詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『島嶼論』

2012-02-19 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 時里二郎『島嶼論』は「散文詩」を読みながら、私は、すぐに「ほーっ」と声が漏れてしまった。
 「をりくち」という巻頭の作品。

そのをりふし
こかいんを鼻腔にしのばせ
かそけき花虻のえんじんを組み込んで
あなたの影法師はぬかるみの地誌にまみれた

驟雨の束を刈り
霧雨をおとがひにあつめ
あをさぎの眼差す吃水線に
しゅんしゅんと綺語が沸き立つ

道にたふふる人も馬も
古石(ふるいし)のふみのひそけさ

 最初は時里のことばが、ことばの何を力に動いているのかわからなかった。「えんじん」が何かわからなかった。3連目まで読んで、「あっ」と驚き「ほーっ」と声が漏れたのである。

古石(ふるいし)のふみのひそけさ

 これは、「意味論」的には、道にある石、人にも馬にも踏まれつづけた石に、石の歴史を読みとる--つまり、そこを歩いた人を、そして馬を--その歴史を読みとるということだろう。石が語る「物語」。それは、とても「ひそか」なものである。つまり、はっきりとは聞こえないものである。
 --と読んでいくと、これまで私がなじんできた時里の「散文詩」と類似のものになる。ほんとうはそこには存在しないもの、あるいは存在するとしてもとても微細なもの、それをことばの力で揺り動かし、イメージとして拡大し、ひとつの世界を構築する、という詩につながる。
 この詩集の作品群でも、そういうものを目指しているのかもしれない。目指しているのかもしれないけれど、「散文詩」のことばとは違ったところがある。いや、違っていないのかもしれないが、行わけにすることで鮮明になったことばの動きがある。
 音楽である。

ふるいしのふみのひそけさ

 この1行のなかにある「は行」の動き。それから「い」という母音の動き。「音」が繊細に響きあっている。
 そう思って読むと、

みちにたふるるひともうまも

 この行にも「は行」がある。「倒れる」ではなく「たふるる」ということばを動かすことで「ひと」がしっかり結びつく。
 そして、それよりも何よりも。
 「たふるる」と「うま」。その「ふ」と「う」の響きあい。
 「たふるる」は声に出すときどう出すべきなのか、私は、実は知らない。た「ふ」るる、と声に出すとき(といっても、私は朗読はしない。あくまで黙読で、頭の中で声を出すのだが、そのとき喉は動き、舌は動き、唇も動く。ただし、これはすべて「脳」のなかの信号だが……)、「ふ」は実は音にならない。暗い、何といっていいかわからない濁った響きのままどこかへ消えていく。
 「うま」の「う」。これは、頭(脳)のなかに響く音としては「ん」に近い。「音」がない。「音」がないところ、その沈黙を破って、声そのものが噴出してくるときの、不思議な暗さがある。閉ざされた何かがある。
 「ふ」と「う」は、その音がない暗さでしっかり結びついている。
 あ、これが「ふみ」の「ひそけさ」というものかと思うのだ。「たふるる」と「うま」の「ふ」と「う」の間には「意味」以上の、声の(肉体の音楽の)交流(文のやりとり)があるのだ。
 こういうことはひとつひとつ説明する(?)のは難しいというか、めんどうくさいことである。黙読したときに肉体の内部で響く音というのは、もうそれだけで矛盾しているし、その聞こえない音(発せられなかった音)をあれこれとあつめて、この音とこの音と書いても、結局ひとりよがりの領域を出ないと思うと、無意味な気もする。
 だが、私が時里のことばから感じたのは、ことばの、そういう響き(音)の交流、和音、音楽なのである。
 「ぬかるみの地誌にまみれた」の「み」、あるいは「地誌」を含めた「い」の。さらには「な行」と「ま行」の親密性。そのなかにあって「か」という音の異質な輝き。しかし、その「か」の輝きは、先行する「かげぼうし」の「か」と共鳴している。
 「驟雨の束を刈り」は、この1行そのもののなかには音の響きあいがないようにみえるけれど、「刈り」の「か」が「影法師」「ぬかるみ」の「か」と響きあうし、「束」の「ば」と「影法師」の「ぼ」、「ば行」と呼びかけあう。
 「霧雨をおとがひにあつめ」には、きり「さ」め、おとが「ひ」が、た「ふ」るる、「う」まの関係に似ている。「霧雨」は「驟雨」と「雨」という漢字(表意文字)で眼に印象に残るが、きりさめと読むときにすばやく入り込む「あ」が、「あ」つめと響く。

 そんなことまで時里は考えていない、意識していない、かもしれない。
 けれど、時里がどう意識しているかは、あまり私にとっては関係がない。私は、そういう音を無意識に選びとる時里の肉体(耳と喉)から、時里のことばに勝手に親近感を感じるのである。そして、あ、これはいいなあ、と思うのである。好きになるのである。

