円城塔「道化師の蝶」(「文藝春秋」2012年03月号)
円城塔「道化師の蝶」を読み始めてすぐ、あ、これは田中慎弥「共喰い」にとても似ている、と思った。(「共喰い」の感想はきのう書いたので、そちらを読んでください。)世間一般(?)では、田中の作品は「文学文学している(古典的)」、円城の作品は「前衛的」といわれているみたいだけれど--うーん。似ている。そっくり。私はこのふたつの作品をひとりの作家が書いたと聞かされたら信じてしまう。
私が円城の作品が田中の作品に似ていると思い、それを確信したのは、次のような部分。
「規則」ということばがおもしろい。これを「方法」と言い換えることができると思う。「方法」のなかには「規則」が存在する。「無規則」の「方法」はない。
で、何が似ているかといえば、円城も田中も「方法(規則)」によってことばを動かしている。
円城の作品にではなく、ここに書かれていることを、田中の作品にあてはめてみると、二人の作品がそっくりであることがわかると思う。
田中の作品は、作品の完成(結末)をもっているけれど、それはただそこで終わっているというだけであって、それは便宜上のものである。結末はどうでもいい。ストーリーはどうでもいい。作品のなかで人間が(登場人物が)どう動くかだけを問題にしている。そこには人間の動き方、「交易」の仕方が書かれているだけである。「交易」というのは、誰が誰に何をし、それに対して誰がどのように答えたか、ということ。
いちばん「交易」にふさわしい部分は、母親が鰻料理を鍋に入れて主人公に持たせる。そうすると鍋には父と一緒にいる女の手料理か何かが入って返ってくる。鰻料理と手料理が「交易」している。そういう関係が、母親と父の女との間に成り立っている。
主人公がアパートの女とセックスをし、その代金を「父からもらえ」というのも「交易」である。
さらには、きのう書いた「鰻の頭の裂け目」に勃起する主人公と、父に殴られて頬が破れる恋人の傷も「交易」している。「人間の動き方」が「同じ」というか「対等」である。釣り合っている。
「完成品」ではなく「途中の品をつくるために仕事をしている」というのは、蝸牛の描写の部分が相当する。蝸牛をみながら、蝸牛とは無関係なあれこれを思う。その「無関係さ」の連鎖こそが田中の作品のいちばんの魅力である。いまでは、だれもが「無関係」を主張している部分、「そんなことは俺には関係ない、俺は父とは別個の人間だ」といっている部分を、「無関係」とは言わずに「関係」させていく--つまり関係という「途中」をつくる仕事を、田中のことばはしている。
「真相」、田中の作品のテーマ(?)に則して言えば、人間の内面の衝動、その普遍性(父と子で共通する、あるいは女たちに共通する--その共通という普遍性)を描くがテーマなのかもしれないが、そんなテーマを知っている登場人物はいない。そんなテーマなど、登場人物には存在しない。人間が関わる(無関係が関係になる)とき、そこに暴力が入り込む、そして傷つけあうという「規則」があるだけである。
円城と田中の作品に違う点があるとすれば、田中のことばが関係によって「滞る(停滞する)」こと。そして、その「停滞」することで、たまったものが底から噴き上げてくること。
円城のことばは「旅の間にしか読めない本があるとよい。」という書き出しが象徴するように、「停滞」ではなく「移動」する。スピードが問題なのだ。そこには手芸をするとか何かをつかまえるとかという「停滞」もあるが、それは単に移動のスピードを明確にするための方便(手段)の類である。
二人は、いわば逆向きのベクトルを生きている。逆のベクトルへ向かっている。けれど、その「方法」と、その「方法」にかけるエネルギーの度合い(?)が私にはそっくりにみえる。
とてもていねいである。
そのていねいさは、文体にあらわれている。二人の文体は驚くほど読みやすい。1行1行ではなく、速読本の教科書を読むように、5行ずつくらい、一気に読み進むことができる。(あ、私は速読本で勉強したことはないので、ここに書いていることは勝手な想像なのだけれど。)読み間違えが起きないように書かれている。熟達している。
作品とは少し(かなり)離れるのだけれど、伝え聞く今回の芥川賞の経過はとてもおもしろい。
田中の作品が過半数の票を集めて早々と「受賞」が決まった。ところが、そこで選考が終わらずに円城の作品をどうするかであれこれがあり、最終的に2作の受賞が決まったという。
田中の作品は「文学」としてとても評価が高く、昔の選考なら、田中の作品の受賞が決まった段階で選考が終わったと思う。でも、それだけでは何か物足りない--と思う気持ちが選考委員にあって、それが円城の作品を「受賞」に引っぱり上げたのだと思うのだが、このときの「相互関係」が、私が先に書いた二人の「類似性」と関係しているように思えるのだ。
田中と円城は二人でひとりなのだ。そのことばを貫いている「方法」はひとつであって、一方だけを選ぶと、何か半分足りない気持ちになるのだろう。
円城塔「道化師の蝶」を読み始めてすぐ、あ、これは田中慎弥「共喰い」にとても似ている、と思った。(「共喰い」の感想はきのう書いたので、そちらを読んでください。)世間一般(?)では、田中の作品は「文学文学している(古典的)」、円城の作品は「前衛的」といわれているみたいだけれど--うーん。似ている。そっくり。私はこのふたつの作品をひとりの作家が書いたと聞かされたら信じてしまう。
私が円城の作品が田中の作品に似ていると思い、それを確信したのは、次のような部分。
作品ではなく作品の作り方を交易している。(436 ページ)
完成品を仕上げるためではなく、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。(438 ページ)
真相を知る者は記念館にもおらず、あるいは最初からいたことがなく、規則だけがまわっているというのが月並みながらありそうだ。(445 ページ)
「規則」ということばがおもしろい。これを「方法」と言い換えることができると思う。「方法」のなかには「規則」が存在する。「無規則」の「方法」はない。
で、何が似ているかといえば、円城も田中も「方法(規則)」によってことばを動かしている。
円城の作品にではなく、ここに書かれていることを、田中の作品にあてはめてみると、二人の作品がそっくりであることがわかると思う。
田中の作品は、作品の完成(結末)をもっているけれど、それはただそこで終わっているというだけであって、それは便宜上のものである。結末はどうでもいい。ストーリーはどうでもいい。作品のなかで人間が(登場人物が)どう動くかだけを問題にしている。そこには人間の動き方、「交易」の仕方が書かれているだけである。「交易」というのは、誰が誰に何をし、それに対して誰がどのように答えたか、ということ。
いちばん「交易」にふさわしい部分は、母親が鰻料理を鍋に入れて主人公に持たせる。そうすると鍋には父と一緒にいる女の手料理か何かが入って返ってくる。鰻料理と手料理が「交易」している。そういう関係が、母親と父の女との間に成り立っている。
主人公がアパートの女とセックスをし、その代金を「父からもらえ」というのも「交易」である。
さらには、きのう書いた「鰻の頭の裂け目」に勃起する主人公と、父に殴られて頬が破れる恋人の傷も「交易」している。「人間の動き方」が「同じ」というか「対等」である。釣り合っている。
「完成品」ではなく「途中の品をつくるために仕事をしている」というのは、蝸牛の描写の部分が相当する。蝸牛をみながら、蝸牛とは無関係なあれこれを思う。その「無関係さ」の連鎖こそが田中の作品のいちばんの魅力である。いまでは、だれもが「無関係」を主張している部分、「そんなことは俺には関係ない、俺は父とは別個の人間だ」といっている部分を、「無関係」とは言わずに「関係」させていく--つまり関係という「途中」をつくる仕事を、田中のことばはしている。
「真相」、田中の作品のテーマ(?)に則して言えば、人間の内面の衝動、その普遍性(父と子で共通する、あるいは女たちに共通する--その共通という普遍性)を描くがテーマなのかもしれないが、そんなテーマを知っている登場人物はいない。そんなテーマなど、登場人物には存在しない。人間が関わる(無関係が関係になる)とき、そこに暴力が入り込む、そして傷つけあうという「規則」があるだけである。
円城と田中の作品に違う点があるとすれば、田中のことばが関係によって「滞る(停滞する)」こと。そして、その「停滞」することで、たまったものが底から噴き上げてくること。
円城のことばは「旅の間にしか読めない本があるとよい。」という書き出しが象徴するように、「停滞」ではなく「移動」する。スピードが問題なのだ。そこには手芸をするとか何かをつかまえるとかという「停滞」もあるが、それは単に移動のスピードを明確にするための方便(手段)の類である。
二人は、いわば逆向きのベクトルを生きている。逆のベクトルへ向かっている。けれど、その「方法」と、その「方法」にかけるエネルギーの度合い(?)が私にはそっくりにみえる。
とてもていねいである。
そのていねいさは、文体にあらわれている。二人の文体は驚くほど読みやすい。1行1行ではなく、速読本の教科書を読むように、5行ずつくらい、一気に読み進むことができる。(あ、私は速読本で勉強したことはないので、ここに書いていることは勝手な想像なのだけれど。)読み間違えが起きないように書かれている。熟達している。
作品とは少し(かなり)離れるのだけれど、伝え聞く今回の芥川賞の経過はとてもおもしろい。
田中の作品が過半数の票を集めて早々と「受賞」が決まった。ところが、そこで選考が終わらずに円城の作品をどうするかであれこれがあり、最終的に2作の受賞が決まったという。
田中の作品は「文学」としてとても評価が高く、昔の選考なら、田中の作品の受賞が決まった段階で選考が終わったと思う。でも、それだけでは何か物足りない--と思う気持ちが選考委員にあって、それが円城の作品を「受賞」に引っぱり上げたのだと思うのだが、このときの「相互関係」が、私が先に書いた二人の「類似性」と関係しているように思えるのだ。
田中と円城は二人でひとりなのだ。そのことばを貫いている「方法」はひとつであって、一方だけを選ぶと、何か半分足りない気持ちになるのだろう。
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