てこない
二人だけの 確かな記憶なんだ
この作品には論理が作り上げる虚数の出現とはまったく違うものがある。
ここに書かれていることばは、それぞれ「過去」を持っている。「肉体」を持っている。「時間」を持っている。
それはまるで唐十郎の芝居のことばのようでもある。
人間が生きている、動いている、そのときに肉体があるということを前提としていることばである。
ザッカ ¥100
は、単なる「記号」のようなものである。
「数詞」のことばのように「私は……」と主張しない。
ことばは主張しないが、そのかわりに、そのときそこにある「肉体」が「論理」ではないものを「出現」させる。
これはなかなか手ごわくて、拒絶できない力をもっている。
そういうものをさして、私は「肉体」ととりあえず呼んでいるのだが--これは正確ではないかもしれない。--まあ、私にもよくわからない。
こういうことばは、書こうとしてもなかなか書けない。「論理」を捨てないと書けない。「論理」は、どちらかというと「肉体」と相性が悪い。「肉体」は「論理」では動かない。
この詩は、伊達の書きたい詩ではなかったかもしれない。というか、目指していた世界ではなかったかもしれない。
これは、ちょっと難しい問題である。
ひとが書きたいと思うことと、他人がそのひとのおもしろいと思うところが必ずしも一致しない。
かなわないことなのだけれど、もし伊達が生きているなら、こういう詩をもっと書いてみて、と言いたい。
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