時里二郎『島嶼論』(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)
時里二郎『島嶼論』は「散文詩」を読みながら、私は、すぐに「ほーっ」と声が漏れてしまった。
「をりくち」という巻頭の作品。
最初は時里のことばが、ことばの何を力に動いているのかわからなかった。「えんじん」が何かわからなかった。3連目まで読んで、「あっ」と驚き「ほーっ」と声が漏れたのである。
これは、「意味論」的には、道にある石、人にも馬にも踏まれつづけた石に、石の歴史を読みとる--つまり、そこを歩いた人を、そして馬を--その歴史を読みとるということだろう。石が語る「物語」。それは、とても「ひそか」なものである。つまり、はっきりとは聞こえないものである。
--と読んでいくと、これまで私がなじんできた時里の「散文詩」と類似のものになる。ほんとうはそこには存在しないもの、あるいは存在するとしてもとても微細なもの、それをことばの力で揺り動かし、イメージとして拡大し、ひとつの世界を構築する、という詩につながる。
この詩集の作品群でも、そういうものを目指しているのかもしれない。目指しているのかもしれないけれど、「散文詩」のことばとは違ったところがある。いや、違っていないのかもしれないが、行わけにすることで鮮明になったことばの動きがある。
音楽である。
この1行のなかにある「は行」の動き。それから「い」という母音の動き。「音」が繊細に響きあっている。
そう思って読むと、
この行にも「は行」がある。「倒れる」ではなく「たふるる」ということばを動かすことで「ひと」がしっかり結びつく。
そして、それよりも何よりも。
「たふるる」と「うま」。その「ふ」と「う」の響きあい。
「たふるる」は声に出すときどう出すべきなのか、私は、実は知らない。た「ふ」るる、と声に出すとき(といっても、私は朗読はしない。あくまで黙読で、頭の中で声を出すのだが、そのとき喉は動き、舌は動き、唇も動く。ただし、これはすべて「脳」のなかの信号だが……)、「ふ」は実は音にならない。暗い、何といっていいかわからない濁った響きのままどこかへ消えていく。
「うま」の「う」。これは、頭(脳)のなかに響く音としては「ん」に近い。「音」がない。「音」がないところ、その沈黙を破って、声そのものが噴出してくるときの、不思議な暗さがある。閉ざされた何かがある。
「ふ」と「う」は、その音がない暗さでしっかり結びついている。
あ、これが「ふみ」の「ひそけさ」というものかと思うのだ。「たふるる」と「うま」の「ふ」と「う」の間には「意味」以上の、声の(肉体の音楽の)交流(文のやりとり)があるのだ。
こういうことはひとつひとつ説明する(?)のは難しいというか、めんどうくさいことである。黙読したときに肉体の内部で響く音というのは、もうそれだけで矛盾しているし、その聞こえない音(発せられなかった音)をあれこれとあつめて、この音とこの音と書いても、結局ひとりよがりの領域を出ないと思うと、無意味な気もする。
だが、私が時里のことばから感じたのは、ことばの、そういう響き(音)の交流、和音、音楽なのである。
「ぬかるみの地誌にまみれた」の「み」、あるいは「地誌」を含めた「い」の。さらには「な行」と「ま行」の親密性。そのなかにあって「か」という音の異質な輝き。しかし、その「か」の輝きは、先行する「かげぼうし」の「か」と共鳴している。
「驟雨の束を刈り」は、この1行そのもののなかには音の響きあいがないようにみえるけれど、「刈り」の「か」が「影法師」「ぬかるみ」の「か」と響きあうし、「束」の「ば」と「影法師」の「ぼ」、「ば行」と呼びかけあう。
「霧雨をおとがひにあつめ」には、きり「さ」め、おとが「ひ」が、た「ふ」るる、「う」まの関係に似ている。「霧雨」は「驟雨」と「雨」という漢字(表意文字)で眼に印象に残るが、きりさめと読むときにすばやく入り込む「あ」が、「あ」つめと響く。
そんなことまで時里は考えていない、意識していない、かもしれない。
