詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

11 水子(嵯峨信之を読む)

2018-06-11 10:57:20 | 嵯峨信之/動詞
11 水子(嵯峨信之を読む)

水面を櫂でたたいた
未知のシラブルを追いだした
いつか時がたれながした持ち主のない言葉たちを

 「たたいて」「追いだす」。暴力的である。激しさがある。それは「瞬間」という時間に属する。
 対極に「たれながす」がある。単に「流す」のではなく「たれ、ながす」。「たれる」に「否定」の意味がこめられている。「たたく」「追い出す」が瞬間的なのに対し、「たれる」には持続的感じがする。それも意識的な持続ではなく、無意識の、ただつながっている感じ。できるなら「たらしたくない」
 この「無意識」の「たれる」という「だらしなさ」が「いつか」という不特定の時間、「持ち主のない」という不特定とつながっている。

 二行目の「未知」は、この「否定すべき不特定」のことである。そして、それは「未知」というよりも「既知」の方がぴったりくるかもしれない。それが「たれる」性質のものであることを知っている。
 知っているからこそ、叩き出し、追い出すのである。
 そういうものは、いらない。
 「シラブル」は「言葉」と言いなおされている。「ことば」は「水」のように汚れやいいものなのだろう。

 二連目は「たれる」を言いなおしたものだ。

言葉はぞくぞくと出てくる
眼も鼻も口もない水子たちの小さな祭りがはじまつた
始めも終わりもない賑やかでさびしい祭りが……

 「たれる」は「始めも終わりもない」ということばのなかに引き継がれている。「水子」の定義はむずかしいが、ここでは「未完成」(不完全)というニュアンスだろう。ことばには「不完全」なものがある。
 そういうものを、嵯峨は自分のなかから「叩き出す」。完全なことばが生まれてくるのを邪魔するからだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする