詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南原魚人『TONIC WALKER』

2012-02-11 23:59:59 | 詩集
南原魚人『TONIC WALKER』(土曜美術社出版販売、2011年11月25日発行)

 南原魚人『TONIC WALKER』は日常との「ずれ」を「非日常」に託して書いている。その場合、非日常とは「比喩」である。たとえば「サンザシになるまえに」。

「暑いので明日から金魚になってはだめでしょうか?」
僕は部長にかけあってみた。
「うちの部では金魚は一人までと決められているからダメだ。」
僕の希望はすぐさま却下された。

 今月からシマモトさんが金魚になられた。デスクの上に置かれた氷の中をシマモトさんは泳いでいた。

 「金魚」が具体的に何の「比喩」かは説明がない。ただそれがいつもと違う何かであるということだけが示される。
 この非日常と「僕(南原、と仮定しておく)」はどう向き合うのか。

シマモトさんが金魚になられてから僕は彼女に見とれるようになった。僕は彼女のかつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。そんな時、僕の背筋に緊張が走り、一瞬背びれが浮き上がってくる。僕は慌てて背中を乾かす。

 非日常を「肉体」で具体的に言いなおすところがいい。「かつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。」こういう部分は肉体をとおして、非日常が日常にかわる。非日常なのに「うなじ」というひとことが金魚と人間を結びつけてしまう。
 だから「好き」という感情も肉体のなかで動く。
 そのあとの「彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。」も「好き」という感情ととても緊密な関係にある。
 こういうとき日常と非日常があいまいになり、ふわーっと、その世界に誘い込まれる。いいなあ、と思う。
 しかし、南原のことばはときどき説明的になりすぎる。それが日常と非日常の境目をぎすぎすさせる。非日常を強引に「ストーリー」にしてしまう--ストーリーを目指してことばを動かしすぎるのかもしれない。ことばにとって(詩にとって)ストーリーはどうでもいいものなのだけれど、ストーリーにしないと南原の気持ちが落ち着かないのだろう。
 「僕の背筋に緊張が走り」--この「背筋に緊張が走り」が「流通言語」の「比喩」。で、それがストーリーを推進するのだけれど、私には、いやあな感じがする。いやな感じが残る。あ、ストーリーになってしまう。だから「一瞬背びれが浮かび上がってくる」という魅力的なことばさえも、何だか汚れたものに感じてしまう。「背筋に緊張が走り」がなくて、「僕の背中に背びれが浮かび上がってくる」と直接ことばが進んでいった方が、肉体には説得力があるだろうと思う。
 
 いったんストーリーに引っ張られると、ことばは「結論(結末)」を求めてしまう。それも、なんだか残念な気持ちにさせられる。
 「翌朝、僕がオフィスに出社すると氷が割られていた。」そして、その底の方にシマモトさんが口をパクパクさせている。

誰か心無い人間がヒマモトさんを恨めしく思ったのだろうか。それとも、誰かが優雅に泳ぐシマモトさんに発情したのだろうか。僕はシマモトさんを抱きしめたくなった。

 「感情」がすべて説明され、肉体化されていない。ことばは「結末」へ急ぎすぎている。肉体を迂回することでほんとうのストーリーが、つまり詩の内部の迷路が豊かになるのだけれど、南原はその機会を自分で壊している。

 僕は出来るだけ優しくシマモトさんを掌ですくいとり近くの河に彼女を放流した。僕はヒクヒク泣きながら会社に戻らず地下鉄に乗った。

 ことばは日常に戻ってしまう。南原は会社にもどらないことによって日常から違う世界へ行ったつもりかもしれないけれど、それは「敗北」という名のいちばん簡単な日常のようにしか私には見えない。
 もっと肉体にこだわれば世界は変わるのに、と思った。「恨めしい」とか「発情」とか、簡単な「流通言語」に頼らずに、そのことばを肉体で回避する(肉体にくぐらせる)とおもしろくなるのに、残念だなあと思った。



詩集 TONIC WALKER
南原 魚人
土曜美術社出版販売
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誰か教えてください(2)(公開メール)

