17 N沼
沼に女性が投身自殺する。
「沼」は、このとき嵯峨のこころの象徴だろうか。嵯峨のこころは投身自殺を知って、「海鼠のように」「動いた」。ずーっと動くのではなく「ときどき」動いた。
「ときどき」は「副詞」だが、「動詞」として読み直すとどうなるだろうか。「動いた(動き)」は途切れるのか。それとも途切れるということを拒んで動き始めるのか。ことばにできない「交渉」がある。おそらく、このことばにならない「交渉」が「海鼠」という比喩を生み出している力だろう。「動く」ことによって、それが「海鼠」であると「わかる」。
「なぜその沼を見に行つたのであろう」は「なぜその沼は大きな海鼠のようにときどき動いたか」という問いを言いなおしたものだ。沼は、霧雨が白くもやつているなかに「海鼠のように」うずくまつていた。「動く」と「うずくまる」は違うことばだが、嵯峨にとっては「同じ動詞」である。「うずくまる」が「動く」こと。うずくまりながら「ときどき」動く。「ときどき」だから「動く」は「うずくまる」と言いなおされることもある。
「うずくまる」という「動き」しかできないときもある。
「動いた」ではなく「うずくまる」という「動詞」を「投身自殺」のなかに見たのだ。「自殺」は自ら動いて死へ向かうことだが、それは生へ向かっての動きをやめること、「うずくまる」ことであある。
「うずくまる」という動詞を見つけたとき、嵯峨には、投身自殺した女性のすべてが「わかった」のだろう。了解した。だから、「沼」は消えた。
沼に女性が投身自殺する。
白い木製の十字架を呑んだ沼は
沼自身も傷ついて
大きな海鼠のようにときどき動いた
「沼」は、このとき嵯峨のこころの象徴だろうか。嵯峨のこころは投身自殺を知って、「海鼠のように」「動いた」。ずーっと動くのではなく「ときどき」動いた。
「ときどき」は「副詞」だが、「動詞」として読み直すとどうなるだろうか。「動いた(動き)」は途切れるのか。それとも途切れるということを拒んで動き始めるのか。ことばにできない「交渉」がある。おそらく、このことばにならない「交渉」が「海鼠」という比喩を生み出している力だろう。「動く」ことによって、それが「海鼠」であると「わかる」。
ぼくはなぜその沼を見に行つたのであろう
霧雨が白くもやつているなかにうずくまつていた沼は
一夜
忽然と消えてしまつた
「なぜその沼を見に行つたのであろう」は「なぜその沼は大きな海鼠のようにときどき動いたか」という問いを言いなおしたものだ。沼は、霧雨が白くもやつているなかに「海鼠のように」うずくまつていた。「動く」と「うずくまる」は違うことばだが、嵯峨にとっては「同じ動詞」である。「うずくまる」が「動く」こと。うずくまりながら「ときどき」動く。「ときどき」だから「動く」は「うずくまる」と言いなおされることもある。
「うずくまる」という「動き」しかできないときもある。
「動いた」ではなく「うずくまる」という「動詞」を「投身自殺」のなかに見たのだ。「自殺」は自ら動いて死へ向かうことだが、それは生へ向かっての動きをやめること、「うずくまる」ことであある。
「うずくまる」という動詞を見つけたとき、嵯峨には、投身自殺した女性のすべてが「わかった」のだろう。了解した。だから、「沼」は消えた。