望月苑巳「寄り道式部」、岩佐なを「さんかく」(「孔雀船」79、2012年01月15日)
望月苑巳「寄り道式部」の「物語」は架空を前提としてはじまる。そこに「私」は直接的には登場しない。
飛躍(ありえないものの出合い)と現実感覚の交錯がうまく機能すると、こういう詩は楽しくなる。2行目のシェイクスピアがこの「物語」が架空、嘘であることを正確に語っている。こういう正確さは安心できるからうれしい。
この真っ赤な嘘に、「忍び込み」「後ろから抱きしめ」るという肉体の動きが重なると、嘘が現実になる。人間は(私は、かな?)、嘘よりも肉体の動きを信じてしまう。どうしても自分の肉体を重ねてしまう。
そしていったん重なると、それにつづいてどんな嘘がでてきても平気。いや、嘘が積みかさなった方が楽しい。
この1行はシェイクスピア異常におもしろい。シェイクスピアは知っているが「水玉模様の月」は知らない。月の表面に水玉がある? あるいは月が水玉みたいに空にひろがっている? どうせありえないのだから、よりありえない方をえらんだ方がたのしいだろうなあ。空に月が水玉模様を描いている--と想像してみる。うーん、豪華。
「手練手管を競い合う」というのはいわば「常套句」だけれど、常套句だけが持つ現実感覚が、「ノート」と出合って、「物語」へ加速する。
どんな嘘でも現実を踏まえないと嘘にならない。
このあたりを望月のことばは順当におさえている。
ここは、私の好みからすると、微妙である。「出てはいけないの?」は、どういう意味だろう。
それがかなしみであっても、誰かと同じこと(かたち)にたどりつくというのは、なかなかおもしろいものだと思う。「出てはいけないの?」が否定の意味なら--私はとても残念に思う。
だいたい「物語」というのは、「架空」をとおして、誰かと一体になるとこだ。自分が体験しなかったことを、他人の行動を通して体験する。誰かと同じことをする。同じ形の何かを実感する。それはかなしみであっても、喜びである。そこには「発見」がある。
シェイクスピアを式部が読むというのは「歴史」に反する。しかし、それではいま、私たちがシェイクスピアを読むというのは、どうだろう。時代を越えるという点では式部がシェイクスピアを読むのと変わりはない。そして、ことばは--これから私が書くことは「暴論」なのだけれど。
ことばは、時代を越える。それは、過去のことばが未来へと引き継がれるということだけではなく、未来のことばが過去のことばを突き動かすということである。シェイクスピアが源氏物語のなかにあらわれて、そこに書いてあることばを動かしていく--そういうことは実際にある。
(具体的には書かないけれど、ね。「自論」は具体的に書くと「企業秘密」をさらすことになるからね--とごまかしておく。)
*
岩佐なを「さんかく」も「架空」のことを書いている。「物語」と呼ぶこともできるだろうと思う。「架空」を「夢」と言い換えることもできる。
「主役」は「わたし」? つまり「意識の糸を/ほぐし」ている人間? 岩佐? あるいは三角形? 図形? それとも三角定規?
まあ、どうでもいい。
おもしろいのは、「小さいほうが大きいほうを/思いやる姿」。これは、「架空」の話なのに、この部分「架空」とは感じないでしょ? 「主語」を三角形に限定しないと、こういう状況って体験するでしょ?
大きい方(たとえば兄、あるいは親)が小さい方(弟、こども)を思いやるというのが人間のふつうのあり方だけれど、ときとして逆のことがあるね。そしてそれは、なんといえばいいのだろう、「意味」を越えて「肉体」に直接響いてくるね。
こういう「肉体」の動きを岩佐はしっかりと「架空の物語」に取り込んでいる。
だから「主語」が「三角形」なのに、そこに「人間」を感じてしまう。「人間」の「肉体」を感じてしまう。ことばではうまく説明できない何か--腹に溜まる何かを感じさせる。
この2行の「補助線」や「鋭角」なんて、人間とは無関係なものなのだが、「触れる」「したごころ」「疎ましい」ということばといっしょに動くとき、「補助線」が「したごころ」に、そしてそれを感じる意識が「鋭角」に(あるいは「したごころ」が触れてくるときのちくちくした感じを「鋭角」と読んだのかな?)思えてくる。
この「思い」は「正確」ではない。
そして、これは矛盾した言い方だけれど「正確」ではないからこそ、「正しい」。「肉体」にとっては正しい。
「肉体」が、ことばを越えて(正確にことばにできないまま)、感じとる何か--それは肉体にとってはまぎれもない「事実」であり、その「まぎれもない事実」を「正しい」と私は定義している。
岩佐は、こういう「まぎれもない事実」を積み重ねて、「肉体」の内部を耕す。そうして耕された肉体の深部のふわふわ感が岩佐の肉体(思想)そのものである。
望月苑巳「寄り道式部」の「物語」は架空を前提としてはじまる。そこに「私」は直接的には登場しない。
御堂関白・道長は男子禁制の部屋に忍び込み
シェイクスピアを読んでいた式部を
後ろから抱きしめて驚かした。
空には水玉模様の月。
飛躍(ありえないものの出合い)と現実感覚の交錯がうまく機能すると、こういう詩は楽しくなる。2行目のシェイクスピアがこの「物語」が架空、嘘であることを正確に語っている。こういう正確さは安心できるからうれしい。
この真っ赤な嘘に、「忍び込み」「後ろから抱きしめ」るという肉体の動きが重なると、嘘が現実になる。人間は(私は、かな?)、嘘よりも肉体の動きを信じてしまう。どうしても自分の肉体を重ねてしまう。
そしていったん重なると、それにつづいてどんな嘘がでてきても平気。いや、嘘が積みかさなった方が楽しい。
空には水玉模様の月。
この1行はシェイクスピア異常におもしろい。シェイクスピアは知っているが「水玉模様の月」は知らない。月の表面に水玉がある? あるいは月が水玉みたいに空にひろがっている? どうせありえないのだから、よりありえない方をえらんだ方がたのしいだろうなあ。空に月が水玉模様を描いている--と想像してみる。うーん、豪華。
殿方というものは、なんで手練手管ばかり競い合うのかしら
頬を染めながら、式部はそんな出来事をノートにしるす。
「手練手管を競い合う」というのはいわば「常套句」だけれど、常套句だけが持つ現実感覚が、「ノート」と出合って、「物語」へ加速する。
どんな嘘でも現実を踏まえないと嘘にならない。
このあたりを望月のことばは順当におさえている。
夜更けの部屋に
雪の降る音がにじみだしてくる
母さまの匂いがする
大人になってよかったことは何?