2012-02-11 11:39:43 | その他(音楽、小説etc)
 きのう「誰か教えてください」という「日記」を書いた。
 そのあと、武田肇さんから、再びメールが届いた。「まさか返信が来るとは」というタイトルがついていた。
 何が書いてあるのか、よくわからない。
 短い返信を書いたが、そのとき書かなかったことを含めて、少し書いておきたい。引用部分(字下げ部分)が武田のメール。それ以外は私のことば。

谷内修三へ最後の私信

まさか返信が来るとは思っていなかったね。これは意外だった。よほど知名度が欲しいらしい。ちと薬が効き過ぎたようだ。

 武田さんは何を期待して、どんな薬を処方したのですか?
 私は武田さんの書いていることは、私に対しては無効ですよ(薬が効きませんよ)という意味でメールを書きました。
 「知名度」ということばを武田さんはつかっていますが、私はもちろん誰にも知られていません。ブログの閲覧者は限られています。コメントを寄せてくれる人もほとんどいません。
 でも、武田さんにメールを書くと知名度が上がるのですか?
 どんなふうに?

蒼い顔をしながら相手の「怒りのメール」も「非難」も受け入れない頑迷さには、周到なインテリジェンスも年齢相応のユーモアも余裕のかけらもない。

 「怒り」「非難」を受け入れないも何も、私には武田さんの書いていることがわかりません。武田さんのことばを借りて言えば「インテリジェンス」がないということになります。私のことばで言いなおせば、私と武田さんでは共通することばがありません。

武田は自分が気に入るような評を望んでいると思うのか。毀誉褒貶は当然だろう。それこそ君の書きたいように書けばいい。誰も邪魔はせぬ。

 私は書きたいように書いています。
 武田さんにじゃまされたとも感じません。
 じゃましたつもりなんですか?

そもそも歌枕という自明の読み間違いを著者から正された時、何故それをひとまず率直に受け入れて、陰で舌でも出せないのかね。それをそうせずに開き直る。成熟したオトコの弁じゃないね。

 「船岡山」の句に対して、私は武田さんの指摘を受け入れませんでしたか? 私は「船/岡山」と読んだけれど、「船岡山」という山というのが武田さんの指摘だったと記憶しています。
 私はそのことに対して、自説を再度書くというようなことはしていません。「船/岡山」と読むのが正しいと、その後、どこかで私が書きましたか? 武田さんは、それをどこで読みましたか?
 武田さんから電話で指摘を受けたとき「ありがとうございます」と言ったと思いますが。

あろうことか、公器ともいえるブログ上で「感想を書くのが面倒くさい」「読みたいように読む」とエラそうに開き直る。駄々をこねてまで正当化する。「読め」と幾度も催促しながら何という大人気ない方便かね。

 感想を書くとき、この感想を書いたら武田さんはどう思うか。私の読み方は武田さんの意図にそっているかどうか確認してから感想を書かなければならないのだとしたら、それは私には「面倒くさい」ことです。
 だから、私は読みたいように読み、読んだ通りに感想を書きます。
 それ以外のことはしません。

甘ったれるな。根こそぎ軽蔑する。言い訳に言い訳を重ねては、自分から人格を貶めていることに気づかない。

「この作品はこう読んでもらいたいという「主張」があるのなら、それを明記し、そう読んでくれる人だけに読んでもらえばいい」?

そんな気弱でオメデタイ著者がいたら見てみたいものだ。「私は誰の作品も、同じように勝手に誤読します」? 良い歳をして、今度は文学論が無いとの宣言か。それならそうと、君こそ「日記」の大前提として万人を前に掲げておくべきだろう。結局は武田にくさされて、行きがかり上自分の大事な文学論まで公然と修正する始末だ。まあ、尤もこれは気味がよいがね。

 私は武田さんに「くさされた」とは感じていません。
 私自身の「文学論」も修正していません。
 どこを、どう修正したと武田さんは感じたのですか?
 具体的に指摘してください。

