詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」

2012-02-10 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」(「歴程」578 、2012年02月01日発行)

 池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」はつづけて読むと、一瞬区別がつかなくなる。池井の詩はひらがなで書かれており、行分け詩の形をしている。粕谷の詩はいわゆる散文詩である。形は明確に違うのだが、そして題材も違うのだが、うーん、似ているなあ。
 池井の作品を引用する。

かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
すりがらすまどしまっており
まどのなかではだれかしら
まだやすらかにまどろんでおり
それをだまってみつめている
けさもだまってみつめている
でんしゃはづぎのえきにつき
おおぜいひとがのりおりし
でんしゃはつぎへそのつぎへ
ながれつづけてゆくけれど
かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
むむりやまないまどのなか
みんなだまってみつめている
だれかのゆめのさめるまに
でんしゃはつぎのそのつぎへ
だれのゆめともしらぬまに

 柿の木がある。窓があり、そのなかには誰かがいる。それを柿の木は見ている。--というのは、もしかしたら、誰かの夢かもしれない。あるいは柿の木の夢かもしれない。電車が走り、時間がすぎるけれど、その誰かと柿の木の関係はかわらない。そして、そこに永遠がある。
 
 粕谷の詩はどうか。女と男と白狐が出てくる。後半部分。

     男は、一晩中、夢中で、芒ばかりの野原を這
いまわっていたという。いや、途中で、いきなり、男の
目の前に、女が現れて、頭に小石を乗せて、宙返りした
途端、一匹の白い狐になったともいう。
 狐は、頭に小石を乗せて、もう一度宙返りすると、ま
た、観音さまのように美しい女になったそうだ。
 何れにせよ、月並みに、一生を永い旅路と考えれば、
道中で何があってもおかしくない、その一生で、たとえ、
自分の女房が、芒ばかりの野原で初めて出会った、正体
はよく分からない女だったとしても、どうでもいい。
 遠い永遠の三日月に見守られて、優しく睦み合って、
生涯を終ることができれば、何一つ、文句はないのだ。

 粕谷の作品では男と女がいれかわることはないが、そのかわりに「睦み合う(セックス)」が書かれる。セックスは、互いの肉体とこころが入れ替わることだ。相互が行き交うことだ。そして、その相互の行き交いのなかに永遠が姿を現わす。

 永遠は、池井にとっても粕谷にとっても、どこかに存在するものではなく、存在がたがいに交流し、入れ替わるときに、その運動のなかにあらわれてくるものなのだ。


遠い川
粕谷 栄市
思潮社
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誰か教えてください。

2012-02-10 18:52:36 | 詩集
武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』(2)(銅林社、2011年12月16日発行)

 01月26日に武田肇『二つの封印の書 二重フーガのための』の感想を書いた。
 気に食わなかったらしい。02月10日に、怒りのメールが来た。
 とてもおもしろいので、公開します。私の考えを書いておきます。このブログの私の感想の姿勢を明確にするためにも。

谷内修三へ

 今度のブログは下劣の一言。

 賀状に再三「感想を書いたから読め」と押しつけておいて、読めば万葉や古今集の歌枕も知らぬトンチンカンの読み違え。それを慇懃に注意すれば腹イセに作者の事情等知ったことかと開き直る。あまつさえ、「面倒臭い」「読みたいように読む」?

あいにく武田は他の大人しい著者とはちょっと違う男でね。全体ナニサマかね。次号のガニメデで完膚なきまで君の無礼を非難する。そもそも自分の日記を「読め」のオメデタイ三枚目までなら見逃すが、今回のブログに舐められるほど武田は人がよくない。少年句の読みは、あれは何だ。口に出すのも憚られる品性下劣の「感想」に、切れた。きょうは、以上。

武田肇

 私は次のように返信を書いた。

怒りのメール、わざわざありがとうございます。

私は誰の作品も、同じように勝手に誤読します。
いただいた本の感想は、できる限り書きます。
でもそれは、武田さんに気に入ってもらうためではありません。
著者に気に入ってもらうために、思ってもいないことを書いたりするつもりはありません。
そんな面倒くさいことはしません。
武田さんが、この作品はこう読んでもらいたいという「主張」があるのなら、それを明記し、そう読んでくれる人だけに読んでもらえばいいのではないでしょうか。
武田さんの非難を楽しみにしています。
「ガニメデ」を読む機会があるかどうか、わかりませんが。

