鄭義信監督「焼肉ドラゴン」(★★★)
監督 鄭義信 出演 真木よう子、井上真央、キム・サンホ
私は芝居は見ていないのだが。
うーん、これは「芝居」そのものであって、映画になりきれていない。
「芝居」というのは「劇場」(舞台)で役者の肉体がまじりあい、化学反応のようなものを起こす。そこに観客がのみこまれていく。この瞬間が、とても昂奮する。言っていることもやっていることもわからない(でたらめ)なのに、「その場(現場)」に居合わせているために、すべてを納得してしまう。そういうことが起きる。
でも、映画は違う。映画はカメラが「役者集団」を「役者」ひとりひとりに切り離してしまう。「芝居」では存在しないアップによって、「ひとりの肉体」を拡大し、そこに観客を引き込んでゆくものである。「集団」のアンサンブルがあっても、それは「芝居」のときとは違うリズムで構成される。やっている役者には責任がない。たぶんカメラ、それから編集が問題なのだと思うが、どうも役者と役者の間で動いている「空気」がスクリーンに定着しない。
唯一、根岸季衣と桜庭ななみが掴み合いのけんかをするシーンが「空気」というか、役者と役者の間に動いているものを再現していたが、これは根岸季衣が「ことば」をつかわずに「肉体」だけで演技していたからだなあ。
言い換えると。
他のシーンでは、役者が「ことば」をしゃべるたびに、「空気」がその役者に集中してしまって、他の役者から「分離」してしまう。そばに他の役者がいるはずなのに、「空気」がひとりに集中してしまって、他の役者の存在感が消えてしまう。
真木よう子は一生懸命、他の役者の存在感を漂わせようとしているが、他の役者はカメラが自分をとらえているということを意識しすぎているというか、ここは自分が演技を見せる番だと気負いすぎているというか。どうも、「広がり」が欠ける。
舞台だと必然的に見えてくるものが、映画になった瞬間に、見えなくなる。
「芝居」がどんな具合に上演されたのか知らないが、飛び交う韓国語の「意味」はわからなくても、役者の「肉体」が「意味」ではなく感情を伝える。そこに生身の「肉体」が動いているということが、芝居ではとても強烈である。「肉体」は「共感」を必然的に引き出すものだ。
映画では、「肉体」が「全身」であるということは少なく、カメラが切り取った「肉体」になってしまう。そこでは「共感」はうまくいけば非常に強くなるが、切り取り方がずれるとまったく重ならない。「ことば」は全身とともに生きているのに「切り取られた肉体」では広がりがない。どうしても「意味」が必要になる。「字幕」が必要なのは、そのためだ。
これはこれで仕方がないことなのかもしれないが、どうもおもしろくない。「猥雑感」がでない。
先日見た「女と男の観覧車」も「芝居」がかった映画である。特に、ラスト寸前のケイト・ウィンスレットをとらえた長回しのシーンは「芝居」そのものだが、あれはケイト・ウィンスレットの演技が、映画の中に「芝居」そのものを持ち込んだものだ。ケイト・ウィンスレットは「現実」ではなく「芝居」を生きている。それが「現実(映画)」を「舞台」に変えてしまう。そういう「必然」としての「芝居」が生きている。
見る順序が逆だったら違った感想になったかもしれないが、感動は少なかった。
現代のテーマを抱えていて、とても重要な作品だとは思う。安倍に見せてやりたい映画とも言える。でも、そういうことを語ると「意味」になってしまう。
「芝居」では「意味」を超えて溢れ出ていただろうものが、「映画」では完全に消えて、「意味」が前面に出てしまったということだと思う。
(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 鄭義信 出演 真木よう子、井上真央、キム・サンホ
私は芝居は見ていないのだが。
うーん、これは「芝居」そのものであって、映画になりきれていない。
「芝居」というのは「劇場」(舞台)で役者の肉体がまじりあい、化学反応のようなものを起こす。そこに観客がのみこまれていく。この瞬間が、とても昂奮する。言っていることもやっていることもわからない(でたらめ)なのに、「その場(現場)」に居合わせているために、すべてを納得してしまう。そういうことが起きる。
でも、映画は違う。映画はカメラが「役者集団」を「役者」ひとりひとりに切り離してしまう。「芝居」では存在しないアップによって、「ひとりの肉体」を拡大し、そこに観客を引き込んでゆくものである。「集団」のアンサンブルがあっても、それは「芝居」のときとは違うリズムで構成される。やっている役者には責任がない。たぶんカメラ、それから編集が問題なのだと思うが、どうも役者と役者の間で動いている「空気」がスクリーンに定着しない。
唯一、根岸季衣と桜庭ななみが掴み合いのけんかをするシーンが「空気」というか、役者と役者の間に動いているものを再現していたが、これは根岸季衣が「ことば」をつかわずに「肉体」だけで演技していたからだなあ。
言い換えると。
他のシーンでは、役者が「ことば」をしゃべるたびに、「空気」がその役者に集中してしまって、他の役者から「分離」してしまう。そばに他の役者がいるはずなのに、「空気」がひとりに集中してしまって、他の役者の存在感が消えてしまう。
真木よう子は一生懸命、他の役者の存在感を漂わせようとしているが、他の役者はカメラが自分をとらえているということを意識しすぎているというか、ここは自分が演技を見せる番だと気負いすぎているというか。どうも、「広がり」が欠ける。
舞台だと必然的に見えてくるものが、映画になった瞬間に、見えなくなる。
「芝居」がどんな具合に上演されたのか知らないが、飛び交う韓国語の「意味」はわからなくても、役者の「肉体」が「意味」ではなく感情を伝える。そこに生身の「肉体」が動いているということが、芝居ではとても強烈である。「肉体」は「共感」を必然的に引き出すものだ。
映画では、「肉体」が「全身」であるということは少なく、カメラが切り取った「肉体」になってしまう。そこでは「共感」はうまくいけば非常に強くなるが、切り取り方がずれるとまったく重ならない。「ことば」は全身とともに生きているのに「切り取られた肉体」では広がりがない。どうしても「意味」が必要になる。「字幕」が必要なのは、そのためだ。
これはこれで仕方がないことなのかもしれないが、どうもおもしろくない。「猥雑感」がでない。
先日見た「女と男の観覧車」も「芝居」がかった映画である。特に、ラスト寸前のケイト・ウィンスレットをとらえた長回しのシーンは「芝居」そのものだが、あれはケイト・ウィンスレットの演技が、映画の中に「芝居」そのものを持ち込んだものだ。ケイト・ウィンスレットは「現実」ではなく「芝居」を生きている。それが「現実(映画)」を「舞台」に変えてしまう。そういう「必然」としての「芝居」が生きている。
見る順序が逆だったら違った感想になったかもしれないが、感動は少なかった。
現代のテーマを抱えていて、とても重要な作品だとは思う。安倍に見せてやりたい映画とも言える。でも、そういうことを語ると「意味」になってしまう。
「芝居」では「意味」を超えて溢れ出ていただろうものが、「映画」では完全に消えて、「意味」が前面に出てしまったということだと思う。
(2018年06月27日、ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン2)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
そして父になる DVDスタンダード・エディション | |
クリエーター情報なし | |
アミューズソフトエンタテインメント |