詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月苑巳「寄り道式部」、岩佐なを「さんかく」

2012-02-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
望月苑巳「寄り道式部」、岩佐なを「さんかく」(「孔雀船」79、2012年01月15日)

 望月苑巳「寄り道式部」の「物語」は架空を前提としてはじまる。そこに「私」は直接的には登場しない。

御堂関白・道長は男子禁制の部屋に忍び込み
シェイクスピアを読んでいた式部を
後ろから抱きしめて驚かした。
空には水玉模様の月。

 飛躍(ありえないものの出合い)と現実感覚の交錯がうまく機能すると、こういう詩は楽しくなる。2行目のシェイクスピアがこの「物語」が架空、嘘であることを正確に語っている。こういう正確さは安心できるからうれしい。
 この真っ赤な嘘に、「忍び込み」「後ろから抱きしめ」るという肉体の動きが重なると、嘘が現実になる。人間は(私は、かな?)、嘘よりも肉体の動きを信じてしまう。どうしても自分の肉体を重ねてしまう。
 そしていったん重なると、それにつづいてどんな嘘がでてきても平気。いや、嘘が積みかさなった方が楽しい。

空には水玉模様の月。

 この1行はシェイクスピア異常におもしろい。シェイクスピアは知っているが「水玉模様の月」は知らない。月の表面に水玉がある? あるいは月が水玉みたいに空にひろがっている? どうせありえないのだから、よりありえない方をえらんだ方がたのしいだろうなあ。空に月が水玉模様を描いている--と想像してみる。うーん、豪華。

殿方というものは、なんで手練手管ばかり競い合うのかしら
頬を染めながら、式部はそんな出来事をノートにしるす。

 「手練手管を競い合う」というのはいわば「常套句」だけれど、常套句だけが持つ現実感覚が、「ノート」と出合って、「物語」へ加速する。
 どんな嘘でも現実を踏まえないと嘘にならない。
 このあたりを望月のことばは順当におさえている。

夜更けの部屋に
雪の降る音がにじみだしてくる
母さまの匂いがする
大人になってよかったことは何?
母さまと同じかなしみのたかちを
袖に焚き込まなければ
この部屋を出てはいけないの?

 ここは、私の好みからすると、微妙である。「出てはいけないの?」は、どういう意味だろう。
 それがかなしみであっても、誰かと同じこと(かたち)にたどりつくというのは、なかなかおもしろいものだと思う。「出てはいけないの?」が否定の意味なら--私はとても残念に思う。
 だいたい「物語」というのは、「架空」をとおして、誰かと一体になるとこだ。自分が体験しなかったことを、他人の行動を通して体験する。誰かと同じことをする。同じ形の何かを実感する。それはかなしみであっても、喜びである。そこには「発見」がある。
 シェイクスピアを式部が読むというのは「歴史」に反する。しかし、それではいま、私たちがシェイクスピアを読むというのは、どうだろう。時代を越えるという点では式部がシェイクスピアを読むのと変わりはない。そして、ことばは--これから私が書くことは「暴論」なのだけれど。
 ことばは、時代を越える。それは、過去のことばが未来へと引き継がれるということだけではなく、未来のことばが過去のことばを突き動かすということである。シェイクスピアが源氏物語のなかにあらわれて、そこに書いてあることばを動かしていく--そういうことは実際にある。
 (具体的には書かないけれど、ね。「自論」は具体的に書くと「企業秘密」をさらすことになるからね--とごまかしておく。)



 岩佐なを「さんかく」も「架空」のことを書いている。「物語」と呼ぶこともできるだろうと思う。「架空」を「夢」と言い換えることもできる。

細い意識の糸を
ほぐしながらも
自分が覚めているのかは
わからなかった
気づいたことは三角のこと
相似形の三角は
小さいほうが大きいほうを
思いやる姿を意外に思いながら
ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた
補助線を正すには手を焼くだろう

 「主役」は「わたし」? つまり「意識の糸を/ほぐし」ている人間? 岩佐? あるいは三角形? 図形? それとも三角定規?
 まあ、どうでもいい。
 おもしろいのは、「小さいほうが大きいほうを/思いやる姿」。これは、「架空」の話なのに、この部分「架空」とは感じないでしょ? 「主語」を三角形に限定しないと、こういう状況って体験するでしょ?
 大きい方(たとえば兄、あるいは親)が小さい方(弟、こども)を思いやるというのが人間のふつうのあり方だけれど、ときとして逆のことがあるね。そしてそれは、なんといえばいいのだろう、「意味」を越えて「肉体」に直接響いてくるね。
 こういう「肉体」の動きを岩佐はしっかりと「架空の物語」に取り込んでいる。
 だから「主語」が「三角形」なのに、そこに「人間」を感じてしまう。「人間」の「肉体」を感じてしまう。ことばではうまく説明できない何か--腹に溜まる何かを感じさせる。

ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた

 この2行の「補助線」や「鋭角」なんて、人間とは無関係なものなのだが、「触れる」「したごころ」「疎ましい」ということばといっしょに動くとき、「補助線」が「したごころ」に、そしてそれを感じる意識が「鋭角」に(あるいは「したごころ」が触れてくるときのちくちくした感じを「鋭角」と読んだのかな?)思えてくる。
 この「思い」は「正確」ではない。
 そして、これは矛盾した言い方だけれど「正確」ではないからこそ、「正しい」。「肉体」にとっては正しい。
 「肉体」が、ことばを越えて(正確にことばにできないまま)、感じとる何か--それは肉体にとってはまぎれもない「事実」であり、その「まぎれもない事実」を「正しい」と私は定義している。
 岩佐は、こういう「まぎれもない事実」を積み重ねて、「肉体」の内部を耕す。そうして耕された肉体の深部のふわふわ感が岩佐の肉体(思想)そのものである。


アンソロジー望月苑巳 (現代詩の10人)
望月 苑巳
土曜美術社出版販売



鏡ノ場
岩佐 なを
思潮社
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園子温監督「ヒミズ」(★★★★)

2012-02-15 09:36:28 | 映画
監督 園子温 出演 染谷将太、二階堂ふみ

 おもしろいシーンがいくつもある。いちばん印象的なのが少年と父とのやりとりである。父は少年に向かって「おまえなんかいらない。生まれてこなければよかったんだ。殺してやりたい。殺してしまえばすっきりする。なんでも好きなことができる」というようなことを言う。父は何度も何度もくりかえしているので、少年はそのことばをすっかり覚えてしまっている。それなのに父は毎回、それを初めて言ったと思う。言うたびに、「やっと言いたいことが言えた。すっきりした」と言うのだ。
 この映画には詩が重要な役割を果たしているが、詩のあり方と、この父のことばを対比させると不思議なものが見えてくる。
 父親は「気持ち」を語っているが、それは「気持ち」ではない、ということだ。父親のなかにある「感情(思い)」には違いないのだろうけれど、それは実は「気持ち・感情・思想」になりきれていない、あいまいなことばなのである。父親の思想は酔っぱらって不機嫌であるということだけなのである。父親の肉体となって支えている「思想」は、酔っぱらってくだをまくと、そのとき「世界」を忘れられるという「事実」である。酔っぱらって、息子にからみ、何事かを言う、セックス相手の妻を探す--その肉体が「思想」である。「おまえを殺せばすっきりする」というのは、「思想」になりえていない、未生のことばなのである。だから父親は何度も何度も、それを忘れてしまう。そのことばといっしょに「気持ち」は生まれてはいないのだ。
 この映画は、そういう生まれていないことばと対比させる形で、少年のなかからことばが生まれるまでを克明に描いている。ことばはある年齢になればだれでもがしゃべる。しかし、しゃべるからといって、それがことばであるとは限らないのだ。多くは自分のことばではない。だれかのことば。それを、うのみにして反復している。父の「おまえがいなければ云々」もちちのことばというより、「流通言語」なのだ。
 たいていは「流通言語」だけで暮らすことができる。しかし、ときには自分のことばが必要になる。自分の「気持ち」をはっきりさせるための「ことば」が必要になる。「気持ち」をつくる必要があるのだ。「気持ち」は最初からあるのではなく、つくりあげていくもの、鍛えていくものなのだ。鍛え上げられた気持ちが「思想」なのだ。
 少年は父を発作的に殺してしまう。そのとき「気持ち」が生まれる。いままで知らなかった「気持ち」が「肉体」のなかに生まれてくる。だれも教えてくれなかった「気持ち」。それをどうしていいのか、少年はわからない。手探りである。誰かが誰かを殺そうとしている。そう気づいて少年は、その殺人者を襲う。そのとき別の人が少年を助け「逃げろ」と指示する。これはいったい何? 何が起きている? 少年はわからない。自分の「気持ち」がわからないように、他人の「気持ち」もわからない。「気持ち」はわからないのに、「肉体」がある。そして、その「肉体」のなかで何かが動いている。
 その動いているものを正確につかむために、少年は苦しむ。
 これは、すごい映画だなあ。--この少年の苦悩を、東日本大震災後の東北の風景(現実)と重ねるとき、少年が自分のひとつだけ残った気持ちをことばにするラストがとても美しく輝く。「気持ち」はつくっていくもの、そして「気持ち」はつくれるものである。「気持ち」をつくれる力が人間にはある。


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