 そして、これはいいなあ、と思いながらも。

 「あをさぎの眼差す吃水線に」は、この詩の中ではかなり異質で「音」とは違うものと呼びあっている、と感じ、そこでつまずく。
 「驟雨」「霧雨」の影響があるのかもしれない。「眼差す」を私は「まなざす」と読んだが、それで正しいかどうかわからない。「まなざす」という「動詞」があるのかどうか、それもよくわからない。私自身は、「まなざし」という名詞はつかっても「まなざす」という動詞はつかわない。
 また「吃水線」は「喫水線」のことだと思うけれど、そう理解していいのかどうかわからない。
 ここには何かしら時里の「散文詩」のことばの名残があるように感じる。視力と、視力が識別する「差異」。「眼差す」ということばのなかにある「差」を含んだことば「差異」。
 時里は、散文詩ではある存在ともう一つの存在を接近させ、接近させることではっきりする「差異」を手がかりに、「差」そのもののなかへ入っていく。
 そのときの運動が、この「あをさぎ」という1行に残っていると、感じる。

 でも、この作品の基本は、やはり「音」だと思う。音のなかの遠い脈絡をたどる耳と、そのかすかな音を反復する(唱和する)肉体を感じる。

雨に濡れ
さるなし
やまぶだうの葉
ゆきなずむ
ここを撫でて
擦り切れた羽のやうに
うたを接いでいく揚力をうしなつて
海のあなた
山のさへ

みのも
かさも
つけず

口を折り
開いた分包から微粒のけぶりたつ薬香にむせかへる
旅寝の
夢の
ほどろ
ほどろに
さあをい穂状の腸(わた)がふるへ

さながら風景の木霊のやうに
島山(しまやま)のさみどりが
斉唱してゐる

 「海のあなた/山のさへ」は、「海の彼方(向こう)/山の方へ」という意味なのだろうけれど、その「山のさ」の「さ」の音がきれいだなあ。
 「さあをい」「さながら」「さみどり」と繰り返されるが、違う音といっしょにあるのに、それこそ、あ、「斉唱」だと感じる。

 時里は「音楽」の詩人でもあったのだ--と強く感じた。









ジパング
時里 二郎
思潮社
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豊原清明「寒き男の炎」ほか

2012-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「寒き男の炎」ほか(「白黒目」33、2012年01月発行)

 豊原清明のことばを読んでいると、ときどき「肉体」だけになるときがある。--という言い方は、きっと、だれにもわからないかもしれない。
 豊原の「肉体」のなかにのみこまれてしまって、私の「肉体」がなくなる。かといって、そのときそこに豊原の「肉体」があるのかといえばそうではなくて、ただ「肉体」というものだけがある。固有名詞のない「肉体」。永遠の「肉体」というべきなのか。
 「寒き男の炎」の1連目。

父と朝
並木道を歩いていた
ふと気がついて
眼を、宙に映すと
木が刈られてあった
枝折
ああ
今は初春
そんな季節に
なっていたのだな
ふと目は宙に映る
赤く鮮明な、血
どばっ!

 「眼を、宙に映すと」「目は宙に映る」。「宙」をかりに「空」とする。眼を空に移す-視線を空に移動させる-空を見る、という「時間」が省略されて、空を見上げた瞬間、そこに目が映る。鏡のように、空が眼を映している。その空は空ではなく、宇宙である。宇宙と、その宇宙の目--それが「いまま/ここ」にある「肉眼」と、何と言えばいいのだろう、時間も空間も超越して「一体」になる。
 見ているか。見つめられているのか。区別はない。そこには、見るということ、見つめられるというここと、--その「こと」としかいいようないものが「眼」として存在している。「眼」という「肉体」だけがある。

 谷川俊太郎の「宇宙感覚」は精神的なものだ。精神で感じるさびしい広がりだ。宇宙と対峙するとき、精神のなかに宇宙が音楽として響く。それが谷川の宇宙だと思う。
 けれど、豊原の宇宙感覚は「肉体」的なものである。精神的に広がらない--という書き方は、的確な言い方ではないかもしれないが、何か精神というようなものとは関係がない。肉体と他の存在が交流する--というのとも違う。
 たとえば、ここでは「眼」は「宇宙」であると同時に「肉体」である。人間の肉体である。谷川の宇宙が向き合うものであり、その対峙を意識することで精神のなかに宇宙が誕生するのに対して、豊原の宇宙は、対峙ということがない。対峙にはふたつの存在が必要だが、豊原の宇宙と肉体はふたつの存在ではない「ひとつ」の存在だからである。
 「肉体」が「もの」ではなく「こと」になって、その「こと」が「もの」として「一体」のまま、そこに存在する。--あ、この書き方では、何かが違うなあ。
 --私には、まだ、私の感じていることを正確にあらわせない。あらわすためのことばが見つからない。
 ただ直接的に感じるのだ。
 豊原の眼が宇宙である。その眼が宇宙から豊原をとおして「人間」を直視している。

