詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中慎弥『共喰い』

2012-02-12 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
田中慎弥『共喰い』(集英社、2012年01月30日発行)

 田中慎弥『共喰い』を読みながら中上健次を思い出した。暴力とセックスが書かれている--という単純な理由によるのだけれど。で、それではどこがほんとうに似ているのか、と考えはじめると、全然似ていないことに気がつく。中上健次の文体は短いくせに粘着力がある。田中慎弥の文体には、粘着力というより、淀みがある。そして、その淀みがおもしろいと思った。田中は「淀み」とはいわずに「滞り」と書いているが、その「滞り」が田中の肉体(思想)だと感じた。
 カタツムリの描写がある。46ページから47ページにかけてである。

 乾いた空気に晒された濡れ縁を大きな蝸牛(かたつむり)が這っている。なぜ日差の下にそんなものがいるのか分からない。円い殻の移動を、遠馬は見つめる。夢でも見間違いでもない。この川辺に流れ、時々滞りもするする時間というものを見つめていることになるのかもしれないと思ったが、どう見方を変えても、それはやはり右向きに巻いている殻と、柔らかいのに噛めば歯応えがありそうな肉でしかない。触覚の輝いている先端がはっきり見えるのは大きいからでもあるが、間近で見ているからでもある。(略)自分が仁子さんのように川辺に残るのか、琴子さんを真似て出てゆくのか、琴子さんがいなくなったことを父が知ったらどうなるのか、千種とはいつになったら元通りに会い、セックスできるようになるのかを、そういうことといっさい関係ない蝸牛の鈍い足取りを見つめながら考える。

 「滞り」とは何か。引用部分の最後のことばがとても印象的である。
 「そういうことといっさい関係ない」--無関係なものが、「いま/ここ」に存在し、そこで立ち止まる。中上のことばにはこういうことはなかったと思う。(しばらく読んでいないので、記憶で書くのだけれど。)
 「物語」(時間)を動かすのではなく、動いていくことを邪魔する。その瞬間、その動かない部分が濃密になる。これがおもしろいと思った。中上の場合は、動く時間が濃密になる。動きのなかから「濃密」が射精のように噴出してくる。
 そして、それは関係がないのだけれど、その関係がないものの存在を通らないと「考え」は存在しない。そのことを田中は書いている。

 この小説は、セックスしながら女を殴る父と、その父の血をひく主人公の関係を中心に物語が進む。父と子は、父子の関係があるといえばいえるけれど、ひとりの男と男であり、独立した存在である。無関係である。たとえば父が女を殴ろうが主人公の責任ではない。息子が女を殴ろうが父の責任でもない。それが現在の社会の「法律」の制度である。
 そういう「無関係」を、あえて「関係」として通過することで時間を滞らせ、「いま/ここ」を濃密にする。
 --なんだか、こんなふうに書くと「むりやり」ことばを動かしている。ほんとうは逆に書いた方が田中の世界に接近できるのではないか、という気がしてくるのだけれど、それでも私は、いま書いているように、逆説的に、わざと変なふうに書きたいのである。
 たぶん、そう思うのは、この小説があまりにも「古い」というか、「小説的」すぎるので、変な気持ちになるのだ。時代が逆流している感じがする。中上健次を思い出したのも、時代の逆流という印象があるからだ。
 その「逆流」から、ふつうの流れ(?)に戻るためには、何か、逆説的なことばを通らないと、考えが動かない。ことばが動かない感じがするのだ。

 「無関係」を「関係」にさせる。関係ないものを通りながら、自分を考える。
 それは、なんといえばいいのだろう。たとえば、現代は「親子(家族)関係が稀薄」といわれる。「稀薄」は「無関係」は違うけれど、まあ、「無関係」と考えよう。その「無関係」な親子(家族)を、どれくらい希薄か(無関係か)を描くのではなく、逆に切って捨ててしまった方が楽になるものをあえて関係させる。そうすると、そこに時間が停滞し、停滞したもののなかから、何かが立ち上がってくるのだ。
 それは、たとえば次のような具合だ。

「おんなじ目、しちょる言うそよ。もうちょいと、」と自分の顔を指差して、「こっちに似せて産んじょきゃあよかったけど、もう手遅れじゃわ。」(35ページ)

 母親が主人公に対して、「父親と同じ目をしている」と指摘する。父親と同じ人間であってほしくないと思うなら、そういうことは言わない方がいいだろう。同じであるということで、さらに同じになるのだ。似ていても、似ていない。無関係である--といいつづければ、そこから「断絶」がはじまる。関係が「希薄化」する。
 この小説の登場人物は、そういう考え方をしない。逆に、「無関係」を「関係」にするためにことばを動かす。ここから、すべてがはじまる。「滞り(停滞)」が、重力のように、あらゆるものを惹きつけ、ブラックボックスとなり、そこからビッグバンが起きる、という具合だ。

