池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」(「歴程」578 、2012年02月01日発行)
池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」はつづけて読むと、一瞬区別がつかなくなる。池井の詩はひらがなで書かれており、行分け詩の形をしている。粕谷の詩はいわゆる散文詩である。形は明確に違うのだが、そして題材も違うのだが、うーん、似ているなあ。
池井の作品を引用する。
柿の木がある。窓があり、そのなかには誰かがいる。それを柿の木は見ている。--というのは、もしかしたら、誰かの夢かもしれない。あるいは柿の木の夢かもしれない。電車が走り、時間がすぎるけれど、その誰かと柿の木の関係はかわらない。そして、そこに永遠がある。
粕谷の詩はどうか。女と男と白狐が出てくる。後半部分。
粕谷の作品では男と女がいれかわることはないが、そのかわりに「睦み合う(セックス)」が書かれる。セックスは、互いの肉体とこころが入れ替わることだ。相互が行き交うことだ。そして、その相互の行き交いのなかに永遠が姿を現わす。
永遠は、池井にとっても粕谷にとっても、どこかに存在するものではなく、存在がたがいに交流し、入れ替わるときに、その運動のなかにあらわれてくるものなのだ。
池井昌樹「柿」、粕谷栄市「白狐」はつづけて読むと、一瞬区別がつかなくなる。池井の詩はひらがなで書かれており、行分け詩の形をしている。粕谷の詩はいわゆる散文詩である。形は明確に違うのだが、そして題材も違うのだが、うーん、似ているなあ。
池井の作品を引用する。
かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
すりがらすまどしまっており
まどのなかではだれかしら
まだやすらかにまどろんでおり
それをだまってみつめている
けさもだまってみつめている
でんしゃはづぎのえきにつき
おおぜいひとがのりおりし
でんしゃはつぎへそのつぎへ
ながれつづけてゆくけれど
かきのきのはがかぜにゆれ
かきのきのみにひがあたり
むむりやまないまどのなか
みんなだまってみつめている
だれかのゆめのさめるまに
でんしゃはつぎのそのつぎへ
だれのゆめともしらぬまに
柿の木がある。窓があり、そのなかには誰かがいる。それを柿の木は見ている。--というのは、もしかしたら、誰かの夢かもしれない。あるいは柿の木の夢かもしれない。電車が走り、時間がすぎるけれど、その誰かと柿の木の関係はかわらない。そして、そこに永遠がある。
粕谷の詩はどうか。女と男と白狐が出てくる。後半部分。
男は、一晩中、夢中で、芒ばかりの野原を這
いまわっていたという。いや、途中で、いきなり、男の
目の前に、女が現れて、頭に小石を乗せて、宙返りした
途端、一匹の白い狐になったともいう。
狐は、頭に小石を乗せて、もう一度宙返りすると、ま
た、観音さまのように美しい女になったそうだ。
何れにせよ、月並みに、一生を永い旅路と考えれば、
道中で何があってもおかしくない、その一生で、たとえ、
自分の女房が、芒ばかりの野原で初めて出会った、正体
はよく分からない女だったとしても、どうでもいい。
遠い永遠の三日月に見守られて、優しく睦み合って、
生涯を終ることができれば、何一つ、文句はないのだ。
粕谷の作品では男と女がいれかわることはないが、そのかわりに「睦み合う(セックス)」が書かれる。セックスは、互いの肉体とこころが入れ替わることだ。相互が行き交うことだ。そして、その相互の行き交いのなかに永遠が姿を現わす。
永遠は、池井にとっても粕谷にとっても、どこかに存在するものではなく、存在がたがいに交流し、入れ替わるときに、その運動のなかにあらわれてくるものなのだ。
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