詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎『島嶼論』(3)

2012-02-21 23:59:59 | 詩集
時里二郎『島嶼論』(3)(「ロッジア」11、2012年01月01日発行)

 「記憶の捨て場」は、時里らしい(?)作品である。3連から構成されている。その1連目と3連目が「散文」の形式であることも、時里らしさに関係しているかもしれない。ことばの緊密感が「散文」では非常に高くなる。

使用済みのだれかの記憶を抹消したものに、ぼくたちの記憶は記録されるのだろうか。時々消去しきれなかった痕跡のようなものがぼくの記憶ににじむ時がある。自分の境遇や、体験や、履歴からは決して辿れないその痕跡に戸惑うことがある。

 「記憶」と「記録」、「抹消」「消去」と「痕跡」。そこに書かれていることをていねいにたどり、肉体に取り込むには手間隙がかかる。同時に、ていねいにではなく、なんとなく取り込んでしまうことは、簡単にできる。あ、いま、何か複雑なことを言ったなあ。なんだったっけなあ。よくわからないけれど、記憶とか記憶が抹消(消去)されて、その抹消(消去)の痕跡が記憶とか記録に残っていて、でもそれは自分の記憶なのか、それとも記憶を消したひと自身が持っていた何か--つまり抹消、消去するときの「手つき」のようなものが「ぼく」に与えた影響なのかなあ。たとえばそれは、汚れた体をだれかが拭いてくれたとき、体が感じる相手の「手つき」のようなものかなあ。まあ、消して、消されて、そのとき何かが「影響」として残るということだろうなあ。こういうことは、はっきりわからなくたっていいや。書き出しのことばだし、大事なことなら後でわかるようになるだろう--というような、と私は、あいまいなことはあいまいなまま、それで納得してしまう。先へ進んでしまう。
 詩なのだから。--つまり、詩を読むというのは、書いたひとと私との間の一種のセックスであり、あくまで個人的なこと。プライバシー。そこでどんなことが起きようが、第三者には無関係。間違っていようが、それは単に私の問題。私と時里のことばのセックスに行き違いがあるというだけであって、時里以外のだれにも迷惑はかけない。「あ、そんなところを刺激されても感じない」と時里が拒絶すれば、そうか、違っていたかと私が思えばそれでおしまい。
 で、作品にもどると……。記憶と記録、抹消と消去。似ているけれど、違う。その違いは? さらに痕跡というのは、ほんとうはどっちのもの? 抹消した方? 抹消された方? どちらか一方だけ? それとも両方? 考えはじめると、目が痛くなる。
 私は目が悪いので、なんだか活字の迷路に迷い込んだような、そして迷いの中で、ふと何かを発見したと勘違いするような--眩暈のようなものを感じる。時里は、この眩暈のようなものをことばのセックスとして提供してくる。その眩暈の渦がこまかくて、はやすぎて、私は酔っぱらってしまう。
 だから、その眩暈の渦を抜け出すことだけを考える。(セックスで言うと、反撃?の手がかりを探す、ということかな。)
 2連目。

この島。いまここにいるこの島ではないこの島にいたという記憶の耳。
「島は半島の記憶において島である。」
通訳が困ったような顔をして子どものことばをそう直訳してくれた。
まさかこどもが言うようなことばではない。
しかし 通訳は真顔で次のように意訳してくれる。
「島は記憶の捨て場である」
「半島」は島では「黄泉」の俗語として使用される頻度が高いが、そう解釈すると、自分たちは「黄泉」に連れて行ってもらえなかった記憶だと言うのだ。

 この連にも「通訳」「直訳」「意訳」「解釈」と微妙に動いていくことばがあって、それが眩暈を誘うのだが……。
 私は「記憶の耳」の、その「耳」にこだわるのだ。
 ここから時里に近づいて行きたいと思う。
 ことばと、「通訳」「直訳」「意訳」「解釈」--これは、時里の詩学の基本テーマだと私は感じている。つまり、あることばを、どう「通訳」するか。どう「解釈」し、言いなおすか--そのことが時里の詩学の中心である。そして、そのとき時里は「物語」を利用する。「通訳」を「私(時里)」と「存在(世界)」の一対一の関係で動かすのではなく、「通訳」のことばを「第三者」を登場させることで明確にしながら世界を把握し直す。世界の上にもう一つ世界をかぶせる、世界のなかにもう一つ世界を誕生させる。そうして、そのふたつの世界--最初から存在する世界と、「通訳」することで誕生した世界を向き合わせ、その「差異」のなかに「私(時里)」がいる、という形で「私(時里)」を浮かび上がらせる。
 時里は、つまり「通訳」なのだ。
 「通訳」というのは、ある意味では必要のない人間である。だれかとだれかが、彼ら自身でことばを流通させる方法を考えればいいだけのことである。でも、時里はそこに「通訳」を介在させる。そうして、その「通訳」こそが、実は存在する唯一の世界なのだ、ということを明らかにするのだが……。
 この眩暈のような論理の中で、論理だけが動くような世界の中で、「記憶の耳」の「耳」。その肉体の部分がぽつんと浮いてくる。
 何、これ?
 わからない。わからないけれど、「耳」そのものは、私の肉体にもあるので、「耳」をはっきりと理解することができる。そして、そのことが、時里のことばを私に身近な感じにさせる。「耳」があるので、時里のことばが身近になる。
 時里は、ことばを「耳」で感じているのだ。「音」で感じているのだ。「記憶」「記録」「抹消」「消去」というようなことばは、文字の重複によって視覚に強く訴えてくるが、そういうときでも時里はことばを「耳」で聞いて動かしている。だから、すーっと読むことができる。ことばが「耳」から肉体に入ってくる。
 これは2連目の1行目が、もっと、そういう印象が強い。