                              谷内

 ほかの人はどうか知らないが、私は、私の書いた感想を筆者がどう読むかを気にしたことがない。筆者に気に入られたくて感想を書いているわけではない。自分はこう思ったと書くしかない。そのとき、私はたくさんの間違いを犯す。私の知っている範囲で私のことばを動かすから、対象が私の知らないことの場合、どうしても間違える。それは私は仕方のないことだかと思っている。間違いを犯さないために何かを勉強してから感想を書けばいい、勉強が終わるまで感想を書くべきではない--という人もいるかもしれないけれど、そんなことはしていられないなあ。
 いただいた本を読むために、何かを勉強をしているわけではない。著者の「試験」を受けるために、本を読んでいるわけではない。私には私の関心ごとがあり、その範囲で自分のことばを点検している。
 私の「読み方」が間違っていたなら、それは私のことばが著者のことばの領域と重ならなかったためである。それは私がものごとを知らなすぎるからかもしれない。でも、どうしようもない。あ、間違えたんですね。ご指摘ありがとうございました、というしかない。
 こういう態度を「開き直り」というらしいが、まあ、そうだねえ。私はいつでも開き直っている。知らないことは知らない。知っているとは言わない。

 それはそうとして。

 私の武田の「少年」の句に対する感想は「口に出すのも憚られる品性下劣」というのは、よくわからなかった。以前「船岡山」の句を読み違えたときは、具体的な指摘があったが、今回はどういう指摘なのか、私にはわからない。
 問題の句は、

少年が春の厠に香を残し

 それについて、私は次のように書いた。

 この句も、「意味」が強すぎる。射精の、精液のにおい。それと「少年」「春」「厠」が近すぎて、オナニーの「意味」が噴出してくる。鼻で感じる前に、そして肌で感じる前に「頭」が動いてしまう。--これは私だけのことかもしれないが。

 武田がどういう「意味」(感情)をこめて句を書いたのか、わかりかねる。私は少年が厠(トイレ)でオナニーをした。そのときの射精のにおい(精液のにおい)がトイレに残っていると思って読んだ。
 で、どこが「口に出すのも憚られる品性下劣」なの?
 私はトイレでオナニーをしたことがある。オナニーを覚えたばかりのころというのは、どこででもオナニーをしてしまう。そういう少年は武田に言わせると「品行下劣」なのかなあ。私には、ありふれた行いにしか思えない。
 私は田舎育ちなので、そのころのトイレはくみ取り式。糞のにおいがそのまましてくる。でも、精液のにおいは糞のにおいよりも強く鼻を刺激してくる。そのにおいを思い出すことは、品行下劣?
 少年のころは、挿入とか膣とか月経とか、あるいは勃起ということばを辞書で見つけてオナニーをしたことがあるが、それって品行下劣? あることばからセックスに関して連想すれば品行下劣?
 だいたい文学において品行って何? 下劣って何?
 何を書いてもいいのが文学だと思う。それをどんなふうに読んでもいいのが文学だと私は思っている。セックスについて書いてなくてもセックスについて書いてあると思っても構わないし、セックスについて書いてあるのに精神世界を書いてあると思っても構わないと思う。
 いろいろなセックス、オナニーに関することばを読み、これは好き、これは嫌い、これは興奮したと書いて何か問題があるのだろうか。
 ちなみに、私はオナニーに関して言えば勝新太郎が言ったことばが大好きである。「俳優はナルシストでなくてはいけない。おれは鏡に映った自分を見てオナニーができる」。すごいねえ。これ。かっこいいと思う。このことばを知ったのは勝新太郎が死んでからなので、あ、こんなかっこいいことばを吐く役者なら、もっと映画を見ておけばよかったと思った。

 脱線してしまった。
 さて、

少年が春の厠に香を残し

 は、どう読むべき句なのだろうか。どんな高尚な思想がここに書かれているのだろうか。私はさっぱりわからない。
 誰か教えてください。



ゑとらるか―武田肇詩集
武田 肇
沖積舎
コメント (4)
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