詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「改憲案」の先取り(拡大解釈)

2018-06-05 12:04:29 | 自民党憲法改正草案を読む
「改憲案」の先取り(拡大解釈)
             自民党憲法改正草案を読む/番外216(情報の読み方)

 森友文書の改竄を巡る財務省の処分は、甘すぎる。このことについては多くのひとが書いているだろうから、書かない。違う視点から書きたい。

 自民党の改憲案に「緊急事態対応」がある。
 ふたつの部分からなっている。「国会に関する4章の末尾に追加」と「内閣の事務を定める73条の次に追加」である。今回問題にしたいのは「国会に関する4章の末尾に追加」の部分である。
 現行憲法と「追加条項」をつづけて読んでみる。

(現行憲法)
第64条 国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2 弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(追加部分)
 64条の2
 大地震その他の異常かつ大規模な災害により、衆議院議員の総選挙又(また)は参議院議員の通常選挙の適正な実施が困難であると認めるときは、国会は、法律で定めるところにより、各議院の出席議員の三分の二以上の多数で、その任期の特例を定めることができる。

 これは、何度読んでも「つながり」が悪い。
 64条は「弾劾裁判」に関する条項だ。趣旨は、日本は「三権分立」制度を採用しているが、だからといって「裁判官」の「独断」を許しているわけではない。国会でコントロールできるようにしている。そのことを定めているのが64条である。
 このあとに、「大規模災害」のときには選挙を省略し、衆院、参院両議院の任期を延長できるというのは、どうもおかしい。
 ここにこの「条項」が追加されるは、「弾劾裁判所」をいつでも開けるようにするためである。国会議員の「任期」が切れていれば、当然、「国会」は開かれないし、「弾劾裁判」も開かれない。新しい議員が選ばれ、国会が開かれたあと、国会で「弾劾裁判」が開かれることになる。こういう「手順」を自民党は阻止したいのだ。
 たとえば「自衛隊は違憲である」「公文書は、一字一句改変してはならない」という判断を裁判官が下したとする。それは政府(安倍)にとって不都合である。「弾劾裁判を開いて、罷免させてしまえ」ということをしたいのだ。そういうことをするためには、「国会」はいつでも開かれていないといけない。
 「大地震その他の異常かつ大規模な災害により」と自民党の案は書いているが、詳細が明記されていない「その他」に、政府(安倍)の判断を「違憲」と指摘する裁判官の登場が含まれているのだ。それは「政権(安倍)」にとって「大規模な災害」になる。なぜなら、国民は「司法が安倍のやっていることは違憲(違法)だと判断した」と安倍批判を展開できるからだ。
 安倍はいつでも裁判官を罷免するための「手段」を握っていたいのだ。
 支配したいのは裁判官だけではない。検察も支配したい。そして、それは実際に着々と進んでいるのだろう。
 大阪地検はすでに支配されている。「佐川を訴追したら、左遷するぞ」とは明確に脅さないけれど、そういう「雰囲気」をつくりだす。「忖度」を促す。いまの「地位」にいたかったら、政権に都合のいい「判断」をしろ、というわけである。

 自民党改憲案は、「先取り実施」されている。そしてそれは「拡大先取り」という形で実施されている。

 現行憲法の「国会議員の任期」は次の条文に定められている。

第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。
第46条 参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに、議員の半数を改選する。

 この条文のなとではなく「弾劾裁判」について定められたあとに、「緊急事態条項」が追加されている「理由(狙い)」を考えてみる必要がある。

 
詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント 日本国憲法/自民党憲法改正案 全文掲載
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ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

2018-06-05 11:30:51 | 映画
ウェス・アンダーソン監督「犬ヶ島」(★★★★)

