トルーマン・カポーティ『トルーマン・カポーティ初期短篇集』(小川高義訳)(新潮社、2019年2019年02月25日発行)
もう50年近く前になるが、私はカポーティに夢中だった。だが、いまは私の本棚にはない。引っ越しのとき処分してしまった。偶然、書店でカポーティの名前を見つけて、思わず買ってしまった。
カポーティのどこに夢中になったのか。読みふけったはずなのに、カポーティの文章を思い出せない。いま、この短編集を読んで気に入る部分を、昔読んだとしたら気に入ったか、よくわからない。でも、どこか共通するものがあるだろう。
たとえば「水車場の店」の書き出し。
女の描写。外(子供)の描写。空と大地の描写。女の描写。川の描写。女の気持ち。女の空想。--女と外の描写が交互に繰り返され、それが「一つ」の世界に溶け合っていく。こういう「手法」に私は惹かれたのだと思う。
「地上には南部の太陽が照りつけていた」という非情な描写と、「水は明るい小石の川底を走り抜けて、気持ち良く冷たそうだ」という繊細な描写が同居しているのも楽しい。特に、後者の文章の「走り抜けて」という動詞が、まるで女が走り抜けるような(女が水になってしまうような)肉体感覚を引き起し、それがそのまま「冷たさ」につながるときの清らかな美しさがとてもいい。
相いれないものがあるのに、それは相いれないものを「補色」にして、より鮮やかになる感じがする。
そしてそれは、「感じ」というよりも、「ことば」なのだ。「感じ」が「ことば」になって、そこに動いている。
ストーリーというよりも、私は、「ことば」がストーリーの中から立ち上がって輝いていると感じ、それに魅了されていたのだと思う。
女の子の目を見ながら男を思い出す部分も好きだ。
やはり描写が、一続きではなく、切断されながらつづいていく。その切断と連続の緊張感が好きだ。リズムが好きだ。そして、そういうことばの動きの奥には、「青いガラスを吹いて玉にしたような」の「ガラスを吹く」というような肉体の動きがある。肉体がぐいっとことばを押し出してくる。
また、突然、こんなことも思い出した。
私は昔「詩学」という雑誌に投稿していた。飯島耕一らが選者の時代はぜんぜん入選しない。入選したと思ったら、飯島に「谷内の詩は、トンボが飛んでいる詩だ」というように批判された。私は田舎に住んでいて、トンボは飛んでいるだけではなく、家の中にまで入ってくる状況だったので、うーん、どう書けばいいんだろうと思ってしまった。しかし、途中から選者が、藤富保男らに変わった。嵯峨信之(編集者)以外は「英文学者」だった。その選者を見た瞬間、「あ、私の詩は入選するかもしれない」と感じた。そして実際に入選がつづいた。私のことばは、どこか「英文学」と「好み」が共通しているみたいなのだ。(北日本新聞に投稿していた時代の選者は高島順吾という英語の教師だった。)
福岡に来てから、唯一親しく交流できた詩人に柴田基典がいるが、彼もまた「英文学」に通じていた。
フランス文学やドイツ文学とは「相性」があわない。リズムがあわない。当時私の知っていた外国語が英語だけだったからかもしれないが、そういうことも感じた。ことばの動かし方には、英語流、フランス流、ドイツ流というようなものがあるのかもしれない。そして、それは日本語にも影響しているかもしれない。
奇妙な言い方にあるかもしれないが。
当時の詩の仲間である池井昌樹には「英語(外国語、と言った方がいいかも)」の影響を感じることはまったくない。リズムが、どっぷり「日本語」そのものである。秋亜綺羅は池井とは逆に「日本語」には縁がない。日本語で書いているが、池井の書いている日本語とはまったく別のものである。どちらかといえば「英語」だろう。日原正彦は、いくぶん池井に似ていて「日本語」なのだが妙に「エッジ」がない。テキトウな感じで言えば「フランス語」。本庄ひろしは日原とはまた違った「論理的フランス語」という感じがした。
私は英語をぜんぜん読まないのだが、好きな作家はジョイス、詩人はエリオット。さらに西脇も好き。共通項は「英語」だ。ベケットも好きだ。ベケットはフランス語でも書いているが、英語でも書いている。ジョイスト同郷だからね。
などと思いながら、もう一度カポーティを読み返してみたい気持ちにもなった。どこかから「全集」か「選集」が出ないかなあ。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
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もう50年近く前になるが、私はカポーティに夢中だった。だが、いまは私の本棚にはない。引っ越しのとき処分してしまった。偶然、書店でカポーティの名前を見つけて、思わず買ってしまった。
カポーティのどこに夢中になったのか。読みふけったはずなのに、カポーティの文章を思い出せない。いま、この短編集を読んで気に入る部分を、昔読んだとしたら気に入ったか、よくわからない。でも、どこか共通するものがあるだろう。
たとえば「水車場の店」の書き出し。
その女は水車場の売店にいて、裏窓から外を見ていた。明るい川水に分け入って楽しげに遊ぶ子供らに、じっと目を凝らしている。空に雲一つなく、地上には南部の太陽が照りつけていた。女は赤いハンカチで額の汗をぬぐった。水は明るい小石の川底を走り抜けて、気持ち良く冷たそうだ。ああいうピクニックの連中がいなかったら、と女は思った。あっちへ出ていって、自分が川水にしゃがみ込み、一人で涼んでいられるのに--。ふう!
