詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

円城塔「道化師の蝶」

2012-02-13 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
円城塔「道化師の蝶」(「文藝春秋」2012年03月号)

 円城塔「道化師の蝶」を読み始めてすぐ、あ、これは田中慎弥「共喰い」にとても似ている、と思った。(「共喰い」の感想はきのう書いたので、そちらを読んでください。)世間一般(?)では、田中の作品は「文学文学している(古典的)」、円城の作品は「前衛的」といわれているみたいだけれど--うーん。似ている。そっくり。私はこのふたつの作品をひとりの作家が書いたと聞かされたら信じてしまう。
 私が円城の作品が田中の作品に似ていると思い、それを確信したのは、次のような部分。

作品ではなく作品の作り方を交易している。(436 ページ)

完成品を仕上げるためではなく、途中の品をつくるために仕事をしている気分になってきて、実際その通りであったりする。(438 ページ)

真相を知る者は記念館にもおらず、あるいは最初からいたことがなく、規則だけがまわっているというのが月並みながらありそうだ。(445 ページ)

 「規則」ということばがおもしろい。これを「方法」と言い換えることができると思う。「方法」のなかには「規則」が存在する。「無規則」の「方法」はない。
 で、何が似ているかといえば、円城も田中も「方法(規則)」によってことばを動かしている。
 円城の作品にではなく、ここに書かれていることを、田中の作品にあてはめてみると、二人の作品がそっくりであることがわかると思う。
 田中の作品は、作品の完成(結末)をもっているけれど、それはただそこで終わっているというだけであって、それは便宜上のものである。結末はどうでもいい。ストーリーはどうでもいい。作品のなかで人間が(登場人物が)どう動くかだけを問題にしている。そこには人間の動き方、「交易」の仕方が書かれているだけである。「交易」というのは、誰が誰に何をし、それに対して誰がどのように答えたか、ということ。
 いちばん「交易」にふさわしい部分は、母親が鰻料理を鍋に入れて主人公に持たせる。そうすると鍋には父と一緒にいる女の手料理か何かが入って返ってくる。鰻料理と手料理が「交易」している。そういう関係が、母親と父の女との間に成り立っている。
 主人公がアパートの女とセックスをし、その代金を「父からもらえ」というのも「交易」である。
 さらには、きのう書いた「鰻の頭の裂け目」に勃起する主人公と、父に殴られて頬が破れる恋人の傷も「交易」している。「人間の動き方」が「同じ」というか「対等」である。釣り合っている。
 「完成品」ではなく「途中の品をつくるために仕事をしている」というのは、蝸牛の描写の部分が相当する。蝸牛をみながら、蝸牛とは無関係なあれこれを思う。その「無関係さ」の連鎖こそが田中の作品のいちばんの魅力である。いまでは、だれもが「無関係」を主張している部分、「そんなことは俺には関係ない、俺は父とは別個の人間だ」といっている部分を、「無関係」とは言わずに「関係」させていく--つまり関係という「途中」をつくる仕事を、田中のことばはしている。
 「真相」、田中の作品のテーマ(?)に則して言えば、人間の内面の衝動、その普遍性(父と子で共通する、あるいは女たちに共通する--その共通という普遍性)を描くがテーマなのかもしれないが、そんなテーマを知っている登場人物はいない。そんなテーマなど、登場人物には存在しない。人間が関わる(無関係が関係になる)とき、そこに暴力が入り込む、そして傷つけあうという「規則」があるだけである。

 円城と田中の作品に違う点があるとすれば、田中のことばが関係によって「滞る(停滞する)」こと。そして、その「停滞」することで、たまったものが底から噴き上げてくること。
 円城のことばは「旅の間にしか読めない本があるとよい。」という書き出しが象徴するように、「停滞」ではなく「移動」する。スピードが問題なのだ。そこには手芸をするとか何かをつかまえるとかという「停滞」もあるが、それは単に移動のスピードを明確にするための方便(手段)の類である。
 二人は、いわば逆向きのベクトルを生きている。逆のベクトルへ向かっている。けれど、その「方法」と、その「方法」にかけるエネルギーの度合い(?)が私にはそっくりにみえる。
 とてもていねいである。
 そのていねいさは、文体にあらわれている。二人の文体は驚くほど読みやすい。1行1行ではなく、速読本の教科書を読むように、5行ずつくらい、一気に読み進むことができる。(あ、私は速読本で勉強したことはないので、ここに書いていることは勝手な想像なのだけれど。)読み間違えが起きないように書かれている。熟達している。