 それは「融合」ではあるけれど、激しい衝突である。どうしたって、鮮血が飛び散らないわけにはいかない。しかも、大量に。「どばっ!」

 この眼の融合と衝突--「一体感」という矛盾は、豊原を激しく揺さぶる。

怒り狂った 我が心は
コクトーのあとがきのようだ

 「コクトーのあとがき」がどういうものか、私は知らない。けれど、ここは「コクトーのあとがき」でなければならないと、納得してしまう。
 この2行は、まるで、絵に描いたような(?)詩であるなあ、と思い、うっとりするが、あ、豊原の書いているのは詩なのだった、と思いなおし、不思議な気持ちになる。
 しかし、なんという美しさだろう。美しい音だろう。
 この美しさは、そして、--たぶん、「眼を、宙に映すと」「眼は宙に映る」という肉体の衝突の中でのみ輝く光だと思う。

 詩は、このあともつづいていく。

僕は呑むコップと
坐る 椅子を変えた
振り向くと
家族がいた
風呂に入って
くらくら 眩暈して
気が遠くなる
湯気から
抜け出る

やっ 満月

地面を ほじくりかえして
家族を映す
僕は穴深く 入ってゆく
火傷した 消防隊員の
叫び声のようで
僕は
この世を
棄てなければ
ならないのかもしれない
赤く鮮明な血
この血は僕らの友だち
愛 それは血

 わからないところもあるのだが、わからないところはわからないままにしておいて、私はどきりとしてしまう。
 「振り向くと/家族がいた/風呂に入って」の3行の、「家族がいた」から「風呂に入って」までの「密着感」が、書かれてしまうと(こうやって、ことばになってしまうと)、そうか、家族とはこういう「密着感」の「一体感」なのかと納得する。「風呂に入って」の「主語」は「僕」なのだが、そしてそのことしか書かれていないのだが、このあと(それよりさきにも)家族の誰かが風呂に入る。家族全員が風呂に入るという「暮らしの一体感」がそこにあり、それもまた、私には「肉体」の強い「思想」として見えてくる。
 だからこそ。

地面を ほじくりかえして
家族を映す

 この「映す」が、どう受け止めていいのかわからない。
 「眼を、宙に映す」「眼は宙に映る」は、たぶん、「映る」という動詞が「眼によって見られる」という具合に、肉眼を含んでいるから、直接的に「肉体」を説得させるのに対し(私の肉体は納得してしまうのに対し)、「地面(正確には地面に掘った穴--かもしれない)」に家族を「映す」が、不思議なのである。
 豊原の「眼」は地上に立っている「人間」の「顔(頭)」の部分にあるのではないのかもしれない。いや、「顔(頭)」の部分にあるのだろうけれど、豊原の肉体は地面から独立しているのではなく、そのまま地中にまで繋がっているのかもしれない。
 宇宙と肉体が繋がったとき、その肉体は地上から独立して存在するのではなく、中途も繋がっている。
 たぶん--また、たぶんと書いてしまうのだが。
 たぶん、この不思議な「地球感覚」あるいは「大地感覚」が、谷川とはまったく違うものなのだろうなあ。

 少し飛躍する。谷川の「父の死」に、父が死んだとき別れた女が弔問にやってきて、そのあといっしょにいる女とけんかをしたというような部分が出てくる。その「暮らし」が抱え込む接触・衝突のようなものを、豊原がどんな具合に書いているか--それを提示すれば、豊原の「地球感覚(大地感覚)」との違いがはっきりするかもしれない。
 短編映画シナリオ『手に宿る・体に宿る』の1シーン。

○ 小机の父母の写真
  ずっと撮っていて、カメラ、上を向く。
  父が雑煮餅を持ってくる。
父「元旦早々せくのいややからな、礼拝すぐ行こう。」
父「わし、撮っとるん?」

 父「わし、撮っとるん?」--この1行が、きっと谷川にはないものだ。谷川になくて、豊原にあるものだ。
 人間が存在するとき、そこに「過去」がある。その「過去」が「大地」のように「人間(家族)」を支えている。「肉体」は、その「大地」と繋がっている。繋がり、ひとつになることで「肉体」として存在する。
 その肉体が、宇宙と「一体」になる。--こういう「感覚(思想)」があって、「地面に(地底に)家族を映す」ということばが動くのだと思う。




夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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