作田教子「月駅」、柿沼徹「朝」(「この場所ici 」6、2012年02月08日発行)
作田教子「月駅」は、ほんとうか嘘か解らないことが書いてある。
1連目はふつうの情景描写のように思える。でも、違う。「けれどタクシーは/なかなか月には行けない」はほんとうのことのようであって、嘘である。--この嘘であるというのは、ちょっとへんな言い方だが、もちろんタクシーでは月には行けない。そういうわかりきったことをわざわざ月へ行けないということが、一種の嘘である。言う「必要」がないことだからである。
しかし、ここには不思議な工夫(?)がほどこされている。「なかなか」ということば。これをかぶせることで、言う必要のない嘘が、嘘から気持ちの方へ近づいてくる。なかなか……できない。したいのだけれど、できない。「……したい」といいきっていいかどうか解らないが、ここでは「事実」が書かれているのではなく、気持ちが書かれているのだ。
「青信号の先を/月のひかりが包みこんでいる」の「ひかり」も「事実」というよりは気持ちなのだ。「光」のように明確ではなく、「ひかり」と書いてしまうときの「ぼんやり」とした広がり。結晶化しない何か--それが「なかなか」につながっている。
2連目は、もっとおもしろい。酔った男が二人で話している。それはほんとうに月に行くことについてか。心構えか、決心か。あるいはそのときの重力か。--ほんとうにそれについて話していたにしろ、それはほんとうではない。嘘--つまり架空のことである。そのふたりが月へ行く(予定がある)のなら、そんなことろで酔っぱらっていないだろう。ほんとうは違う話をしているのかもしれない。けれど、作田の気持ちとしては、二人は月に行くことについて話している--そう感じたいのだ。
感じたことを書くのではなく、感じたいことを書く。感じたいことを書きながら、気持ちをつくりだしていく--つくりだしていくという言い方が間違っているなら、ぼんやりと感じていることを明確にしていく、と言えばいいだろうか。
ことばは、気持ちを明確にして行く。そのためにある。ことばを通して、気持ちが気持ちになる。そのとき、その気持ちに「なる」という運動の「なる」のなかに詩がある。
「待っている時間は/娘が生まれるまでの時間の相似形」はとても印象的だ。この2行を私は何度も何度も読み返した。
そうか、作田は「待っている」ひとなのか。「待っている」詩人なのか。
さっき私は、作田はことばで気持ちをつくりだしていく、そして気持ちが気持ちに「なる」とき、そこに詩が動くと書いたのだが、言いなおすと、作田はことばで気持ちをつくりだしていくのだけれど、強引ではない。「待っている」。ことばのなかで、気持ちが気持ちになるのを「待っている」。ことばのなかで動きだす力を「待っている」。
この穏やかさが、あるいはいのちに対する信頼が、作田のことばの力かもしれない。
「月 満ちて/ようやく遅れた列車が駅に舞い降りた」は、とても美しい。
「なる」--変化する何かは、天から「舞い降りてくる」ものなのだ。それは作田のなかからあらわれるものなのだけれど、作田はそれを「舞い降りてくる」と感じる。出産は、作田の肉体で起きることがらであるけれど、それを作田は「舞い降りてくる」ものとして受け止める。
「気持ち」は「事実」とは違う。「事実」は「気持ち」を語ってはくれない。だから、作田は「気持ち」を語るのだ。
「月の光」の「光」は1連目との関係で言うと、ない方が美しく広がると思った。
*
柿沼徹「朝」は亡くなった父を思い出す詩である。「朝」の「空白」から書きはじめているところがとても印象的だが、最後の連がおもしろくない。
「説明せず」が「説明」になってしまっている。詩が、最終連で散文に席を譲っている。席を奪われている。「気持ち」がことばを動かすのではなく、「頭」が「事実」を説明していると感じた。
作田教子「月駅」は、ほんとうか嘘か解らないことが書いてある。
青信号の先を
月のひかりが包みこんでいる
タクシーが客を待つ長い列の
向こうは 月
けれどタクシーは
なかなか月には行けない
酔った人がふたり
よれた上着を法衣のように羽織って
大きな声で話し合っている
月へ行く心構えについて
ほんとうは月へ行く些細な決心について
