詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」補助金不交付

2019-09-28 15:38:46 | 自民党憲法改正草案を読む
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」補助金不交付
             自民党憲法改正草案を読む/番外289(情報の読み方)

 「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、文化庁は、芸術祭への採択済みの補助金約7800万円について、県からの申請手続きに不備があったとして全額不交付を決めた。このことについては、フェイスブックのあちこちのコメント欄で書いてきたが、そこでは書かなかったことを書いておきたい。

 私は2016年の参院選の直後に『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)という本を出した。
 私は他人の詩について好き勝手な感想を書いているだけだが、「表現の自由」がどうなるか、それが気がかりで(他人の悪口を書き続けることができるかどうか心配で)、2012年の自民党改憲草案を読んでみた。「改憲」の仕方が非常に微妙で、そこに危険なものを感じた。
 第19条は、こう言う具合。
(現行)思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改憲案)思想及び良心の自由は、保障する。
 似ているが、違う。現行憲法は、「これを侵してはならない」と国に対して「禁止」を明言している。改憲案は、国に対してどういう「禁止」を明言してるのかわからない。
 憲法は国に対する禁止事項を明示したものであるはずなのに(国の行為を拘束するはずのものなのに)、それが具体的に書かれていない。
 現行憲法は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と国に対して禁止を申し渡した後、補足として(追加として)21条に「表現の自由は、これを保障する」と書いている。この「保障する」は「これを侵してはならない」を簡略に言いなおしたものである。
 改憲草案に「侵してはならない」の文言がないこと、抽象的に「保障する」と行っていることに危険を感じた。だから、そういうことを書いた。ここでは繰り返さない。

 「あいちトリエンナーレ」の問題でいちばん問題なのは、「慰安婦像(少女像)」を名古屋市長が強制的に撤去させたこと、企画展を中止に追い込んだことである。これは検閲に当たる。許されることではない。
 今回の文化庁の決定は、それを追認したものといえる。
 いずれも「後出しジャンケン」である。展覧会に行ってみたら、そこに自分の気に食わない作品がある。だから撤去しろ、だから補助金を払わない。「事前に、そういう作品のことを知らなかったから許可した」と言う。
 これを私は、憲法に規定してある「検閲の禁止」に違反すると考えるが、一部のひとは、「事前に検閲していない(事前に禁止していない)」から検閲にならないという。しかし、検閲というのは、いつでも「作品」が完成してからしかできない。「事後の禁止は検閲にならない」というのは、とても奇妙な論理である。
 さらに重要なことがある。
 「慰安婦像(少女像)」は、今回展示されたものが唯一のものではない。同じ作者によってつくられた、同じ「鋳型」からつくられたものであるかどうかは私は知らないが、世界にいくつもある。ソウルにもあるし、アメリカにもある。今回の企画展で展示されようが、されまいが、それは存在している。そしてその展示(公開)は、世界では認められている。
 こうした作品の展示(公開)を禁止するとは、どういうことなのか。世界初公開の作品、その存在を誰も知らず、公開されてみると、とても鑑賞にたえないものであるとわかったという作品ではない。世界初公開の作品であっても、権力が「検閲」し、その公開を禁止するというのはおかしな話だと思うが、すでに存在し、多くの人が知っている作品の公開を禁止するというのは、権力の恣意的行為(作為)以外の何ものでもない。
 「権力者として、その作品を許すことができない。その作品は権力を批判している、そういう批判は許さない」と明言しているに等しい。こういう行為は、現行憲法で禁止している「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「表現の自由は、これを保障する(これを侵してはならない)」という規定を破るものである。しかも、すでに存在し、多くの人が知っているものを「気に食わない、公開を禁止する」と言うのである。
 これがいったん通ってしまえば、あらゆることにこの「やり方」が適用される。権力は、権力にとって不都合なもの(気に食わないもの)を、次々に葬り去ることができる。しかも、公開された後なので、その禁止は「検閲には当たらない」と主張できる。
 権力が、権力が気に入ったものだけを「芸術(表現)」と認め、それ以外を排除するということがおこなわれてしまう。
 このわたしの文書も、「この文章は権力批判を含んでいる。そういうものは日本の国益には反する」という理由で公開を禁止することができるようになる。
 「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「侵してはならない」という禁止規定を隠し、「思想及び良心の自由は、保障する」と言いなおしている、この「罠」について、私たちはもっと厳しい点検をしないといけない。「侵してはならない」という禁止外しは、今回の「事件」で実際におこなわれた。そして、それは2012年の自民党改憲草案の先取り実施なのである。
 すでに何度か、改憲案の先取り実施がおこなわれていることを書いてきたが、今回も問題も、文化庁の補助金行政の問題としてではなく、改憲の動きの一環として見つめる必要がある。




 
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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水下暢也「秋のつもり」

2019-09-28 10:59:26 | 詩(雑誌・同人誌)
水下暢也「秋のつもり」(読売新聞2019年2019年09月27日夕刊=西部版)