田舎者の木の葉天狗だ。陰湿で稚拙で文弱の野心家で、だから詩人団体を切る勇気も無い。

 私は田舎の生まれだし、田舎に住んでいます。
 で、私の「野心」というのはなんですか? 私は書きたいことを書きたいと思っています。それが野心なら、その野心のどこに問題がありますか?
 武田さんの考えに合わないこと?
 私の考え方に合わない人なら、たくさんいると思うけれど、なぜ、私が武田さんの考え方にあわせなければならないのか、それが私にはわかりません。
 「詩人団体を切る勇気」とはなんのことでしょうか。
 私とどの詩人団体との間に問題があるのですか?
 どこかの詩人団体が私のことを批判していて、それに私が反論しない?
 私はあいにく、そういう批判を聞いたことがありません。
 また詩人団体の活動についても熟知しているわけではありません。どこかの詩人団体で、何か批判しなければならないような主張をしているのですか?

今回たまたま武田によって暴き出された(今や内心悔いているのはワカル)、己の劣悪で歪んだ性向から出た、いわば狭い谷内状況内の事情だけを主張するのに、持って回った屁理屈に縛りつけられて、「非難を楽しみにしている」の智恵の無さで嗤ったよ。可哀想なオトコだ。

「楽しみにしている」と言った以上、G誌は京都の三月書房に注文したまえ。必ずそうしたまえ。それが、もうすでに「読む機会」があるのないのと、場当たりのせいにして怖がっている。あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。G誌を読んで、君の公器で弁解しろ。

 私は何も悔いていません。何を悔いる必要があるのですか?
 私は武田さんのように、いろいろな文学知識を持ち合わせていません。だから、武田さんがひとつのことばにこめた意図を読み違えることはあります。これは武田さんの作品だけでなく、誰の作品に対しても同じです。
 私は私の知っている範囲でことばを読み、私の感想を書きます。
 そのとき、間違ったまま、筆者の意図とは無関係なことを感想に書くことはあります。これは、どうすることもできません。
 私は「ガニメデ」(なぜ、武田さんは「G誌」と書いているのですか? タイトルをかえたのですか?)を注文してまでは読みません。そんなことをするのは「面倒くさい」。「読みたい」というのは単なる「社交辞令」の類です。「読みます」さえも「社交辞令」で言うことがありますけれどね。
 武田さんは「あいにく武田は自分の文章を直接本人に押し付ける、君のような三枚目じゃない。」と書いていますが、私の感想は、武田さんから句集いただいたから、書いたものです。私が自分で句集を買って、感想を書いたものではありません。送ってくださいと依頼したこともありません。
 武田さんが私に句集を送るのは「押し付け」ではなく「寄贈」であり、私が武田さんに感想を書きました、読んでくださいというのは「押し付け」になるようだけれど、ふーん、そうなんだ、と思うしかないですねえ。
 武田さんから貴重な句集をいただきました。ありがたく拝読しました。読み方で間違いがありましたら、ご指摘下さい。読み方を間違えて申し訳ありませんでした。--という具合に、武田さんと向き合わないといけないのかもしれないけれど、これはほんとうに面倒くさい。
 私は誰に対しても、そういう向き合い方をしたことがない。
 私はいただいた詩集や詩誌の感想をブログで書いています。これは返礼を手紙・はがきで書くかわりにしていることです。書いたことを年に一度、詩集などを送ってくれた人に、ここに感想を書いていますとお知らせしています。それが「押し付け」と感じるのでしたら、読まなければいいでしょう。

安心したまえ。これが最後の私信だ。眠くなった。

武田

 武田さんからのメールがくることが、私にとって不安? 私は武田さんのメールに不安を感じないといけないんですか? こないとわかったら安心しないといけないんですか?
 武田さんのメールは脅迫状だったんですか?
 私は鈍感なので、そういうことはまったく感じなかった。
 「これが最後の私信だ。」がほんとうかどうか、まあ、楽しみです。





薔薇のプローザ
武田 肇
蒼土舎
コメント (4)
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