 28ページの、釣り上げたウナギの描写も、それに通じる。

細かく何度も合わせたからか、釘の両端が肉を突き破り、片方は顔を引き裂いている。はりすをくわえている深緑色の細長い受け口が光っている。絡みついた道糸を振りほどこうとして鈍くのたうつ。遠馬は自分が興奮し、下腹部に熱が集中してゆくのを感じる。初めて釘針にかけて釣り上げたためもあったが、裂けて、半ば崩れかけた鰻の頭を目にしたからだと意識する。

 「無関係」なのに、それを「関係」づけて「意識する」。「関係づける意識」がすべてを動かしている。裂けた鰻の頭に、殴られて傷ついた女の顔を関係づける。鰻と女は別個の存在なのに、関係づける。そうすると、その瞬間、鰻を処理する運動が「滞り(停滞し)」、女との時間が噴出してくる。そうして勃起する。
 ここには、なにかしら、不思議な「混同」がある。
 「関係」は「混同」をもたらし、人間の行動を不思議な形で支配する。「時間」をねじまげてしまう。
 この「混同」は、16ページに、この小説の「テーマ」のようにして、書かれている。

川と違ってどこにでも流れていて、もしいやなら遠回りしたり追い越したり、場合によっては止めたり殺したりも出来そうな、時間というものを、なんの工夫もなく一方的に受け止め、その時間と一緒に一歩ずつ進んできた結果、川辺はいつの間にか後退し、住人は、時間の流れと川の流れを完全に混同してしまっているのだった。

 ここで「時間」と呼ばれているものを、「親子(家族)関係」と読み替えてみると、テーマがはっきりする。

 もしいやなら遠回りしたり、つまり家族から遠く離れて、ひとりで暮らしたり、場合によっては人間はそれぞれ独立した存在だから血縁などは人格とは無関係であるということもできる血縁関係(家族関係)を、なんの工夫もなく一方的に受け止め、家族と一緒に暮らしてきたために、主人公は(あるいはその周辺の登場人物は)、父親の人格と主人公の人格を完全に混同してしまっているのだ。(混同するようになってしまったのだ。)

 うーん。わかりやすすぎる。「小説」らしすぎる。

共喰い
田中 慎弥
集英社
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誰か教えてください(3)(公開メール)

2012-02-12 11:52:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 「これが最後の私信だ。」と前回の武田肇のメールには書いてあった。しかし、最後ではなかった。ほんとうに面倒くさい人である。
 以下が武田からのメール。(1行あきなどは一部省略)

谷内修三へ最後の私信

ワカラン男だねェ。
「批評を書いたから御一読を」。ここまではいいのだよ。そもそも君にしてみりゃ頼みもしないホンを一方的に送られた立場だ。
自著を送る者への返礼として当然の文ともいえる。そのくらいのこと、若い時分の武田だって書いたかもしれない。
で、ブログを開けば・・・
「感想を書くのが面倒くさい」の一言で、君の「御一読を」が押し付けに一変するのだ。もっといえば、押しつけは作者へのストーカー行為にも等しいのだよ。
そればかりか、君の「面倒くさい」が、じつは、いいかね、じつはこれこそ君が君のブログ読者に向けて一番公言したいこと、要するに君の余裕を示すこれ以上の誇らしい言辞は無い、という君の文弱、貧しさなんだ。されば・・・
さらに言えば、凡百の寄贈本は君の野心を満たすための素材ってことにもなる。
ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。送られても無視すりゃいい。それが出来ないのも君の野心だ。
今回、質問が一つに絞られて、ラクだったがね。あとは雑誌を見てくれ。君にはワルイが、森川と言うオトコと谷内を一からげに、ちょっとした好読物に仕上ったと自負している。
2500人読者が待っていてくれる(城戸朱理が3000部と書いているが、現在は2500プラス予備)。ダシに使ってごめん。君にも深謝。ちなみに此処で一言。君が読んで決してイイ気分の記事じゃない。・・・
しかし、「船/岡山」。あれを指摘、もしくは注意されて意趣返しはないね。お陰で有名な話題になったよ。しかも、誤読をこれからも続ける? これはもっと笑っちゃう。いいか。
読み間違えなんざ、ちっとも恥じゃないんだよ。しかし、あの読み方をされては、作者の一分が立たねぇんだ。「ははーん、こんな解釈もあったんか。これもオモシロイな」の次元じゃねえんだ。立場を変えても、まだ分らんか?
そこで尻をまくるのが田舎モンの田舎芝居というんだ。だから・・・質問だの何だのと、言葉尻を何とか探してまでの延命保身は、もうやめれ。
以後、panchan は開かずに失敬する。二度も開いたんだ、感謝しろ。3月末には詩壇周知の記事だよ。それまでの辛抱。
武田