 作品とは少し(かなり)離れるのだけれど、伝え聞く今回の芥川賞の経過はとてもおもしろい。
 田中の作品が過半数の票を集めて早々と「受賞」が決まった。ところが、そこで選考が終わらずに円城の作品をどうするかであれこれがあり、最終的に2作の受賞が決まったという。
 田中の作品は「文学」としてとても評価が高く、昔の選考なら、田中の作品の受賞が決まった段階で選考が終わったと思う。でも、それだけでは何か物足りない--と思う気持ちが選考委員にあって、それが円城の作品を「受賞」に引っぱり上げたのだと思うのだが、このときの「相互関係」が、私が先に書いた二人の「類似性」と関係しているように思えるのだ。
 田中と円城は二人でひとりなのだ。そのことばを貫いている「方法」はひとつであって、一方だけを選ぶと、何か半分足りない気持ちになるのだろう。
道化師の蝶
円城 塔
講談社
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ワン・ビン監督「無言歌」(★★★★)

2012-02-13 20:34:27 | 映画
 映画のチラシにワン・ビン監督の談話が書かれている。「『無言歌』はおそらく初めて、「反右派闘争」という現代中国の政治的過去と、右派とされた人々の収容所における苦難を真っ正面から語った映画です。苦しみ傷ついた人々に尊厳をふたたび取り戻すために。」--内容は、そのとおりのことがらから成り立っている。
 荒涼とした土地での「強制労働」が描かれる。ただ生き延びるために何をしていいかもわからない。この映画、ほんとうに終わるのだろうか、と心配になるくらい、過酷な日常が、日常そのものとしてくりかえし描かれる。
 その映画が、後半、その強制収容所に女が尋ねてくることで、激しく動く。感情が動きはじめる。
 女が探している男、夫は、死んでしまっている。そして、何人も何人も死んでいっているので、誰をどこに葬ったかわからない。荒野に土まんじゅうがいくつもいくつも広がっている。それでも女はあきらめない。ひとつずつ手で盛り土をかきわける。肉体(遺体)が出てくる。探している男ではない。次の土盛り、さらに次の土盛り……。
 見つからないから、あきらめろ、と収容所の男たちは言う。あきらめろといいながら、女に食事を出しもする。食事といっても中身のない水だらけの雑炊のようなものなのだけれど。--そして、それを食べることで、女は、さらに真剣になる。こんな条件で、男は生きてきた。生かされてきた。非人間的に扱われ、いまも、どこに眠っているかわからない。そんなことがあっていいはずがない。
 女はあきらめることができない、のではなく、あきらめてはいけないと決意したのである。この決意に、収容所の男が揺さぶられる。二人がいっしょに探しはじめる。このとき、荒涼とした風景が、急に不思議な光に満たされる。荒涼そのものにかわりはないのだが、綱領に負けないいのち、荒涼を跳ね返す何かが動きはじめる。女の肉体は、男たちの肉体と違って、明確な目的をもっている。その目的、意思が空気を変えてしまうのだろう。そして、ついに探しあてる。長い間いっしょに生き延びてきた仲間だから、少しでも土の下から体が出てくれば、探している男とわかる。女にとっても大事な人だから、どんなに変わり果てていても、夫とわかる。
 このあと、火葬にして、遺骨を抱いて女は上海へ帰っていくのだが、遺骨をかきあつめ、白い布につつみこむシーンがとてもいい。もう、ぜったいに離さない。そういう力が漲っている。悔しさがみなぎっている。
 このことがあったあと、収容所を脱走する男が出てくる。その男には師と仰ぐ人がいる。足が悪い。でも、いっしょに脱走しようとする。その途中、予想通り歩けなくなる。さて、どうするか。男は老いた師を背負って歩きはじめる。そうすると、すぐに歩けなくなる。
 師が言う。「弟子なら、師の言うことを聞け。私をおいて、おまえだけ逃げろ」
 弟子はそのことばに従って、師を置き去りにして歩きはじめる。けれど、戻ってきて自分のコートを師にかける。師はそれを拒む。
 このとき弟子が言う。「師なら、たまには弟子の言うことも聞くべきだ。私は若いから大丈夫。私のコートを着て、少しでも寒さを和らげてほしい」
 コートぐらいで防げる寒さではないだろう。結局、師は死んでしまうだろう。けれども、それを見捨てない。気づかう。その強いこころの交流--それは、女が残していったものである。
 脱走がわかった翌朝。そこでの詰問。誰も「知らない」としか言わない。言わないことが連帯であり、希望なのだ。
 つらい映画なのだが、そのつらさを打ち破るようにして、人間が動いてくる。それがすばらしい。

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