背負わなければならない重力について
1連目はふつうの情景描写のように思える。でも、違う。「けれどタクシーは/なかなか月には行けない」はほんとうのことのようであって、嘘である。--この嘘であるというのは、ちょっとへんな言い方だが、もちろんタクシーでは月には行けない。そういうわかりきったことをわざわざ月へ行けないということが、一種の嘘である。言う「必要」がないことだからである。
しかし、ここには不思議な工夫(?)がほどこされている。「なかなか」ということば。これをかぶせることで、言う必要のない嘘が、嘘から気持ちの方へ近づいてくる。なかなか……できない。したいのだけれど、できない。「……したい」といいきっていいかどうか解らないが、ここでは「事実」が書かれているのではなく、気持ちが書かれているのだ。
「青信号の先を/月のひかりが包みこんでいる」の「ひかり」も「事実」というよりは気持ちなのだ。「光」のように明確ではなく、「ひかり」と書いてしまうときの「ぼんやり」とした広がり。結晶化しない何か--それが「なかなか」につながっている。
2連目は、もっとおもしろい。酔った男が二人で話している。それはほんとうに月に行くことについてか。心構えか、決心か。あるいはそのときの重力か。--ほんとうにそれについて話していたにしろ、それはほんとうではない。嘘--つまり架空のことである。そのふたりが月へ行く(予定がある)のなら、そんなことろで酔っぱらっていないだろう。ほんとうは違う話をしているのかもしれない。けれど、作田の気持ちとしては、二人は月に行くことについて話している--そう感じたいのだ。
感じたことを書くのではなく、感じたいことを書く。感じたいことを書きながら、気持ちをつくりだしていく--つくりだしていくという言い方が間違っているなら、ぼんやりと感じていることを明確にしていく、と言えばいいだろうか。
ことばは、気持ちを明確にして行く。そのためにある。ことばを通して、気持ちが気持ちになる。そのとき、その気持ちに「なる」という運動の「なる」のなかに詩がある。
わたしの娘を乗せた列車は
時間になっても到着しない
(娘は月に戻って行った?)
待っている時間は
娘が生まれるまでの時間の相似形
月 満ちて
ようやく遅れた列車が駅に舞い降りた
待ちくたびれたわたしは
月の光に照らされて青白い
「待っている時間は/娘が生まれるまでの時間の相似形」はとても印象的だ。この2行を私は何度も何度も読み返した。
そうか、作田は「待っている」ひとなのか。「待っている」詩人なのか。
さっき私は、作田はことばで気持ちをつくりだしていく、そして気持ちが気持ちに「なる」とき、そこに詩が動くと書いたのだが、言いなおすと、作田はことばで気持ちをつくりだしていくのだけれど、強引ではない。「待っている」。ことばのなかで、気持ちが気持ちになるのを「待っている」。ことばのなかで動きだす力を「待っている」。
この穏やかさが、あるいはいのちに対する信頼が、作田のことばの力かもしれない。
「月 満ちて/ようやく遅れた列車が駅に舞い降りた」は、とても美しい。
「なる」--変化する何かは、天から「舞い降りてくる」ものなのだ。それは作田のなかからあらわれるものなのだけれど、作田はそれを「舞い降りてくる」と感じる。出産は、作田の肉体で起きることがらであるけれど、それを作田は「舞い降りてくる」ものとして受け止める。
「気持ち」は「事実」とは違う。「事実」は「気持ち」を語ってはくれない。だから、作田は「気持ち」を語るのだ。
「月の光」の「光」は1連目との関係で言うと、ない方が美しく広がると思った。
*
柿沼徹「朝」は亡くなった父を思い出す詩である。「朝」の「空白」から書きはじめているところがとても印象的だが、最後の連がおもしろくない。
おびただしい埃の粒子が
光線の射す空間に
ばら撒かれている
そしてなにひとつ説明しようとせず
思い思いの点を
漂っている
「説明せず」が「説明」になってしまっている。詩が、最終連で散文に席を譲っている。席を奪われている。「気持ち」がことばを動かすのではなく、「頭」が「事実」を説明していると感じた。
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