7 (時が雪に消されて)(嵯峨信之を読む)
これは
道が雪に消されて
ぼくは迷う
と言いなおした方が、「論理的」である。雪が降り積もると、「道」と道以外の区別がなくなる。そこが「平原」のような人の気配のないところなら、特に迷ってしまう。
だが嵯峨は「道」と書かずに「時」と書いている。
「道」は「方向」を表わしている。「方向」がわからなくなることを、「迷う」という。「時」における「方向」とは、「未来」と「過去」である。「時」のなかで「迷う」とは、どちらが「未来」かわからなくなるといこと。あるいは、この「方向」で「未来」が切り開けるかどうか、わからなくなること。
この「時間」と「道」との関係は、「道」を「言う」(ことば)として、とらえなおすこともできる。「何かを言う(ことばにする)」とは、精神に「方向性」を与えることである。ことばにすることで、精神の動きがわかる。動いていく先が決定する。
だから、この詩の二連目に「言葉」が出てくる。
「記憶の中」とは「過去」である。「過去」の「言葉」をたずねて、そこから「方向性」を探しなおす。それが「未来」へ突き進むことにつながる。
嵯峨は、そういうことを考えている。
時が雪に消されて
ぼくは道に迷う
これは
道が雪に消されて
ぼくは迷う
と言いなおした方が、「論理的」である。雪が降り積もると、「道」と道以外の区別がなくなる。そこが「平原」のような人の気配のないところなら、特に迷ってしまう。
だが嵯峨は「道」と書かずに「時」と書いている。
「道」は「方向」を表わしている。「方向」がわからなくなることを、「迷う」という。「時」における「方向」とは、「未来」と「過去」である。「時」のなかで「迷う」とは、どちらが「未来」かわからなくなるといこと。あるいは、この「方向」で「未来」が切り開けるかどうか、わからなくなること。
この「時間」と「道」との関係は、「道」を「言う」(ことば)として、とらえなおすこともできる。「何かを言う(ことばにする)」とは、精神に「方向性」を与えることである。ことばにすることで、精神の動きがわかる。動いていく先が決定する。
だから、この詩の二連目に「言葉」が出てくる。
ぼくが生きのびるには
記憶の中の言葉を追うことしかない
「記憶の中」とは「過去」である。「過去」の「言葉」をたずねて、そこから「方向性」を探しなおす。それが「未来」へ突き進むことにつながる。
嵯峨は、そういうことを考えている。