詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

10 (誰がそこへ辿りついたろう)(嵯峨信之を読む)

2018-06-10 10:56:46 | 嵯峨信之/動詞
10 (誰がそこへ辿りついたろう)(嵯峨信之を読む)

誰がそこへ辿りついたろう
未来の消えた乾らびた土地
だがそこをひとりの逞しい盲者がゆつくり歩いていつた

 「辿りつく」という動詞は、「つく」に重きが置かれていない。」盲者がゆつくり歩いていつた」とあるから、「盲人」はそこを過ぎていった。「つく」ことを目的としていなかった。「ついた」ということに気がつかなかった、とも読むことができる。
 「辿る」は「探り求める」と読むことができる。この「探る」を引き継いで「盲者」が動いている。「手探り」で「ゆつくり歩く」。確かめながら歩く。
 「未来の消えた」の「消える」は「明かりが消える/光が消える」を連想させる。「未来」は「時間」というよりも「比喩」として動いている。そして、隠されてる「明かり/光の消えた」状態は「盲人」と結びつき、「意味」を強める。
 「そこ」は現実の「土地」ではなく、「意味」としての土地である。
 「辿りつく」の主語は「誰」であり、「(探り求めながら)歩いていつた」の主語は「盲者」だが、「誰」も「盲者」も人物であるというよりも、「辿る」を動かす力である。
 これを「辿る」という動詞から、もう一度読み直すとき、私のなかで、「意味を辿る」「意味を求める」とということばが動く。「意味」は「目的語(目的地/到達点)」のようにも見えるが、「意味」そのものが自分自身を手探りしているということも考えられる。「意味」が主語になって、何かを「探り求める」。
 これでは何が何だかわからないことになるが、こういう状態を「盲者」という「比喩」に託しているのだ。
 この「盲者」に「逞しい」という形容詞がついていることに注目しないといけない。「逞しい」には嵯峨の「理想(願い)」がこめられている。
 何もわからず「手探り状態」というのは、不安であるが、それが「弱い」ものであっては困る。「逞しい」ものであってほしい。「探り求める力」は「強い」ものであってほしい。

その地方のそれが唯一の人間通過の記録である

 「記録」は「消えない力」のことである。
 何かを「探り求めれる」とき、その痕跡は、「記録」となって残る。「ことば」として残る、と読んでみたい。

コメント
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