詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」

2019-09-22 14:05:27 | 詩(雑誌・同人誌)
添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」(「Nemesis 」創刊号、2019年09月01日発行)

 添田馨「〈偽=文化〉国体論(元号論)」には「安久」と「令和」のあいだ」という副題がついている。「元号」をめぐる騒動(?)分析している。
 ハイライトは、27ページの次の一段落か。

 〈文化/culture 〉に対して〈偽=文化/false culture 〉と私が言うとき、前者を後者に媒介するものは一般的に政治的な権力意志に他ならない。分かりやすくいうなら、〈偽=文化〉とは権力意志が〈文化〉を大衆統治の手段として政治利用する際に、人々の目に可視化されるに至った一見〈文化〉のようではあるが実はまったく似て非なる(false )得たいの知れない何らかの記号、あるいはその表象群の全般を指す。従って、あの「元号は、政令で定める」との元号法の第一項条文は、いかにそれがシンプルかつドライに見えようとも、いまや元号が法的権威をバックにもつ権力的な時間記号であることを、みずからドラスティックに宣言してしまっているのだ。

 こういう面倒くさい言い方は、私は苦手で、正確に理解できない。だから「誤解」を交えて言いなおすと、添田は、安倍は「元号騒動」を利用して「偽文化」をつくりあげた。それは同時に「偽文化」を利用して国民を支配する方法を手に入れた。実現した、ということになるだろう。
 で、そのとき「偽文化」を受け入れ、それによって支配される国民とはどういうものななのか。
 26ページに、こういう文章がある。

かつて〈国体〉として観念されたはずの共同幻想が、現在ではこうした“ろくでもない興味の集合体”に取って代わられたことを意味している。

 ここでは〈文化〉はまず「共同幻想」と呼ばれ、さらに「国体」言いなおされている。そのうえで〈偽=文化〉は「ろくでもない興味の集合体」と言いなおされていることになると思う。このとき、「国民」は「ろくでもない興味の集合体である偽=文化」を支える「ろくでもない集団」ということになるかもしれない。

 なるほどね。

 私は、ここで一呼吸置く。
 添田の書いていることは、「理解できる」。もちろんこのときの「理解できる」というのは、私なりに「誤読できる」ということなのだが。そして「誤読」しておいて、こういうことを言うのは変なのかもしれないが。私は添田の書いていることは「理解はできる」が「納得はできない」。
 「国民がろくでもない」以上に、「国会」が、だらしない。
 以前、ブログで書いたことだが、「元号法」を今回の「改元」に適用するところからして、だらしない。安倍にふりまわされているのが、だらしない。
 「元号法」は天皇が急死したとき(いつ死ぬかわからないとき)のためのものだろう。今回のように、天皇がいつ退位するか(退位させられるか)わかっているときに、昭和から平成に切り替わるときと同じ方法をとる必要があるのか、というところから考え始めないといけないだろう。そういう「時間的余裕」はたっぷりあった。それなのに、国会はそれを放置した。政治の動きはよくわからないが、共産党でさえ、元号を内閣(安倍)がかってに決めるのはおかしいとは言っていないと思う。「元号法」があるというかもしれないが、天皇の生前(強制)退位ということが「異常」なのだから、「異常事態」に「元号法」を適用するのではなく、別の形で、つまり国民に開かれた議論を通して元号を決定するという方法がとられてもいいはずである。しかし、誰も、そういうことを主張していない。もし国会で、今回の改元は天皇の死によって突然起きることではなく、予定を立てておこなわれるのだから(国会の承認を得て退位/即位の日も決まるのだから)、改元も国会の議論を経て決めよう、ということになれば、一連の「ろくでもない」あれこれは起きなかっただろう。つまり、安倍にふりまわされるということがなかっただろう。
 安倍は、国会で元号について議論すべきかどうかということが問題になる前に、マスコミを利用して様々な「元号案」をリークさせ、あたかも「元号議論」が社会でおこなわれたかのように装ったのだ。ほんとうなら国会で、国民の代表である国会議員が「元号案」を持ち寄り、議論すべきだったのにそれをさせないために、「憶測(推測)ゲーム」を安倍は展開したのだ。いや、展開させたのだ。「安倍」の文字が含まれるかどうか。「安倍」の文字を入れるなら、それは権力の濫用だ、というような意見さえ招き入れ、あたかも「議論」しているかのような「雰囲気」をつくりあげたのだ。その雰囲気に、野党の国会議員ものみこまれてしまった。
 私は「共同幻想」(吉本隆明)を読んでいないので、テキトウなことを書くのだが、議論・討論の場である国会、その担い手である国会議員さえも、簡単に「共同幻想」にのみこまれてしまうほど、この国の「共同幻想」は根強いということかもしれない。「元号」とはなんなのか。なぜ内閣が勝手に決めてしまうのか。「国民主権」はどこへいったのか。民主主義の時代に、元号の選択を安倍ひとりにまかせていいのか、という議論も起きないほど「元号」というものの「威力(幻想)」は強いのか。
 私は「元号」と「西暦」をきちんと結びつけられるのは自分の生まれた年だけだ。ほかは西暦何年が、元号では何年になるのかわからない。いまは、さすがに「2019年は令和元年」と言えるが、「平成元年」が西暦何年かわからない。「平成元年」が「昭和何年」なのかもわからない。数年もすれば「令和元年」が西暦何年かもわからなくなるだろう。そういう私から見て、今回の「騒動」でいちばんわからないのは、なぜ国会で「元号を何にするか」という議論が起きなかったのか、ということ。とても奇妙だ。私は「令和」を自分からつかうことはないのだが、つかわないからこそそれをつかっている人の思っていることが気にかかる。「元号」って、そんなに大事? ないと、困るときって何?
 また、添田が、そのことを問題にすることもなく、「騒動」を巧みに分析しているのも、よくわからない。何のために、この分析をしたのか。書かれていることは、私なりに「理解」できる。でも、「納得」できない。




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