 水下暢也「秋のつもり」を読みながら、私はとまどう。
 水下暢也という名前がなければ、私はこの詩を「いま」書かれたものとは思わない。私には書けない、読めない漢字がある。(引用ではルビを省略した。)そういうことばは、だいたい、私の日常にはかかわりがない。つかわない、ということだ。つまり、そういうことばをつかって、私は世界を見つめない。考えない。

逃げ水の上を辷る船の舳先から
末広がりになる
軽い波立ちが畳まれ
その後方に
といっても見定め難いが
熟した艶がつくのも
淡い蟠りの上面に
鈴生りの藍が集まるのも
いまひとつ狂いきらない

 書き出しは、繊細である。「逃げ水」は何度も見たことがあるが、水下が書いているように、目を凝らしてみたことはない。そうか、目を凝らせば、その「凝らす」という動きの中に(肉体のなかに)船の幻も呼び込むものなのかと、その集中力に驚いてしまう。「逃げ水」が、遠い水平線の波の動きにも見えてくる。
 「狂いきらない」とはよく書いたものだ。
 「見定めがたい」ものを見定め、ことばにする。こんなに集中し、ことばにしてしまうのは、私から見るとすでにそれだけで「狂っている(常軌を逸している/過剰な精神の運動がある)」が、そして「漢字」と「読み」の選択に「狂っている」証拠を感じるが、水下はそれを「狂いきらない(狂わない)」と言いきる。この精神力が水下のことばを動かしていることになる。驚くしかない。
 しかし、ここに書かれていることばを、水下はいったい誰と共有しているのか。だれと語り合うとき、こういうことば(漢字)をつかうのか。それが、わたしにはさっぱりわからない。少なくとも、私は、こういうことばを共有できない。
 とはいしうものの。

そんなふうだからか
逃げるほどにも
追うほどにも
思う秋を持てず

 この四行のリズム、それからことばそのものは、非常に迫ってくるものがある。「逃げ水」を見たときの不思議さ、あれはほんとうに存在するのか(誰にも見えるものなのか)、それとも私の目の錯覚なのかという奇妙な気持ちがぴったり重なる。「そんなふうだから」という「論理的」なようで、いいかげん(?)な飛躍の仕方も、そういう気分に重なる。
 でも。

逃げ水の面を乱す
棹さしがつづいて
片岸は遠のくばかりで

 あ、このとき水下は、どこにいるのだろうか。
 「逃げ水」の見える場所? それとも「船」の上? 船の上で、棹で船を動かしている?
 わからない。

なだれ込んだ葉が
逃げ水を埋め
たちこめるめる匂いだけ
俄かに秋づくか

 うーん。「逃げ水を埋め」の葉か。ここでは「逃げ水」は、ほとんど現実の「水」になっている。水に埋もれ(水を埋め)、葉が匂う。その匂いが「たちこめる」は生々しくて、肉体にぐいと迫ってくるが、私は自分の「位置」を見失ってしまう。「匂い」を感じるのは、私の肉体感覚では対象の近くにいるとき。遠くの「匂い」を嗅ぎ取るほど、わたしの嗅覚は鋭くはない。書き出しのように、「逃げ水」を遠くから見ているかぎりは、「匂い」はしない。集中力で「逃げ水」を見る位置から、「逃げ水」のただなかへワープしてきたのか。
 まあ、そういう混乱が詩を体験することだといえば、そうなるのかもしれないが。
 ちょっと苦しい。
 私の肉体がついていけなくなる。「幻想」だとしても、それを追いかけるには肉体が必要だが、動かなくなる。

せつかれた陽炎は
ひとたび失せてゆくものの
春と佯る初冬がわらえば
またの日の逃げ水が遊び
またの日の目眩ともなる
水棹を手放した水手は
艫でへたばり
もえそめた葉陰に覆われ
遠目には少し暗い
季節の水合へ入ってゆく

 よくわからない。いや、ぜんぜんわからない、と書いた方が正直だな。
 「春と佯る初冬がわらえば」を手がかりに言えば、この詩の舞台は「小春日和」ということになるが、「秋のつもり」は、それでは「晩秋」のこと? 私は秋になったばかりの日のことかと思って読んでいたから、(福岡では、まだ「夏」だ。私はこの文章を下着姿でクーラーをかけながら書いている)、「時間」そのものも見失ってしまう。
 私の読めない漢字、書けない漢字を読みながら(見ながら)、ああ、これは遠い昔の詩だなあ、明治から昭和の初めにかけてのことばであって、いまのことばではないなあ、という思いにもどってしまう。
 こういうことばが、いまの若い人には新鮮なのか、詩なのか、と驚いてしまう。
 若い人の書いている詩は、私のような老人にはほとんどわからないが、わからなくても古いことば(漢字?)ではなく、いまつかわれていることばを読みたいと思う。






*

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