詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

2019-09-04 18:52:45 | 映画
クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)

監督 クエンティン・タランティーノ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、犬

 シャロン・テート事件というのは、映画をつくっている人間にとっては何としても映画にしてみたい事件なのだろうか。「身内」の事件だからね。
 でも、描くのはむずかしい。結末は誰もが知っている。どうしても「残忍」になる。
 クエンティン・タランティーノは、これをとても奇妙な方法で再現する。
 シャロン・テートを殺害しようとしていた三人組(四人組?)は、現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じる役者を殺してしまえ、という「結論」に達し、テレビで人気があったレオナルド・ディカプリオを襲うことにする。映画ではシャロン・テートの「隣人」である。
 「論理のすり替え」というか「対象のすり替え」というか。まあ、理屈の言い方はいろいろあると思うけれど。
 で、これを、いかに「唐突」に見せないか、ということに知恵を絞っている。その「仕掛け」として、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの組み合わせがある。ひとりはスター、ひとりはお抱えのスタントマン。
 テレビの視聴者はレオナルド・ディカプリオを見ているつもりでいるが、それは危ないシーンではブラッド・ピットが演じている。ブラッド・ピットと知らずに、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットを見ている。でも、この「知らずに」は、「知る必要がない」ということでもある。どっちでもいいのだ。「役者」を見ているときもあれば、「役者」ではなく「ストーリー」だけを見ているときもある。そういうことをいちいち区別はしない。
 これは、だれを殺害するかという計画(?)にも反映される。シャロン・テートを狙っていたのだが、特にシャロン・テートでなければならないわけではない。誰かを殺すことで何かを訴えたかった。だから簡単にレオナルド・ディカプリオに、標的を変えてしまう。とくに変えたという意識もないままに。
 そうなると、そこで再現されるのは「どたばた」になる。コメディーになってしまう。暴力的コメディー。殺す方も、殺そうとして殺される人間も、もう、目的も何もない。訳が分からないまま、銃がぶっぱなされ、殴り、殴られる。犬が男の急所にかみつくというようなコメディーならではのシーンもある。バーナーで焼き殺すというシーンまである。そのすべてが、ぜんぜん美しくない。あの殺しのシーンをもう一度見てみたい、ということはない。ばかばかしい、としか言いようがない。
 映画は映画、娯楽なのだから、「どたばた」でかまわないといえばかまわないのだけれど。
 この最後の「どたばた」を無視して、60年代の風景(ファッション)を思い出してみる、というだけなら、それはそれで楽しい映画だろうけれど。でぶでぶになったレオナルド・ディカプリオを、自分自身で笑って見せる(批判して見せる)クレジットの部分など、傑作ではあるのだけれど。
 唯一、素直に(?)感情移入できたのは、ブラッド・ピットが飼っている犬だけだったなあ。
 (ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン5、2019年09月04日)

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粕谷栄市「かなしい動物」、斎藤恵子「ちいさな夜」

2019-09-04 10:13:44 | 詩(雑誌・同人誌)
粕谷栄市「かなしい動物」、斎藤恵子「ちいさな夜」(「森羅」18、2019年09月09日発行)

 粕谷栄市「かなしい動物」。

 かなしい動物は、檻のなかにいる。かなしい動物は、
虚ろな目をして、そこに坐っている。一切は、茫漠とし
ていて、かなしい動物は、自分が、どうして、檻のなか
にいるのか、判らないらしい。
 かなしい動物は、それでも、その時刻がきて、食べ物
が与えられると、起き上がって、それを食う。
 大抵は、椀に入った飯のようなものだが、かなしい動
物は、両手で椀を抱え、顔をいれて、一粒も残すことな
く、それをたいらげる。
 たぶん、それだけで、彼の一日は終わるのだ。彼は、
また、床に坐って、ぼんやりしている。
 もちろん、そのようにして過ごしても、次の一日は来
るのだ。一日、また一日、そして、また、一日。