 理解できない点がいくつもある。全部書いていたらきりがないので少しだけ書いておく。私は武田の「船岡山」の句を読み間違えた。山の名前と気づかず、「船/岡山」と読んだ。そして間違えたまま感想を書いた。その後、武田から「間違えています」という指摘が電話であった。そのとき、私はその指摘に対して「ありがとう」と答えた。
 それが、どうしたの?
 そんなこと、「詩壇周知」になるからといって、何が問題なの? 「詩壇」って、武田の句を正しく読むかどうか、誰が誤読したかどうか、ということに、そんなに関心があるの? へえーっ、知らなかったなあ。武田の句を中心に動いている世界なのか。前回のメールにあった「詩人団体云々」も何のことかわからなかったけれど、「詩壇」「詩人団体」って、武田の句をどう評価するか、どう解釈するかをテーマに成立している世界なんですかねえ。知らなかったなあ。
 知らないついでに書くけれど。
 詩壇の「構成人員」って何人? 教えてもらえませんか? 「ガニメデ」を読んでいる2500人、3000人のこと? 武田が引き合いに出している城戸朱理はいつか「ブログの読者が1万人になったから、やめられなくなった」と書いていたから、その城戸の読者に比べると四分の1から三分の一が詩壇になるのか。城戸は詩壇をはるかに超える読者をもっているということですね。そうか、そして、そういう人が武田のことを正確に理解しているということなのかな?
 ふーん。
 よくわからなけれど、その2500人から3000人が、武田の「船岡山」の句を正しく解釈し、谷内は間違えて読んだという事実を「周知」するんですね。よかったですね。「船岡山」の句をきちんと理解してくれる人が多くて。
 私のブログは、コメントやトラックバックからわかるように、読者がほとんといません。1日に多くて数人かな? そのブログを2500人から3000人に紹介してもらえるなら、まあ、ありがたいことですねえ。読者の数と、私の「野心」は、あまり関係がないのだけれど、それでも私の考えていることについて、もし誰かが何かを考えてくれるというのなら、それはとてもうれしいなあ。
 もし武田の書く文章で、そういうことを思ってくれる人がいれば、ということだけれど。まあ、武田は私の批判を書くようなので、私のブログの読者は減りこそすれ、増えはしないということなのかもしれないけれど。

 「野心」といえば。
 武田はどう理解しているか知らないけれど、私の「野心」はひとつ。「ことばは肉体である」ということを「証明(?)」すること。ことばを肉体との「一元論」でとらえなおすこと。--これは、どうやったらいいのか、よくわからない。私のなかで「予感」のようにして、何かが動くけれど、うまくことばにならない。
 2500人か3000人のなかから、誰かヒントをくれないかなあ。そういう機会になればなあ、と願っています。
 --ということを含めて、「ガニメデ」に書いてもらえるととてもうれしいけれど、きっとそういうことは書かないでしょうねえ。

 それにしてもねえ。
 私は武田さんのストーカーですか? 句集の感想を書くことがストーカー? メールの返信を書くことがストーカー? 私は武田さんから句集をいただいたので感想を書きました。その内容は武田さんの気に食わなかった。だからストーカー? また、私は武田さんからメールが来たので返信を書きました。その内容が気に食わないから、ストーカー?
 なんだか変だなあ。私から武田さんに働きかけたのではなく、武田さんから働きかけがあったから、それにこたえただけ。そして、それが武田さんの気に食わない。だからストーカーというのか。
 さらに「ぼくは今後も君に本を送るだろう、と思う。」だって。
 ね、面倒くさいでしょ? (これは、この「日記」を読んでいる読者への問いかけ。)

 でも、わからないのだけれど。
 1月26日に、私は「面倒くさい」ということばを含む感想を書いたけれど、そのことは武田さんにはお知らせしていません。年賀状で「感想を書きました」と書いたのは昨年の感想のことです。私はいま体調が悪くて、どんなはがきも手紙も書いていません。「1月26日の日記を読んでください」と書いたはがき(年賀状?)があるなら、それを見せてもらえませんか? 武田さんと私では、事実関係(時系列)が合っていない。事実を確認して話さないと、さらに面倒くさくなるだけ。


薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎
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