詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「記号」ほか

2012-02-09 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「記号」ほか(「歴程」578 、2012年02月01日発行)

 北川透「記号」は「夢遊譚 六片」のなかの一篇。夢なのだから、これ、何? わけがわからないじゃないか、という部分があるのがおもしろいと思うのだが、この「記号」だけは、わかるわけではないのだが、うーん、と考え込んでしまった。
 原文は行頭が書き出しから一字ずつ下がっている体裁なのだが、ここでは行頭をそろえて引用する。(原文は「歴程」で確認してください。)

橋は流れた
野原や田畑の上や学校の教室の中を
ビルの谷間や商店街の中を
橋は時と場所を構わず 無差別に流れた
橋はひどく傷つき 折れ曲がり
砕けて一本の錆びた釘となる 棒千切れ
コンクリートの破片となる
一筋の記号となる

 私が、うーん、と考え込んでしまったのは最後の一行である。「記号となる」。うーん、「記号」でいいのかな?
 「記号」とは何だろう。
 北川の他の詩集と連続させれば特別な「意味」が浮かび上がるかもしれないが--記号は私にとっては(私はいつでも、どんな作品でも「私にとっては」--つまり「誤読」の対象なのだが)、具体(肉体)の対極にあるものだ。
 簡単な例でいうと、たとえば999角形と1000角形がある。その具体的な形は、私は手では書けない。四角形、五角形なら書けるが。つまり999角形、1000角形というのは、私にとっては「具体」ではない。抽象である。頭で考えることはできるが、肉体では考えることができない。手で書けないのはもちろん、肉眼で識別することも、たぶんできない。でも、ことばでなら、999角形と1000角形ははっきり区別できる。このときの「ことば」が「記号」である。それは、私とにっては「具体」ではない。その存在が目の前にあったとしても「具体」ではない。つまり、頭で私の意識を動かしていかないかぎり、その999角形、1000角形は存在しない。
 それは、別なことばで言えば「意味」になるかもしれない。
 「もの(存在)」そのものは「意味」を持たない。「無意味」である。その「無意味」をことばで「意味」に仕立て上げる。それも「頭」をとおして。「もの-意味-頭」という関係が、そのとき成り立つ。人によっては「もの→頭→意味」かもしれない。どっちでもいい--わけではないけれど、ようするに、そこには頭が割り込んでくる。
 で。
 これでいいの?
 これは北川に対する私の質問である。
 「夢」は「記号」となって、「意味」をすくい上げるものなのか、という疑問が突然沸き上がってくる。
 もちろん、そうした詩はたくさんある。「夢」を解説するといえばいいのか、「夢解き」をするといえばいいのか、それとも「夢占い」と言ってしまえばいいのか。「夢」になんらかの「ストーリー」と、「ストーリー」へ向けて存在を統合する力を書いている詩はたくさんある。そのとき、たとえば「橋」は「記号」である。いろいろなものを整理する便利なものである。
 999角形と1000角形に戻って、もり「記号」っぽく定義し直すと、「X角形」と「(X+1)角形」の関係。「X」が小さな数字であるときは、それが「記号」であることになかなか気がつかない。しかし「X」が999などの大きな数字になると、それは「記号」であることがはっきりする。頭を働かせて把握するしかないものになる。
 うーん、と私がうなったのは、
 「それじゃあ、北川さん、いま書いた夢を頭で整理し直して把握すること、理解することを読者に求めているんですか?」
 と、問いかけたくなったということと、ほとんど同じである。
 あ、いやだな、と私は直感的に思う。これは、まあ、生理的反応である。