監督 ウェス・アンダーソン 出演 犬のぬいぐるみ、モノクロアニメ

 おもしろそう(予告編)、おもしろい(本編)。
 でも、どういえばいいのかなあ。

 最初から、最後まで「違和感」がある。「異質」を感じる。まあ、ストップアニメーションなのだから、「リアル」とは違う。その「違和感」か。しかし、「リアル」ではないからこそ、「本質」がわかるというか、刺激的という感じもあってねえ。「本物」じゃないから、想像力が「本物」をつくりだしていく、という感じなんだけれど。
 近未来なのに、レトロな昭和の風景。テレビなんか、液晶じゃなくてブラウン管だからね。ゴミの島が、色彩的にとても落ち着いているとか。
 で、ストーリーの後半で、私は、あっと驚いた。
 主役(?)の犬は、当然のことだから犬なので「兄弟」がいる。たいてい、犬は複数の子どもを産む。その「兄弟」が途中で「任務」を交替する。それまでガード犬だった方がノラに、ノラだった方がガード犬に。これは「交替」というよりも、「引き継ぎ」と読み替えればいいんだ。
 「引き継ぎ」をキーワードにして映画を見直すと、いろいろなものが見えてくる。
 ウェス・アンダーソンは「映画」から何を引き継ぎ、何を私たちに手渡そうとしているのか。
 随所に黒沢明の映画を思い出させるシーンがある。遠くのゴミの山の上に立っている犬とかね。音楽とか。さらには、「恋愛」シーンのぎこちなさというか、つつしみ深さというのは黒沢映画を見ている感じがするなあ。北斎の浮世絵の簡潔なのに激しいリズムがあるところとか。こういう「文化」そのものを「引き継いでいる」。「ものの見方」を「引き継ぎ」、それを「映画」として新しく生み出している。これが、この映画なんだね。ストーリーとは関係ない相撲なんかも、肉体が表現する「定型」の美しさの象徴なんだろうなあ。
 でも、どんなときでも「引き継ぎ」というのは、むずかしい。時代が違う。言い換えると「時代が要求するもの」が違う。何らかの「変化」をつけくわえないと、「引き継ぎ」は「破壊」になってしまう。バランスが求められる。それを、どうやって形にするか。ウェス・アンダーソンは「色彩」のなかで「統一」してしまう。「色彩」として、「新しい動き」を生み出している。どの映画でもそうだが、ウェス・アンダーソンの「色彩」は不思議な「統一感」がある。「色彩」の「統一」のなかに、「引き継ぎ」をのみこんでしまうといえばいいかなあ。一種の「力業」だ。

 まあ、こんなことは、どうでもいいんだけれど。
 でも、私がいちばん感動したのは、この「引き継ぎ/交替」に関係するシーンだから、やっぱり「どうでもいいこと」ではなく「重要」なことなのだろう。
 私がうれしいなあ、このシーンいいなあ、と思ったのはガード犬がノラになって、神社の縁の下で家族で暮らすシーン。人間のことなんか気にしていない。妻がいて、子どもがいて、それだけで満足。ノラといっても、神社なので(?)神主が食べ物をもってくる。子どもには小さい器。親には大きい器。小犬は自分たちの「境遇」なんて理解しない。運ばれてきたフードを無心に食べている。それを親は自然なこととして見つめている。「こういう暮らしはいいよなあ」と二人(二匹?)で、ことばも交わさずに感じている。
 これって、一種の「理想」だね。
 ここで「引き継がれているもの」は、家族がいっしょに生きている、という事実。ほかのことは気にしない。家族以外のだれかを「守る」なんて、がんばってすることではない。

 ひるがえって。
 この映画に描かれる「暴君」。「法律」で人間と犬を縛ろうとしている。「法律(政治)」が気になる。
 これは変なことなのだ。
 「法律」なんて何も知らなくも、「社会」が生きている人間を守る、というのが「理想」が実現された世界だろう。「法律」を知らないと他人に支配されてしまう、「法律」を知っている人間だけが「利益」を受ける、というのはおかしい。
 これって、いまの日本だね。
 文書を改竄する。訴追されるかもしれないから、なぜ改竄したのか、答えない。でも、その改竄が結論に影響しないから改竄ではない。法に問われない。それを知っている人間だけが「訴追されるかもしれないから答えない」と言って逃げ抜き、改竄を利用した人間も、「改竄は他人がしたこと」ということで法に問われない。
 「法」を知らずに、「でも、こんなことしちゃいけないよなあ」と思って生きている人間は、どんどん「下層」に追いやられる。支配されて生きていくしかない。
 困ったときに助けてくれるのが「法律」や「憲法」であるべきなのだ。
 映画にもどっても。
 犬が病気だから、犬を「ゴミの島」に追放するというのは「法律」としておかしい。犬が病気なら犬の病気を助けてくれるのが「法律」であるべきなのだ。実際に、そのために動いている人間も描かれている。
 こういう「人間の基本」も引き継いでいかないといけない。

 ちょっと映画そのものからは外れる感想になってしまった。

(2018年06月01日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン4)

 *

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5 (太陽が真上にくると)(嵯峨信之を読む)

2018-06-05 10:50:32 | 嵯峨信之/動詞
5 (太陽が真上にくると)

太陽が真上にくると
木の影が消えてしまう

 これは「真実」ではない。木には枝のひろがりがあるから、影は消えるのではなく小さくなる。
 しかし、この「消える」を「事実」だと錯覚する。
 太陽が傾いているときの影の大きさを知っているから、錯覚する。錯覚は、知っていることがあるからこそ起きる。
 だから、ここから静かな悲しみを感じてしまう。「消える」ということばが、悲しみを誘うのかもしれない。

話はそこですべて終わる

 二行を引き継いで、ことばは、こう動いている。「消える」から「終わる」へと動詞が変化する。
 光があふれる真昼なのに、冷たい悲しみがある。

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