母さまと同じかなしみのたかちを
袖に焚き込まなければ
この部屋を出てはいけないの?
ここは、私の好みからすると、微妙である。「出てはいけないの?」は、どういう意味だろう。
それがかなしみであっても、誰かと同じこと(かたち)にたどりつくというのは、なかなかおもしろいものだと思う。「出てはいけないの?」が否定の意味なら--私はとても残念に思う。
だいたい「物語」というのは、「架空」をとおして、誰かと一体になるとこだ。自分が体験しなかったことを、他人の行動を通して体験する。誰かと同じことをする。同じ形の何かを実感する。それはかなしみであっても、喜びである。そこには「発見」がある。
シェイクスピアを式部が読むというのは「歴史」に反する。しかし、それではいま、私たちがシェイクスピアを読むというのは、どうだろう。時代を越えるという点では式部がシェイクスピアを読むのと変わりはない。そして、ことばは--これから私が書くことは「暴論」なのだけれど。
ことばは、時代を越える。それは、過去のことばが未来へと引き継がれるということだけではなく、未来のことばが過去のことばを突き動かすということである。シェイクスピアが源氏物語のなかにあらわれて、そこに書いてあることばを動かしていく--そういうことは実際にある。
(具体的には書かないけれど、ね。「自論」は具体的に書くと「企業秘密」をさらすことになるからね--とごまかしておく。)
*
岩佐なを「さんかく」も「架空」のことを書いている。「物語」と呼ぶこともできるだろうと思う。「架空」を「夢」と言い換えることもできる。
細い意識の糸を
ほぐしながらも
自分が覚めているのかは
わからなかった
気づいたことは三角のこと
相似形の三角は
小さいほうが大きいほうを
思いやる姿を意外に思いながら
ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた
補助線を正すには手を焼くだろう
「主役」は「わたし」? つまり「意識の糸を/ほぐし」ている人間? 岩佐? あるいは三角形? 図形? それとも三角定規?
まあ、どうでもいい。
おもしろいのは、「小さいほうが大きいほうを/思いやる姿」。これは、「架空」の話なのに、この部分「架空」とは感じないでしょ? 「主語」を三角形に限定しないと、こういう状況って体験するでしょ?
大きい方(たとえば兄、あるいは親)が小さい方(弟、こども)を思いやるというのが人間のふつうのあり方だけれど、ときとして逆のことがあるね。そしてそれは、なんといえばいいのだろう、「意味」を越えて「肉体」に直接響いてくるね。
こういう「肉体」の動きを岩佐はしっかりと「架空の物語」に取り込んでいる。
だから「主語」が「三角形」なのに、そこに「人間」を感じてしまう。「人間」の「肉体」を感じてしまう。ことばではうまく説明できない何か--腹に溜まる何かを感じさせる。
ある鋭角の先に触れる補助線の
したごころを疎ましく感じてもいた
この2行の「補助線」や「鋭角」なんて、人間とは無関係なものなのだが、「触れる」「したごころ」「疎ましい」ということばといっしょに動くとき、「補助線」が「したごころ」に、そしてそれを感じる意識が「鋭角」に(あるいは「したごころ」が触れてくるときのちくちくした感じを「鋭角」と読んだのかな?)思えてくる。
この「思い」は「正確」ではない。
そして、これは矛盾した言い方だけれど「正確」ではないからこそ、「正しい」。「肉体」にとっては正しい。
「肉体」が、ことばを越えて(正確にことばにできないまま)、感じとる何か--それは肉体にとってはまぎれもない「事実」であり、その「まぎれもない事実」を「正しい」と私は定義している。
岩佐は、こういう「まぎれもない事実」を積み重ねて、「肉体」の内部を耕す。そうして耕された肉体の深部のふわふわ感が岩佐の肉体(思想)そのものである。
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