けれど、時里がどう意識しているかは、あまり私にとっては関係がない。私は、そういう音を無意識に選びとる時里の肉体(耳と喉)から、時里のことばに勝手に親近感を感じるのである。そして、あ、これはいいなあ、と思うのである。好きになるのである。
そして、これはいいなあ、と思いながらも。
「あをさぎの眼差す吃水線に」は、この詩の中ではかなり異質で「音」とは違うものと呼びあっている、と感じ、そこでつまずく。
「驟雨」「霧雨」の影響があるのかもしれない。「眼差す」を私は「まなざす」と読んだが、それで正しいかどうかわからない。「まなざす」という「動詞」があるのかどうか、それもよくわからない。私自身は、「まなざし」という名詞はつかっても「まなざす」という動詞はつかわない。
また「吃水線」は「喫水線」のことだと思うけれど、そう理解していいのかどうかわからない。
ここには何かしら時里の「散文詩」のことばの名残があるように感じる。視力と、視力が識別する「差異」。「眼差す」ということばのなかにある「差」を含んだことば「差異」。
時里は、散文詩ではある存在ともう一つの存在を接近させ、接近させることではっきりする「差異」を手がかりに、「差」そのもののなかへ入っていく。
そのときの運動が、この「あをさぎ」という1行に残っていると、感じる。
でも、この作品の基本は、やはり「音」だと思う。音のなかの遠い脈絡をたどる耳と、そのかすかな音を反復する(唱和する)肉体を感じる。
「海のあなた/山のさへ」は、「海の彼方(向こう)/山の方へ」という意味なのだろうけれど、その「山のさ」の「さ」の音がきれいだなあ。
「さあをい」「さながら」「さみどり」と繰り返されるが、違う音といっしょにあるのに、それこそ、あ、「斉唱」だと感じる。
時里は「音楽」の詩人でもあったのだ--と強く感じた。
時里二郎『島嶼論』は「散文詩」を読みながら、私は、すぐに「ほーっ」と声が漏れてしまった。
「をりくち」という巻頭の作品。
そのをりふし
こかいんを鼻腔にしのばせ
かそけき花虻のえんじんを組み込んで
あなたの影法師はぬかるみの地誌にまみれた
驟雨の束を刈り
霧雨をおとがひにあつめ
あをさぎの眼差す吃水線に
しゅんしゅんと綺語が沸き立つ
道にたふふる人も馬も
古石(ふるいし)のふみのひそけさ
最初は時里のことばが、ことばの何を力に動いているのかわからなかった。「えんじん」が何かわからなかった。3連目まで読んで、「あっ」と驚き「ほーっ」と声が漏れたのである。
古石(ふるいし)のふみのひそけさ
これは、「意味論」的には、道にある石、人にも馬にも踏まれつづけた石に、石の歴史を読みとる--つまり、そこを歩いた人を、そして馬を--その歴史を読みとるということだろう。石が語る「物語」。それは、とても「ひそか」なものである。つまり、はっきりとは聞こえないものである。
--と読んでいくと、これまで私がなじんできた時里の「散文詩」と類似のものになる。ほんとうはそこには存在しないもの、あるいは存在するとしてもとても微細なもの、それをことばの力で揺り動かし、イメージとして拡大し、ひとつの世界を構築する、という詩につながる。
この詩集の作品群でも、そういうものを目指しているのかもしれない。目指しているのかもしれないけれど、「散文詩」のことばとは違ったところがある。いや、違っていないのかもしれないが、行わけにすることで鮮明になったことばの動きがある。
音楽である。
ふるいしのふみのひそけさ
この1行のなかにある「は行」の動き。それから「い」という母音の動き。「音」が繊細に響きあっている。
そう思って読むと、
みちにたふるるひともうまも
この行にも「は行」がある。「倒れる」ではなく「たふるる」ということばを動かすことで「ひと」がしっかり結びつく。
そして、それよりも何よりも。
「たふるる」と「うま」。その「ふ」と「う」の響きあい。
「たふるる」は声に出すときどう出すべきなのか、私は、実は知らない。た「ふ」るる、と声に出すとき(といっても、私は朗読はしない。あくまで黙読で、頭の中で声を出すのだが、そのとき喉は動き、舌は動き、唇も動く。ただし、これはすべて「脳」のなかの信号だが……)、「ふ」は実は音にならない。暗い、何といっていいかわからない濁った響きのままどこかへ消えていく。
