クエンティン・タランティーノ監督「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」(★)
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、犬
シャロン・テート事件というのは、映画をつくっている人間にとっては何としても映画にしてみたい事件なのだろうか。「身内」の事件だからね。
でも、描くのはむずかしい。結末は誰もが知っている。どうしても「残忍」になる。
クエンティン・タランティーノは、これをとても奇妙な方法で再現する。
シャロン・テートを殺害しようとしていた三人組(四人組?)は、現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じる役者を殺してしまえ、という「結論」に達し、テレビで人気があったレオナルド・ディカプリオを襲うことにする。映画ではシャロン・テートの「隣人」である。
「論理のすり替え」というか「対象のすり替え」というか。まあ、理屈の言い方はいろいろあると思うけれど。
で、これを、いかに「唐突」に見せないか、ということに知恵を絞っている。その「仕掛け」として、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの組み合わせがある。ひとりはスター、ひとりはお抱えのスタントマン。
テレビの視聴者はレオナルド・ディカプリオを見ているつもりでいるが、それは危ないシーンではブラッド・ピットが演じている。ブラッド・ピットと知らずに、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットを見ている。でも、この「知らずに」は、「知る必要がない」ということでもある。どっちでもいいのだ。「役者」を見ているときもあれば、「役者」ではなく「ストーリー」だけを見ているときもある。そういうことをいちいち区別はしない。
これは、だれを殺害するかという計画(?)にも反映される。シャロン・テートを狙っていたのだが、特にシャロン・テートでなければならないわけではない。誰かを殺すことで何かを訴えたかった。だから簡単にレオナルド・ディカプリオに、標的を変えてしまう。とくに変えたという意識もないままに。
そうなると、そこで再現されるのは「どたばた」になる。コメディーになってしまう。暴力的コメディー。殺す方も、殺そうとして殺される人間も、もう、目的も何もない。訳が分からないまま、銃がぶっぱなされ、殴り、殴られる。犬が男の急所にかみつくというようなコメディーならではのシーンもある。バーナーで焼き殺すというシーンまである。そのすべてが、ぜんぜん美しくない。あの殺しのシーンをもう一度見てみたい、ということはない。ばかばかしい、としか言いようがない。
映画は映画、娯楽なのだから、「どたばた」でかまわないといえばかまわないのだけれど。
この最後の「どたばた」を無視して、60年代の風景(ファッション)を思い出してみる、というだけなら、それはそれで楽しい映画だろうけれど。でぶでぶになったレオナルド・ディカプリオを、自分自身で笑って見せる(批判して見せる)クレジットの部分など、傑作ではあるのだけれど。
唯一、素直に(?)感情移入できたのは、ブラッド・ピットが飼っている犬だけだったなあ。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン5、2019年09月04日)
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、犬
シャロン・テート事件というのは、映画をつくっている人間にとっては何としても映画にしてみたい事件なのだろうか。「身内」の事件だからね。
でも、描くのはむずかしい。結末は誰もが知っている。どうしても「残忍」になる。
クエンティン・タランティーノは、これをとても奇妙な方法で再現する。
シャロン・テートを殺害しようとしていた三人組(四人組?)は、現代に「殺し」が蔓延しているのは、テレビで役者が次々に人を殺すからだ。殺人に対して感覚が麻痺しているからだ。世界から殺人をなくすために、殺人を平気で演じる役者を殺してしまえ、という「結論」に達し、テレビで人気があったレオナルド・ディカプリオを襲うことにする。映画ではシャロン・テートの「隣人」である。
「論理のすり替え」というか「対象のすり替え」というか。まあ、理屈の言い方はいろいろあると思うけれど。
で、これを、いかに「唐突」に見せないか、ということに知恵を絞っている。その「仕掛け」として、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットの組み合わせがある。ひとりはスター、ひとりはお抱えのスタントマン。
テレビの視聴者はレオナルド・ディカプリオを見ているつもりでいるが、それは危ないシーンではブラッド・ピットが演じている。ブラッド・ピットと知らずに、レオナルド・ディカプリオとブラッド・ピットを見ている。でも、この「知らずに」は、「知る必要がない」ということでもある。どっちでもいいのだ。「役者」を見ているときもあれば、「役者」ではなく「ストーリー」だけを見ているときもある。そういうことをいちいち区別はしない。
これは、だれを殺害するかという計画(?)にも反映される。シャロン・テートを狙っていたのだが、特にシャロン・テートでなければならないわけではない。誰かを殺すことで何かを訴えたかった。だから簡単にレオナルド・ディカプリオに、標的を変えてしまう。とくに変えたという意識もないままに。
そうなると、そこで再現されるのは「どたばた」になる。コメディーになってしまう。暴力的コメディー。殺す方も、殺そうとして殺される人間も、もう、目的も何もない。訳が分からないまま、銃がぶっぱなされ、殴り、殴られる。犬が男の急所にかみつくというようなコメディーならではのシーンもある。バーナーで焼き殺すというシーンまである。そのすべてが、ぜんぜん美しくない。あの殺しのシーンをもう一度見てみたい、ということはない。ばかばかしい、としか言いようがない。
映画は映画、娯楽なのだから、「どたばた」でかまわないといえばかまわないのだけれど。
この最後の「どたばた」を無視して、60年代の風景(ファッション)を思い出してみる、というだけなら、それはそれで楽しい映画だろうけれど。でぶでぶになったレオナルド・ディカプリオを、自分自身で笑って見せる(批判して見せる)クレジットの部分など、傑作ではあるのだけれど。
唯一、素直に(?)感情移入できたのは、ブラッド・ピットが飼っている犬だけだったなあ。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン5、2019年09月04日)