詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺めぐみ『昼の岸』

2019-09-14 10:51:17 | 詩集
昼の岸
渡辺 めぐみ
思潮社


渡辺めぐみ『昼の岸』(思潮社、2019年09月01日発行)

 渡辺めぐみ『昼の岸』のことばはとても清潔だ。この純粋な清潔さ、ことばの運動の正確さ、ゆるぎなさが渡辺の詩の特徴だと思う。
 しかし、この清潔さは安水稔和『辿る 続地名抄』(編集工房ノア)とはかなり違う。
 「雪解け」という作品。

高原にだけ咲く花の
高すぎる茎の背が怖いと思ったことは
ありませんか
その群生の仕方が
上を向き続ける花の意志が
瞼に焼きついて眠れなかったことは
ありませんか

 --手首切り取っても生えてくる夢に夏の戦意は鮮やかなりき

 「短歌は、家人の石川美南氏が本作品とのコラボのために書き下ろして挿入してくださったもの」という注が末尾についている。
 時系列から言うと、渡辺の作品が先にあり、それにあわせて石川が短歌を書いたということなのだが、順序は逆でも可能だろうと思う。それくらいことばが呼応し合っている。なぜか。渡辺も石川も「ことば」から出発して作品をつくっているからだ。
 近藤久也「あっち」の作風(ことば)と比較するとはっきりすると思う。
 近藤はほんとうに草っぱらに寝転んでいたのかどうかわからないが、草っぱらという現実がある。何よりも「あっち行け、しっしっ」という声がなまなましい。渡辺はほんとうに高原にいたのかもしれない。高原の植物を見たのかもしれないが、「現実感」がない。「上を向き続ける花の意志」ということばがあるが、その「意志」がそういうことを強く感じさせる。「現実」があるとしても、それは「メタ現実」である。意識としての現実。花を花としてみるのではなく、そこに「意志」を見る。さらにそれが「瞼に焼きつく」、その結果「眠れない」となると、これは完全に「ことば」の世界である。「ことば」がなければ、渡辺の書いていることは存在しない。
 そういう意味では、たしかに渡辺は詩を書いている。ことばにすることによってはじめて出現する世界を書いている。
 でも、よくよく考えてみれば、近藤の書いた「あっち行け、しっしっ」もことばにしないかぎり存在しない。近藤の書いた世界は、ことばにしないときは「肉体」のなかにただあるだけのどうでもいいような一瞬の感情、そこで完結してしまう何かだが、それだってことばにしないかぎりは出現しない。ただし、出現したからといって、そこから何か新しいもの、未知のものがはじまるのではなく、むしろ、知っていたと思っていたことの「奥」へもどっていくような世界である。「現実」から「現実の奥」、「肉体の奥」へと帰っていくために、「それでどうした?」と言いたくなるような、言い換えると、誰もが「肉体」で知っているどうでもいいことを書いたって……という気持ちになる。
 渡辺の詩は、「どうでもいいこと」という印象は、たぶん、生まれない。あ、そういう世界があるのか、と驚かされる。そうか、世界はこんなふうに見れば、明確な「輪郭」をとるのか、とひきつけられる。
 渡辺の詩(ことば)は、世界の新しい可能性、清潔な美しさへ向かって動いていく。「抽象」へ向かって動いていく。近藤のことばは逆に、誰もが知っている「輪郭」のあいまいな、ただそこにそのときあっただけの、なんといえばいいのか、「だらしない」と形容してもいいようなもの、「具象」としか言えないものへと帰っていく。
 「抽象」と「具象」を比較すると、なんとなく、「抽象」の方がかっこいいというか、「頭がいい」感じがする。評価に値するものという印象が生まれる。「具象」には美しいものも、醜いものも、だらしないものもあるのに対し、「抽象」には美しいもの、「真理(真実)」があるという印象がある。そして「具象の事実」と「抽象の真実」を比較すると、「真実」ということばとなじむためか、「抽象」の方が「上位」のもののような印象を引き起こす。
 これはしかし、簡単に結論を出すわけには行かないぞ、と私は思う。

 少し別な角度から書き直してみる。
 渡辺は「コラボ(レーション)」ということばをつかっているが、渡辺のことばは「現実」とコラボレーションするというよりも、あくまで「ことば」とコラボレーションする。対話する。向き合っているものが、最初からととのえられた「抽象」だから、それは不透明なものを含みようがないのだ。不透明なもの、ことばにならない奇妙な「肉体が覚えているもの」を含まないから、透明になるしかない。美しく輝くしかないのである。
 「睦月を急ぐ」にこんな行がある。

洗練される前の
泥だらけの素敵な思い出が
坂の未来を決めるだろう
目ばかりがぎらぎらと輝く
ぼろ布をまとった
老人が行く
あの人は誰だろう

 「泥だらけ」「ぼろ布」ということばが出てくるが、どんなふうに汚れているのか、「具体的」な感じがしない。「抽象」としか読めない。「目ばかりがぎらぎらと輝く」も常套句に過ぎず、人間の「欲望」をつかみきっているとは思えない。
 この「抽象性」がそのまま「老人」を通り抜けて、「誰だろう」ということばに結晶する。どんなに汚れた姿をしていても「誰だろう」と「抽象化」して(?)いえるときは、ぜんぜん汚くない。自分と無関係だからだ。でも、その「老人」が自分の身内だったりすると、まるで自分自身の汚れた姿をひとに見られているような気持ちになるものだ。もし、友人(知人)といっしょに歩いているときに、その老人を見たら、「あ、父だ。だれも私の父であると気づきませんように」と思ったりする。気づかれないうちに、「あっち行け、しっしっ」とこころのなかで叫んだりするかもしれない。
 渡辺の詩には「不純物」がない。なぜか。「物語」がどこかにあり、それを土台にしてことばが動いているからだと思う。渡辺自身の「現実」というよりも、「完成された物語」がつねに想定されていて、それを出発点とするから「あっち行け、しっしっ」というようなひとに聞かれたくないことばが入り込みようがない。
 「指定区域外」の次のような行。

骨が溶けるまで笑おうね
誰しも溶けるから笑おうね
大陸間弾道弾が見えない彼方をゆこうとも
僕ら わたしら
夕涼みの木蔭のように
つながろう
一期一会の旅人としてちらりと目を合わせ
はにかみながら笑おうね

 「意味」はわかる。しかし、その意味がわかるということが、もしかすると渡辺のことばの「強み」ではなく「弱み」かもしれない。そんなことも思うのである。しかし、この感想は、私が、先に近藤の詩を読んだからかもしれない。渡辺の詩を先に読み、そのあとで近藤の詩を読んだのだったら、こういう感想にはならなかっただろうとも思う。
 池井昌樹や安水稔和の詩を先に読まなければ(先にその感想を書かなければ)、きっと違ったものになっただろうとも思う。




*

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