「うま」の「う」。これは、頭(脳)のなかに響く音としては「ん」に近い。「音」がない。「音」がないところ、その沈黙を破って、声そのものが噴出してくるときの、不思議な暗さがある。閉ざされた何かがある。
「ふ」と「う」は、その音がない暗さでしっかり結びついている。
あ、これが「ふみ」の「ひそけさ」というものかと思うのだ。「たふるる」と「うま」の「ふ」と「う」の間には「意味」以上の、声の(肉体の音楽の)交流(文のやりとり)があるのだ。
こういうことはひとつひとつ説明する(?)のは難しいというか、めんどうくさいことである。黙読したときに肉体の内部で響く音というのは、もうそれだけで矛盾しているし、その聞こえない音(発せられなかった音)をあれこれとあつめて、この音とこの音と書いても、結局ひとりよがりの領域を出ないと思うと、無意味な気もする。
だが、私が時里のことばから感じたのは、ことばの、そういう響き(音)の交流、和音、音楽なのである。
「ぬかるみの地誌にまみれた」の「み」、あるいは「地誌」を含めた「い」の。さらには「な行」と「ま行」の親密性。そのなかにあって「か」という音の異質な輝き。しかし、その「か」の輝きは、先行する「かげぼうし」の「か」と共鳴している。
「驟雨の束を刈り」は、この1行そのもののなかには音の響きあいがないようにみえるけれど、「刈り」の「か」が「影法師」「ぬかるみ」の「か」と響きあうし、「束」の「ば」と「影法師」の「ぼ」、「ば行」と呼びかけあう。
「霧雨をおとがひにあつめ」には、きり「さ」め、おとが「ひ」が、た「ふ」るる、「う」まの関係に似ている。「霧雨」は「驟雨」と「雨」という漢字(表意文字)で眼に印象に残るが、きりさめと読むときにすばやく入り込む「あ」が、「あ」つめと響く。
そんなことまで時里は考えていない、意識していない、かもしれない。
けれど、時里がどう意識しているかは、あまり私にとっては関係がない。私は、そういう音を無意識に選びとる時里の肉体(耳と喉)から、時里のことばに勝手に親近感を感じるのである。そして、あ、これはいいなあ、と思うのである。好きになるのである。
そして、これはいいなあ、と思いながらも。
「あをさぎの眼差す吃水線に」は、この詩の中ではかなり異質で「音」とは違うものと呼びあっている、と感じ、そこでつまずく。
「驟雨」「霧雨」の影響があるのかもしれない。「眼差す」を私は「まなざす」と読んだが、それで正しいかどうかわからない。「まなざす」という「動詞」があるのかどうか、それもよくわからない。私自身は、「まなざし」という名詞はつかっても「まなざす」という動詞はつかわない。
また「吃水線」は「喫水線」のことだと思うけれど、そう理解していいのかどうかわからない。
ここには何かしら時里の「散文詩」のことばの名残があるように感じる。視力と、視力が識別する「差異」。「眼差す」ということばのなかにある「差」を含んだことば「差異」。
時里は、散文詩ではある存在ともう一つの存在を接近させ、接近させることではっきりする「差異」を手がかりに、「差」そのもののなかへ入っていく。
そのときの運動が、この「あをさぎ」という1行に残っていると、感じる。
でも、この作品の基本は、やはり「音」だと思う。音のなかの遠い脈絡をたどる耳と、そのかすかな音を反復する(唱和する)肉体を感じる。
雨に濡れ
さるなし
やまぶだうの葉
ゆきなずむ
ここを撫でて
擦り切れた羽のやうに
うたを接いでいく揚力をうしなつて
海のあなた
山のさへ
みのも
かさも
つけず
口を折り
開いた分包から微粒のけぶりたつ薬香にむせかへる
旅寝の
夢の
ほどろ
ほどろに
さあをい穂状の腸(わた)がふるへ
さながら風景の木霊のやうに
島山(しまやま)のさみどりが
斉唱してゐる
「海のあなた/山のさへ」は、「海の彼方(向こう)/山の方へ」という意味なのだろうけれど、その「山のさ」の「さ」の音がきれいだなあ。
「さあをい」「さながら」「さみどり」と繰り返されるが、違う音といっしょにあるのに、それこそ、あ、「斉唱」だと感じる。
時里は「音楽」の詩人でもあったのだ--と強く感じた。
![]() | ジパング |
時里 二郎 | |
思潮社 |