この島。いまここにいるこの島ではないこの島にいたという記憶の耳。

 繰り返される「この島」。その「この」。これは視覚で整理すると、とても変になる。複数の「この島」が同時(いま/ここ)に存在する。(この言い方は正確ではないかもしれないけれど……)。
 しかし、「耳」で聞いたことばは、聞いた端から消えていく。「この島」と「この島」は同時には聞こえない。時差がある。そして、そこに時差があるから「ここ」にそれぞれ出現する。
 あ、変だね。この言い方。
 言いなおせば……。
 「耳」では、あることばを聞いた瞬間にそのことばがそこにある。「耳」はつぎのことばを聞きながら、前に聞いたことばを思い出し、反復し、そこに「意味」をつないでみることができるが、その意味は「耳」を媒介にして、ことばをつなぐときにのみ、その瞬間瞬間存在するのもであって、いつまでもそこに定着して存在しているのではない。
 「耳」--耳で聞くことばは、時差を利用して、必然的に「ずれる」。違ったものになる。「時差」があるなら違ってもかまわない--と時里は書いているわけではないが、ここに「耳」が登場することで、時里の「物語」が「肉体」になる。そんな感じがする。で、そこに、私は惹かれ、また安心する。
 「直訳」「意訳」「解釈」--その「解釈」が「耳」がつくりだす「時差」と重なりながら動いていく。そのことに、私は、とても安心する。私の肉体が「眩暈」を感じるのは最初に詩を読んだときとかわらないのだが、その眩暈が「眼」で起きるのではなく、「耳の時間」として起きることに、とても安心感がある。
 で。
 「耳の時差」が、「記憶」という問題にも重なる。通訳-直訳-意訳-解釈とことばが肉体を通るとき、ことばはそれぞれ「記憶」となり、そのつど「いま/ここ」へ呼び出される。「記憶」は呼び出されると「記憶」ではなく「いま」である。だからこそ「いま」のなかに「差異」がうごめく。不思議な形で動き回る。

 「記憶の耳」の「耳」ということばがなかったら、私はたぶん「通訳-直訳-意訳-解釈」ということばの運動の「時差」になじむことができず、眩暈の混乱のなかに取り残されたと思う。
 「耳」があるから、あっ、「いま/ここ」に時里といっしょにいる、いっしょに生きているという喜び--セックスの喜びがあふれてくる。

 3連目。

島では、ことばは純度の高い記憶にまで煮詰められている。それゆえに島のことばは年齢差も性差も文法も語彙も交換と循環の交通路を絶たれて、島ごとに変異が際だっている。

 島では、すべてが詩である。詩では、すべてが島語である。言い換えると、時里の詩は「時里語」で書かれている。それは「日本語」にみえるけれど「日本語」ではない。そういうことばを、どうやって理解するか。
 非常に俗な言い方になるが、「外国語」を覚えるには、そのことばを話すひととひととセックスするのがいちばんである。肉体をとおして、ことばがどんなふうに動くか、それを知るしかない。--だから私は詩を読むとき、「肉体」を探して読む。「肉体」のないことばは、「頭」だけで書かれたことばは、私にはどうにも手におえない。


書影でたどる関西の出版100 明治・大正・昭和の珍本稀書
生田誠,石原輝雄,林哲夫,藤田加奈子,毛利眞人,宮内淳子,山本善行,小川知子,吉田勝栄,小野高裕,北川久,季村敏夫,菅谷富夫,熊田司,高橋輝次,戸田勝久,時里二郎,中尾務,中野晴行,野村恒彦
創元社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする