11 水子(嵯峨信之を読む)
「たたいて」「追いだす」。暴力的である。激しさがある。それは「瞬間」という時間に属する。
対極に「たれながす」がある。単に「流す」のではなく「たれ、ながす」。「たれる」に「否定」の意味がこめられている。「たたく」「追い出す」が瞬間的なのに対し、「たれる」には持続的感じがする。それも意識的な持続ではなく、無意識の、ただつながっている感じ。できるなら「たらしたくない」
この「無意識」の「たれる」という「だらしなさ」が「いつか」という不特定の時間、「持ち主のない」という不特定とつながっている。
二行目の「未知」は、この「否定すべき不特定」のことである。そして、それは「未知」というよりも「既知」の方がぴったりくるかもしれない。それが「たれる」性質のものであることを知っている。
知っているからこそ、叩き出し、追い出すのである。
そういうものは、いらない。
「シラブル」は「言葉」と言いなおされている。「ことば」は「水」のように汚れやいいものなのだろう。
二連目は「たれる」を言いなおしたものだ。
「たれる」は「始めも終わりもない」ということばのなかに引き継がれている。「水子」の定義はむずかしいが、ここでは「未完成」(不完全)というニュアンスだろう。ことばには「不完全」なものがある。
そういうものを、嵯峨は自分のなかから「叩き出す」。完全なことばが生まれてくるのを邪魔するからだ。
水面を櫂でたたいた
未知のシラブルを追いだした
いつか時がたれながした持ち主のない言葉たちを
「たたいて」「追いだす」。暴力的である。激しさがある。それは「瞬間」という時間に属する。
対極に「たれながす」がある。単に「流す」のではなく「たれ、ながす」。「たれる」に「否定」の意味がこめられている。「たたく」「追い出す」が瞬間的なのに対し、「たれる」には持続的感じがする。それも意識的な持続ではなく、無意識の、ただつながっている感じ。できるなら「たらしたくない」
この「無意識」の「たれる」という「だらしなさ」が「いつか」という不特定の時間、「持ち主のない」という不特定とつながっている。
二行目の「未知」は、この「否定すべき不特定」のことである。そして、それは「未知」というよりも「既知」の方がぴったりくるかもしれない。それが「たれる」性質のものであることを知っている。
知っているからこそ、叩き出し、追い出すのである。
そういうものは、いらない。
「シラブル」は「言葉」と言いなおされている。「ことば」は「水」のように汚れやいいものなのだろう。
二連目は「たれる」を言いなおしたものだ。
言葉はぞくぞくと出てくる
眼も鼻も口もない水子たちの小さな祭りがはじまつた
始めも終わりもない賑やかでさびしい祭りが……
「たれる」は「始めも終わりもない」ということばのなかに引き継がれている。「水子」の定義はむずかしいが、ここでは「未完成」(不完全)というニュアンスだろう。ことばには「不完全」なものがある。
そういうものを、嵯峨は自分のなかから「叩き出す」。完全なことばが生まれてくるのを邪魔するからだ。