中山従子『死体と共に』(澪標、2012年02月02日発行)
中山従子『死体と共に』はタイトルがよくない。詩集のなかに「死体」がたくさん出てくる。私はまだ途中までしか読んでいないのだが、その死体は「私の死体」である。いつも「私」は「私の死体」といっしょにいる。タイトルのとおりなのだ。詩はそのままでもいいのだが、タイトルで『死体と共に』と書かれてしまうと、気持ちがそがれてしまう。理由は簡単である。「裏切り」がないからである。どんなときでも、読者は書き手に裏切られたい。あ、そうなのか。知らなかった、と思いたい。その「知らなかった」という印象がタイトルにあると、最初から薄れてしまうのである。
それはそれとてし、詩はなかなかおもしろい。「大通り」という作品。
「死体」の登場によって、「いま/ここ」の世界がふつう私たちが見ている世界と違ってくる。そして、その「違い」には一定の「決まり」がある。この作品では、世界のすべてが「白い布」にかわるという点が、その「違い」である。この変化に狂いはない。
こういう描写の「一定性」を、私は「定規」が一定していると呼んでいる。対象と私との距離のとり方が一定している。そのため、ことばが安定している。中山のことばを借りて言えば「同じリズム」でことばが動いているということになる。これは気持ちがいい。読んでいて安心する。
このすべてが白い布に変わる--という描写のリズムが最後までつづけば最高なのだけれど、これはなかなか難しく、どうしてもずれてしまう。
すべてが白い布になるので「自分の行き先を見失う」まではいいのだが、「ついでに聞きたいんだけど 私の行き先は何処なのかなあ」が奇妙である。ここでは「見たもの」が「白い布に変わる」という変化が「私(中山)」によって捨てられてしまっている。「見る」こと、「視線」が捨てられている。そして、そのかわりに「質問する」。行為のありようが動いてしまう。
だいたい「死体」に聞かれて、それに答える形ではじまったことばが、ここでは突然、「私」が「死体」に質問する。これは、一種のルール違反だね。
そのことによって、「するとその瞬間 死体は横にいなくて私が手にさげていたバケツの中で正座していた」と世界の描写(街の描写)が消えて、「死体」の描写になるのだから、それはそれでことばの論理(物語の構造)としては「正確」なのだろうけれど、ここがつまらない。
そういう「正確」(この作品に限ってのことではなく、「物語」という構造そのものがもっている「正確さ」)に戻ってしまうのでは「死体」の意味が半減する。「死体」が登場し、それが「生きている」というのは、すでに「物語」を逸脱した「特別の物語」なのだから。その「特別なものが刈り」の「特別な定規」が突然しまいこまれて、いままで「特別な定規」で正確にとってきた距離(正確に測ってきた距離)は、実は「架空」とはいう距離、「寓話」という距離でした--と説明することになるからだ。
こういう説明はいらない。「寓話」あるいは「小説」ではないのだから。
「寓話」「小説」でも、たとえばカフカの作品では、こういう説明はないね。
ことばの真実は説明を拒絶したところで動くものなのだ。説明を排除したとき、ことばはことば自身の肉体で動きはじめる。そして、そこから詩が生まれる。
詩集のタイトルに「死体と共に」とあると、最初から、これは「寓話です」といってしまっているようなものなのだ。「死体」という存在によって「距離」が変わってくる(定規が変わってしまった)人間の見た「世界」をこれから書きます--と前置きつきで語られているような気持ちになる。
「死体」の登場によって変化する風景が、もっと強烈なら、それはそれでかまわないかもしれない。けれど、見ているものが白い布で覆われる、白い布の世界に変わってしまうというような、何か静かな変化では、「死体」を強調するのは、なんといえばいいのだろうか、手品の種明かしを聞いて上で手品を魅せられるような感じで、積極的に中山の世界へと入っていけない。入っていっても、常に引き返す準備をしながら歩くことになってしまう。
中山従子『死体と共に』はタイトルがよくない。詩集のなかに「死体」がたくさん出てくる。私はまだ途中までしか読んでいないのだが、その死体は「私の死体」である。いつも「私」は「私の死体」といっしょにいる。タイトルのとおりなのだ。詩はそのままでもいいのだが、タイトルで『死体と共に』と書かれてしまうと、気持ちがそがれてしまう。理由は簡単である。「裏切り」がないからである。どんなときでも、読者は書き手に裏切られたい。あ、そうなのか。知らなかった、と思いたい。その「知らなかった」という印象がタイトルにあると、最初から薄れてしまうのである。
それはそれとてし、詩はなかなかおもしろい。「大通り」という作品。
街の大通りを歩いていると バケツの中にいるはずの死体がすぐ横を歩いている 「君はいつもひらひら揺れていて いったい君が何を見ているのか知りたいよ」と彼は言う 私は彼に秘密を打ち明けることにした 「実は私は何を見てもみんな同じに見えるんだ あのオレンジの看板の架かっているビルも十秒も見ていると 白い一枚の布に変わってしまうんだ あの灰色の高速道路も 走り抜ける青い電車も みんな白い布に見えてくるんだ」 彼は黙ったままうなずいている 「こうして歩いていると街じゅうが白い布で溢れていて 風に吹かれて同じリズムで揺れているんだ」「この風景は美しくて気に入っているんだけれど 毎日 自分の行き先を見失ってしまうよ ついでに聞きたいんだけど 私の行き先は何処なのかなあ」彼に質問した するとその瞬間 死体は横にいなくて私が手にさげていたバケツの中で正座していた
「死体」の登場によって、「いま/ここ」の世界がふつう私たちが見ている世界と違ってくる。そして、その「違い」には一定の「決まり」がある。この作品では、世界のすべてが「白い布」にかわるという点が、その「違い」である。この変化に狂いはない。
こういう描写の「一定性」を、私は「定規」が一定していると呼んでいる。対象と私との距離のとり方が一定している。そのため、ことばが安定している。中山のことばを借りて言えば「同じリズム」でことばが動いているということになる。これは気持ちがいい。読んでいて安心する。
このすべてが白い布に変わる--という描写のリズムが最後までつづけば最高なのだけれど、これはなかなか難しく、どうしてもずれてしまう。
すべてが白い布になるので「自分の行き先を見失う」まではいいのだが、「ついでに聞きたいんだけど 私の行き先は何処なのかなあ」が奇妙である。ここでは「見たもの」が「白い布に変わる」という変化が「私(中山)」によって捨てられてしまっている。「見る」こと、「視線」が捨てられている。そして、そのかわりに「質問する」。行為のありようが動いてしまう。
だいたい「死体」に聞かれて、それに答える形ではじまったことばが、ここでは突然、「私」が「死体」に質問する。これは、一種のルール違反だね。
そのことによって、「するとその瞬間 死体は横にいなくて私が手にさげていたバケツの中で正座していた」と世界の描写(街の描写)が消えて、「死体」の描写になるのだから、それはそれでことばの論理(物語の構造)としては「正確」なのだろうけれど、ここがつまらない。
そういう「正確」(この作品に限ってのことではなく、「物語」という構造そのものがもっている「正確さ」)に戻ってしまうのでは「死体」の意味が半減する。「死体」が登場し、それが「生きている」というのは、すでに「物語」を逸脱した「特別の物語」なのだから。その「特別なものが刈り」の「特別な定規」が突然しまいこまれて、いままで「特別な定規」で正確にとってきた距離(正確に測ってきた距離)は、実は「架空」とはいう距離、「寓話」という距離でした--と説明することになるからだ。
こういう説明はいらない。「寓話」あるいは「小説」ではないのだから。
「寓話」「小説」でも、たとえばカフカの作品では、こういう説明はないね。
ことばの真実は説明を拒絶したところで動くものなのだ。説明を排除したとき、ことばはことば自身の肉体で動きはじめる。そして、そこから詩が生まれる。
詩集のタイトルに「死体と共に」とあると、最初から、これは「寓話です」といってしまっているようなものなのだ。「死体」という存在によって「距離」が変わってくる(定規が変わってしまった)人間の見た「世界」をこれから書きます--と前置きつきで語られているような気持ちになる。
「死体」の登場によって変化する風景が、もっと強烈なら、それはそれでかまわないかもしれない。けれど、見ているものが白い布で覆われる、白い布の世界に変わってしまうというような、何か静かな変化では、「死体」を強調するのは、なんといえばいいのだろうか、手品の種明かしを聞いて上で手品を魅せられるような感じで、積極的に中山の世界へと入っていけない。入っていっても、常に引き返す準備をしながら歩くことになってしまう。