 書かれていることは、「変化」しない。「かなしい動物」という主語、あるいはテーマは、「ことば」そのものとして何度も繰り返される。途中までの引用だが、何が変わったのかわからない。「かなしい動物」が「いる」とだけ、同じことを書いているように思える。
 そして、そう思ったときに気づくのだ。
 ひとは、同じことを書ける。同じことのなので、何も書かないというのに似ているが、何も書かないということさえ、書くということができる。
 何も書かないまま、そこに何を書くか。
 「そこ」「それ」「その」。こうしたことばが「かなしい動物」と同じくらいにくりかえされる。「そこ」「それ」「その」は「指示詞」である。「意識」が指し示すもの。「意識」は「対象」と「自己」とを「指示詞」でつなぐ。あるいは、その間を「指示詞」で埋めていく。
 ほんとうに変わらずに「ある」のは、この「指示詞」の「動き」である。

 かなしい動物が、かなしい動物と呼ばれるわけを知る
ものなら、かなしい動物が、決して、檻のなかのその一
匹だけでないことを知っているだろう。

 後半に出てくるこの部分は「論理」が「意識」と「自己」の間をつないでしまうので、少し異質だが、そのかわりに「かなしい動物」ということばが書き出しと同じようにくりかえされ、くりかえすことで「その」(指示詞)になろうとしている。
 人間は、くりかえすことしかできないのかもしれない。

 斎藤恵子「ちいさな夜」。斎藤の「くりかえし」は粕谷のものとは違う。死んだ姉が帰ってくる。姉を思い出すというくりかえしだ。その書き出し。

ちいさな夜がおりてきて
満天の星が宙に舞う
なにもかもが美しく思え耳を澄ます
 
 きぃ
枝折戸のひらく音
古い姉は折り紙の着物を着て
紫サルビアの帯を結んでいる
そっとおとずれてくれたのだ
わたしたちは明るい雨に打たれた
紫陽花の茂みのほの暗さが
毬になってはずんでいる

 途中に出てくる「きぃ」という「枝折戸のひらく音」。これも、もしかするとくりかえされる「儀式」のようなものかもしれないが、くりかえされる前の「一回かぎり」という印象の方が強い。
 「音」は存在しながら、消えていく。なくなってしまう。それが一回かぎりを浮かび上がらせるのだろう。
 ここから粕谷の詩にもどってみる。粕谷の詩に「一回かぎり」はなかった。
 「一切」「一粒」「一日」と「一」をつかったことばがくりかえされる。そして、そのうちの「一日」は、

 もちろん、そのようにして過ごしても、次の一日は来
るのだ。一日、また一日、そして、また、一日。

 と書かれる。同じ一日か、違った一日か。わかっていることは、その前に書かれる、

彼の一日は終わるのだ。

 「終わる」。この動詞が、「一日」を「一日」にするということ。同じか、違うかは問題ではない。大事なのは「終わる」。つまり、なくなるということだ。ある、あった、けれどなくなる。それがくりかえされる。
 斎藤の書く「きぃ」に似ている。
 姉は必ず「きぃ」という音を「印」に帰ってくる。それは姉の「印」そのものだが、それはくりかえされても、そのとき「一回かぎり」である。
 「一日」は、いつも「一回かぎり」だ。「その」でどれだけつなぎとめようとしてもつなぎとめられない。だからくりかえし書いても、くりかえしにはならない。いや、くりかえしに「なれない」。
 「かなしい動物」の「かなしい」は、くりかえしてもくりかえしても、「それ」になれない「一回かぎり」として存在してしまうことだ。人間は「それ」というように、指し示せばいつでも「ある」ものにはなれない。粕谷は「ある」必要はない、と書いているのかもしれない。
 あるいは「ある」になってしまうと書いてもいいのかもしれないが、そうすると、こんどは私が「くりかえし」のなかに引き込まれてしまう。
 粕谷のことばは、私にとっては、ベケットと似ている。ブラックホールに似ている。引き込まれ、そのなかに消えていくだけだ。「重力」というものだけが存在する時間だ。







*

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