女の描写。外(子供)の描写。空と大地の描写。女の描写。川の描写。女の気持ち。女の空想。--女と外の描写が交互に繰り返され、それが「一つ」の世界に溶け合っていく。こういう「手法」に私は惹かれたのだと思う。
「地上には南部の太陽が照りつけていた」という非情な描写と、「水は明るい小石の川底を走り抜けて、気持ち良く冷たそうだ」という繊細な描写が同居しているのも楽しい。特に、後者の文章の「走り抜けて」という動詞が、まるで女が走り抜けるような(女が水になってしまうような)肉体感覚を引き起し、それがそのまま「冷たさ」につながるときの清らかな美しさがとてもいい。
相いれないものがあるのに、それは相いれないものを「補色」にして、より鮮やかになる感じがする。
そしてそれは、「感じ」というよりも、「ことば」なのだ。「感じ」が「ことば」になって、そこに動いている。
ストーリーというよりも、私は、「ことば」がストーリーの中から立ち上がって輝いていると感じ、それに魅了されていたのだと思う。
女の子の目を見ながら男を思い出す部分も好きだ。
青いガラスを吹いて玉にしたような、明るい目をしていた。薄い空色。髪の毛はウエーブしながら肩まで届きそうだ。はちみつ色の、いい髪だった。肌の色は、脚も、顔も、腕も、濃い茶色である。濃すぎるかもしれない。さんざん日なたに出ていたのだ、と女は思った。
やはり描写が、一続きではなく、切断されながらつづいていく。その切断と連続の緊張感が好きだ。リズムが好きだ。そして、そういうことばの動きの奥には、「青いガラスを吹いて玉にしたような」の「ガラスを吹く」というような肉体の動きがある。肉体がぐいっとことばを押し出してくる。
また、突然、こんなことも思い出した。
私は昔「詩学」という雑誌に投稿していた。飯島耕一らが選者の時代はぜんぜん入選しない。入選したと思ったら、飯島に「谷内の詩は、トンボが飛んでいる詩だ」というように批判された。私は田舎に住んでいて、トンボは飛んでいるだけではなく、家の中にまで入ってくる状況だったので、うーん、どう書けばいいんだろうと思ってしまった。しかし、途中から選者が、藤富保男らに変わった。嵯峨信之(編集者)以外は「英文学者」だった。その選者を見た瞬間、「あ、私の詩は入選するかもしれない」と感じた。そして実際に入選がつづいた。私のことばは、どこか「英文学」と「好み」が共通しているみたいなのだ。(北日本新聞に投稿していた時代の選者は高島順吾という英語の教師だった。)
福岡に来てから、唯一親しく交流できた詩人に柴田基典がいるが、彼もまた「英文学」に通じていた。
フランス文学やドイツ文学とは「相性」があわない。リズムがあわない。当時私の知っていた外国語が英語だけだったからかもしれないが、そういうことも感じた。ことばの動かし方には、英語流、フランス流、ドイツ流というようなものがあるのかもしれない。そして、それは日本語にも影響しているかもしれない。
奇妙な言い方にあるかもしれないが。
当時の詩の仲間である池井昌樹には「英語(外国語、と言った方がいいかも)」の影響を感じることはまったくない。リズムが、どっぷり「日本語」そのものである。秋亜綺羅は池井とは逆に「日本語」には縁がない。日本語で書いているが、池井の書いている日本語とはまったく別のものである。どちらかといえば「英語」だろう。日原正彦は、いくぶん池井に似ていて「日本語」なのだが妙に「エッジ」がない。テキトウな感じで言えば「フランス語」。本庄ひろしは日原とはまた違った「論理的フランス語」という感じがした。
私は英語をぜんぜん読まないのだが、好きな作家はジョイス、詩人はエリオット。さらに西脇も好き。共通項は「英語」だ。ベケットも好きだ。ベケットはフランス語でも書いているが、英語でも書いている。ジョイスト同郷だからね。
などと思いながら、もう一度カポーティを読み返してみたい気持ちにもなった。どこかから「全集」か「選集」が出ないかなあ。
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評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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