 逆の言い方をした方がいいのかな。

橋は流れた
野原や田畑の上や学校の教室の中を

 書き出しの2行。その2行目の「教室の中を」が私は好きである。「橋」の大きさが書いてないのでどんなふうにも考えられるけれど、私はひどく大きな橋を思い浮かべた。それが「野原や田畑の上を」流れるのは想像しやすい。けれど、それが「教室の中を」ながれるというのは、かなり変である。巨大な橋は教室の中を流れるということはありえない。--ありえないのだけれど、それが「見える」。野原や田畑の上を流れていく橋は、そこにぶつかるものがないのでおもしろくないが、教室のなかではどうしたって机や椅子や壁や黒板にぶつかる。教室を破壊してしまう。「流れる」は「流れる」ではなく、違うものになる。「流れる橋」は「被害者(?)」かもしれないが、「教室の中」では「加害者」になる。立場が逆転する。
 それが、私には、とてもおもしろいと思った。
 で、「逆転」するから(これを、私はふつうは「矛盾」ということばで書いているのだけれど、「矛盾」ということばをここでつかうと、面倒な書き方になるので、省略して「逆転」ということばをつかっておく。「逆」に「矛盾」の意識をこめて)。
 で、「逆転」するから、「ひどく傷つき 折れ曲がり」ということばが痛切になる。橋は流れながら傷つき折れ曲がるのだけれど、その傷や折れ曲がりは橋以外のものとの激突の証拠であり、それは橋が何物を破壊してきた証拠でもある。
 こういう「矛盾」を「記号」にしてしまっていいのだろうか。
 詩はむしろ「記号」を解体し「矛盾」に還元するところにあるのではないのか、と思ったのである。

 他の作品と比較して言いなおしてみよう。
 「家畜たち」という作品。

地面が空中に浮かんでいた
地面から吊り下がっている円柱状の魂たち
牛の生首 馬の両脚の蹄 犬の縫いぐるみ
猫の長くのびた霊たち 山羊や鶏の黒い影
地面が腹を抱えて ひくひく笑っているぞ
地面は腰を揺らしながら 浮遊し始めたぞ
更に引き千切られて散乱する 家畜たちは
何処まで墜ちて行くのだろう
地面から見放されて

 ここに「記号」を見出すとしたら、1行目「地面が空中に浮かんでいた」、つまり「浮かぶ地面」が「記号」というものになる。「浮かぶ地面」をみつめる(定義する)「私」の位置(存在の場)は、「浮かぶ地面」とは別の場にあるからだ。対象とは「距離」がある。その「距離」を操作しているのが「頭」であり、「距離」のなかで頭に都合がいいように整理される(合理化される)のが「記号」だからである。
 しかし、この作品では「地面が空中に浮かんでいた」を「記号化」する余裕はない。私はたまたま「記号」という作品から逆戻りしてきているから、「地面が空中に浮かんでいた」を「記号」と定義しているだけである。
 それに。ほら。

地面が腹を抱えて ひくひく笑っているぞ

 この変な一行が「記号」を破壊する。「腹を抱えて」「ひくひく」は常套句ではあるけれど、「肉体」そのものに働きかけてくる。「頭」ではなく「肉体」。地面と「私」の「肉体」が「腹を抱えて」「ひくひく」ということばのなかで一体化する。
 ここから北川は「地面」になって、「腰を揺らしながら 浮遊し始め」る。
 最終行は「地面から見放されて」となっているが、それは「傍観」ではない。「地面」になってしまった北川にとっては、それは「見放す」ということなのだ。「見放されて」と「見放す」が、不思議な形で同居している。反対のものがひとつのことばのなかに存在している。つまり、「記号」であることを拒否している。

 ぼんやりしたことしか書けないが、ここにある「矛盾」、何らかの「拒絶」が詩なのだ。
 「清潔な手」には、その「拒絶」が別の形で書かれている。

裸の丘が 幾つも転がっていた
  たいていは溺死していたが
なかにはまだ生きていて 薄目を開けている丘もいる
丘の生命を救いたいと
  天から幾本もの清潔な手が伸びて来たが
生きている丘も 溺死している丘も 身を縮めて拒んだ
  なかにはしつこい救援の手を 食い千切った
  瀕死の丘もいる

 「拒んだ」。それは「抽象」ではない。「救援の手を 食い千切った」というときの「肉体」。その、主張の強さ。
 私は覚えている。何か、気に食わないことがあったとき、姉や母の手にかみついて自己主張したことを。そのときの感覚がここにある。ほんとうは何かしてほしい。でも、いましてくれていることは、いや。--というような肉体の力。
 これは「記号」ではないね。




海の古文書
北川 透
思潮社
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