南原魚人『TONIC WALKER』(土曜美術社出版販売、2011年11月25日発行)
南原魚人『TONIC WALKER』は日常との「ずれ」を「非日常」に託して書いている。その場合、非日常とは「比喩」である。たとえば「サンザシになるまえに」。
「金魚」が具体的に何の「比喩」かは説明がない。ただそれがいつもと違う何かであるということだけが示される。
この非日常と「僕(南原、と仮定しておく)」はどう向き合うのか。
非日常を「肉体」で具体的に言いなおすところがいい。「かつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。」こういう部分は肉体をとおして、非日常が日常にかわる。非日常なのに「うなじ」というひとことが金魚と人間を結びつけてしまう。
だから「好き」という感情も肉体のなかで動く。
そのあとの「彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。」も「好き」という感情ととても緊密な関係にある。
こういうとき日常と非日常があいまいになり、ふわーっと、その世界に誘い込まれる。いいなあ、と思う。
しかし、南原のことばはときどき説明的になりすぎる。それが日常と非日常の境目をぎすぎすさせる。非日常を強引に「ストーリー」にしてしまう--ストーリーを目指してことばを動かしすぎるのかもしれない。ことばにとって(詩にとって)ストーリーはどうでもいいものなのだけれど、ストーリーにしないと南原の気持ちが落ち着かないのだろう。
「僕の背筋に緊張が走り」--この「背筋に緊張が走り」が「流通言語」の「比喩」。で、それがストーリーを推進するのだけれど、私には、いやあな感じがする。いやな感じが残る。あ、ストーリーになってしまう。だから「一瞬背びれが浮かび上がってくる」という魅力的なことばさえも、何だか汚れたものに感じてしまう。「背筋に緊張が走り」がなくて、「僕の背中に背びれが浮かび上がってくる」と直接ことばが進んでいった方が、肉体には説得力があるだろうと思う。
いったんストーリーに引っ張られると、ことばは「結論(結末)」を求めてしまう。それも、なんだか残念な気持ちにさせられる。
「翌朝、僕がオフィスに出社すると氷が割られていた。」そして、その底の方にシマモトさんが口をパクパクさせている。
「感情」がすべて説明され、肉体化されていない。ことばは「結末」へ急ぎすぎている。肉体を迂回することでほんとうのストーリーが、つまり詩の内部の迷路が豊かになるのだけれど、南原はその機会を自分で壊している。
僕は出来るだけ優しくシマモトさんを掌ですくいとり近くの河に彼女を放流した。僕はヒクヒク泣きながら会社に戻らず地下鉄に乗った。
ことばは日常に戻ってしまう。南原は会社にもどらないことによって日常から違う世界へ行ったつもりかもしれないけれど、それは「敗北」という名のいちばん簡単な日常のようにしか私には見えない。
もっと肉体にこだわれば世界は変わるのに、と思った。「恨めしい」とか「発情」とか、簡単な「流通言語」に頼らずに、そのことばを肉体で回避する(肉体にくぐらせる)とおもしろくなるのに、残念だなあと思った。
南原魚人『TONIC WALKER』は日常との「ずれ」を「非日常」に託して書いている。その場合、非日常とは「比喩」である。たとえば「サンザシになるまえに」。
「暑いので明日から金魚になってはだめでしょうか?」
僕は部長にかけあってみた。
「うちの部では金魚は一人までと決められているからダメだ。」
僕の希望はすぐさま却下された。
今月からシマモトさんが金魚になられた。デスクの上に置かれた氷の中をシマモトさんは泳いでいた。
「金魚」が具体的に何の「比喩」かは説明がない。ただそれがいつもと違う何かであるということだけが示される。
この非日常と「僕(南原、と仮定しておく)」はどう向き合うのか。
シマモトさんが金魚になられてから僕は彼女に見とれるようになった。僕は彼女のかつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。そんな時、僕の背筋に緊張が走り、一瞬背びれが浮き上がってくる。僕は慌てて背中を乾かす。
非日常を「肉体」で具体的に言いなおすところがいい。「かつてうなじがあったであろう背びれの上部を眺めるのが好きだ。」こういう部分は肉体をとおして、非日常が日常にかわる。非日常なのに「うなじ」というひとことが金魚と人間を結びつけてしまう。
だから「好き」という感情も肉体のなかで動く。
そのあとの「彼女がふりかえるとよく目が合ったりする。」も「好き」という感情ととても緊密な関係にある。
こういうとき日常と非日常があいまいになり、ふわーっと、その世界に誘い込まれる。いいなあ、と思う。
しかし、南原のことばはときどき説明的になりすぎる。それが日常と非日常の境目をぎすぎすさせる。非日常を強引に「ストーリー」にしてしまう--ストーリーを目指してことばを動かしすぎるのかもしれない。ことばにとって(詩にとって)ストーリーはどうでもいいものなのだけれど、ストーリーにしないと南原の気持ちが落ち着かないのだろう。
「僕の背筋に緊張が走り」--この「背筋に緊張が走り」が「流通言語」の「比喩」。で、それがストーリーを推進するのだけれど、私には、いやあな感じがする。いやな感じが残る。あ、ストーリーになってしまう。だから「一瞬背びれが浮かび上がってくる」という魅力的なことばさえも、何だか汚れたものに感じてしまう。「背筋に緊張が走り」がなくて、「僕の背中に背びれが浮かび上がってくる」と直接ことばが進んでいった方が、肉体には説得力があるだろうと思う。
いったんストーリーに引っ張られると、ことばは「結論(結末)」を求めてしまう。それも、なんだか残念な気持ちにさせられる。
「翌朝、僕がオフィスに出社すると氷が割られていた。」そして、その底の方にシマモトさんが口をパクパクさせている。
誰か心無い人間がヒマモトさんを恨めしく思ったのだろうか。それとも、誰かが優雅に泳ぐシマモトさんに発情したのだろうか。僕はシマモトさんを抱きしめたくなった。
「感情」がすべて説明され、肉体化されていない。ことばは「結末」へ急ぎすぎている。肉体を迂回することでほんとうのストーリーが、つまり詩の内部の迷路が豊かになるのだけれど、南原はその機会を自分で壊している。
僕は出来るだけ優しくシマモトさんを掌ですくいとり近くの河に彼女を放流した。僕はヒクヒク泣きながら会社に戻らず地下鉄に乗った。
ことばは日常に戻ってしまう。南原は会社にもどらないことによって日常から違う世界へ行ったつもりかもしれないけれど、それは「敗北」という名のいちばん簡単な日常のようにしか私には見えない。
もっと肉体にこだわれば世界は変わるのに、と思った。「恨めしい」とか「発情」とか、簡単な「流通言語」に頼らずに、そのことばを肉体で回避する(肉体にくぐらせる)とおもしろくなるのに、残念だなあと思った。
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南原 魚人 | |
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