詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』

2019-09-18 20:11:24 | 詩集
ニューヨーク・ディグ・ダグ
長田 典子
思潮社


長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』(思潮社、2019年09月10日発行)

 長田典子『ニューヨーク・ディグ・ダグ』は、ニューヨークで自分を見つめなおした詩集。「ズーム・アウト、ズーム・イン、そしてチェリー味のコカ・コーラ」にはニューヨークから見た「3・11(東日本大震災)」と、そのときに思い出した「9・11(ツインタワービルへのテロ)」が重ね合わせられるように書かれている。

リアリティ、ってなんなんだ!

 ということばが繰り返される。自分の想像力を超えるものを見たとき、それをリアルに受け止めるというのはむずかしい。私たちはすべてを自分の知っている範囲内でしか理解できないのだろう。実際に「体験」すれば、「リアリティ、ってなんなんだ!」と言っている暇はない。ことばで疑問をととのえ、答えを探すということはできない。遠く離れているからこそ「リアリティ、ってなんなんだ!」と思ってしまう。
 これはこれで長田の体験したことを正直に書いているのだと思うし、そこに人間の真実が描かれていると思うのだが、私は感動はしなかった。書きたいことが多すぎて、その「多さ」をことばが追いかけることで精一杯な感じがする。立ち止まる感じがない。立ち止まる、というのは、読者を(私を)立ち止まらせるということでもある。私は、どの行にも立ち止まることはなかった。
 逆に言えば、それこそ、「リアリティ」を感じなかったということである。もちろんこれは、長田が「現実」を書いていないという意味ではない。「現実」を書いているのだが、「リアリティ」に到達していない、ということ。「リアリティ」をことばを通して発見させてくれないということである。私が発見できないだけなのかもしれないが。

 私が「リアリティ」を感じたのは、「蛙の卵管、もしくはたくさんの眼について」である。蛙の卵、オタマジャクシ、蛙を描いている。それは長田が「現実」に蛙の卵を見ながら書いているわけではない。蛙の卵を見たことがある、そして、そのとき「知った」ことを書いている。その「知っている」ことのなかに「リアリティ」がある。人は(私だけかもしれないが)、「知っている」ことしか「知ること」ができない。何かを「体験」しても、それが「知る」になるまでには時間がかかるのだ。
 私は、ここでふいに阪神大震災を書いた季村敏夫の『日々の、すみか』を思い出す。そのなかに「ものごとは遅れてやってくる」というようなことが書いてあった。「遅れ」て、私たちは「知る」のだ。「体験」しているときは、ことばは動かない。
 長田が蛙の卵を見たのはいつのことか。それから何年もたって、しかもニューヨークで、「蛙の卵」がことばになって「やってくる」(遅れてやってくる)のに出会う。「体験」が「知る」になるまでの時間、そして「知る」になるときに「変形」してしまう何かが、「リアリティ」だ。想像力とはものを歪める力だというようなことをバシュラールは言ったと思うが、「現実」が歪められることで「真実」となって「知る」に組み込まれていく。そういうことを、読みながら思った。
 そして、その詩の中に、ちょうどいま私が書いたことが繰り返されている。

生まれてから僕はたくさんの兄弟たちと繋がっていたんだ。僕たちは自分が孵化する日のことを話し合っていた静かに。その後何が起こるのか僕たちにはわからなかった。僕たちのママが蛙だってことは知っていたけど。
僕たちは覚えている滑り台みたいな卵巣にも似た温かい風船みたいなママの卵管を。

 「わからなかった」「知っていた」「覚えている」。ことばは、「知る」「わかる」「覚える」という動詞のなかで「リアリティ」をつかむ。「知る」だけではリアリティにならない。それを「わかる」。そして「覚える」とリアリティになる。「覚える」は「思い出す」でもある。
 この「思い出す」という動詞のなかに「遅れやってくる」がある。「思い出す」ためには「距離」が必要であり、その「距離」を超えて「知っていること」「わかっていること」が「覚えていること」としてやってくる。
 このとき、何が起きるか。

ねぇ、僕と兄弟たちはゼリー状の管の中で手を繋いでいたんだ蛙ってどんなものなんだろうなんて話しながら誰もそんなもの知らなかったけど。

 「知らなかったもの」(知らないこと)を、語ることができるのだ。「知る」「わかる」「覚える」「思い出す」ということばの運動が、そこに存在しないものをつくりだしてしまう。まだ起きていないことを「知っている」かのように浮かび上がらせてしまう。
 リアリティとは、そんな具合に、存在がまだ「知られていない」にもかかわらず、「知っている」ものとして「発見」されてしまうことなのだ。

誰かが言ってた僕たちは通り抜けて去っていく紡錘形みたいなものになるって。
誰かが言ってた僕たちは水の中で揺れる青草になるって。
誰かが言ってた僕たちは水の中を出て飛ぶ黒い形のものになるって。
でも誰も僕たちがどんなふうになるのかは知らなかったんだ。

 しかし、その「発見」は、いつでも「個別」のものである。つまり、どんなに「知っている」「わかっている」「覚えている」をつなぎ合わせても、これから起きることは一回かぎりのことなので「知らなかった」ことしか起きないのだ。
 この不思議な認識の運動から、「9・11」と「3・11」を読み直す必要があるのだと思う。
 長田は、こんな具合に書いている。

ヨコハマは震度五弱 我が家は大丈夫だろうか
ホドガヤの妹はどうしているだろうかサガミハラの父は
夫は今どこにいるのか
国際電話は誰とも通じない
眠ったのか眠らなかったのかよくわからないけどたぶんぐっすり眠った

 すべては「わからなかった」。「知った」けれど「わからなかった」。いまは、それを「覚えている」としか書けない。
 否定的なことばを並べたが、ここには、長田の「正直」が書かれている。「わからなかった」を「覚えている」ときちんと書いている。これが、「わかった」をくぐり抜けて生まれ変わる詩を読みたい。蛙が何度も変身するように、長田のことばも何度も変身すると「リアリティ」を生み出すと思う。








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