国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」補助金不交付
自民党憲法改正草案を読む/番外289(情報の読み方)
「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、文化庁は、芸術祭への採択済みの補助金約7800万円について、県からの申請手続きに不備があったとして全額不交付を決めた。このことについては、フェイスブックのあちこちのコメント欄で書いてきたが、そこでは書かなかったことを書いておきたい。
私は2016年の参院選の直後に『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)という本を出した。
私は他人の詩について好き勝手な感想を書いているだけだが、「表現の自由」がどうなるか、それが気がかりで(他人の悪口を書き続けることができるかどうか心配で)、2012年の自民党改憲草案を読んでみた。「改憲」の仕方が非常に微妙で、そこに危険なものを感じた。
第19条は、こう言う具合。
(現行)思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改憲案)思想及び良心の自由は、保障する。
似ているが、違う。現行憲法は、「これを侵してはならない」と国に対して「禁止」を明言している。改憲案は、国に対してどういう「禁止」を明言してるのかわからない。
憲法は国に対する禁止事項を明示したものであるはずなのに(国の行為を拘束するはずのものなのに)、それが具体的に書かれていない。
現行憲法は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と国に対して禁止を申し渡した後、補足として(追加として)21条に「表現の自由は、これを保障する」と書いている。この「保障する」は「これを侵してはならない」を簡略に言いなおしたものである。
改憲草案に「侵してはならない」の文言がないこと、抽象的に「保障する」と行っていることに危険を感じた。だから、そういうことを書いた。ここでは繰り返さない。
「あいちトリエンナーレ」の問題でいちばん問題なのは、「慰安婦像(少女像)」を名古屋市長が強制的に撤去させたこと、企画展を中止に追い込んだことである。これは検閲に当たる。許されることではない。
今回の文化庁の決定は、それを追認したものといえる。
いずれも「後出しジャンケン」である。展覧会に行ってみたら、そこに自分の気に食わない作品がある。だから撤去しろ、だから補助金を払わない。「事前に、そういう作品のことを知らなかったから許可した」と言う。
これを私は、憲法に規定してある「検閲の禁止」に違反すると考えるが、一部のひとは、「事前に検閲していない(事前に禁止していない)」から検閲にならないという。しかし、検閲というのは、いつでも「作品」が完成してからしかできない。「事後の禁止は検閲にならない」というのは、とても奇妙な論理である。
さらに重要なことがある。
「慰安婦像(少女像)」は、今回展示されたものが唯一のものではない。同じ作者によってつくられた、同じ「鋳型」からつくられたものであるかどうかは私は知らないが、世界にいくつもある。ソウルにもあるし、アメリカにもある。今回の企画展で展示されようが、されまいが、それは存在している。そしてその展示(公開)は、世界では認められている。
こうした作品の展示(公開)を禁止するとは、どういうことなのか。世界初公開の作品、その存在を誰も知らず、公開されてみると、とても鑑賞にたえないものであるとわかったという作品ではない。世界初公開の作品であっても、権力が「検閲」し、その公開を禁止するというのはおかしな話だと思うが、すでに存在し、多くの人が知っている作品の公開を禁止するというのは、権力の恣意的行為(作為)以外の何ものでもない。
「権力者として、その作品を許すことができない。その作品は権力を批判している、そういう批判は許さない」と明言しているに等しい。こういう行為は、現行憲法で禁止している「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「表現の自由は、これを保障する(これを侵してはならない)」という規定を破るものである。しかも、すでに存在し、多くの人が知っているものを「気に食わない、公開を禁止する」と言うのである。
これがいったん通ってしまえば、あらゆることにこの「やり方」が適用される。権力は、権力にとって不都合なもの(気に食わないもの)を、次々に葬り去ることができる。しかも、公開された後なので、その禁止は「検閲には当たらない」と主張できる。
権力が、権力が気に入ったものだけを「芸術(表現)」と認め、それ以外を排除するということがおこなわれてしまう。
このわたしの文書も、「この文章は権力批判を含んでいる。そういうものは日本の国益には反する」という理由で公開を禁止することができるようになる。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「侵してはならない」という禁止規定を隠し、「思想及び良心の自由は、保障する」と言いなおしている、この「罠」について、私たちはもっと厳しい点検をしないといけない。「侵してはならない」という禁止外しは、今回の「事件」で実際におこなわれた。そして、それは2012年の自民党改憲草案の先取り実施なのである。
すでに何度か、改憲案の先取り実施がおこなわれていることを書いてきたが、今回も問題も、文化庁の補助金行政の問題としてではなく、改憲の動きの一環として見つめる必要がある。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。
自民党憲法改正草案を読む/番外289(情報の読み方)
「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題で、文化庁は、芸術祭への採択済みの補助金約7800万円について、県からの申請手続きに不備があったとして全額不交付を決めた。このことについては、フェイスブックのあちこちのコメント欄で書いてきたが、そこでは書かなかったことを書いておきたい。
私は2016年の参院選の直後に『詩人が読み解く自民党憲法案の大事なポイント』(ポエムピース)という本を出した。
私は他人の詩について好き勝手な感想を書いているだけだが、「表現の自由」がどうなるか、それが気がかりで(他人の悪口を書き続けることができるかどうか心配で)、2012年の自民党改憲草案を読んでみた。「改憲」の仕方が非常に微妙で、そこに危険なものを感じた。
第19条は、こう言う具合。
(現行)思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
(改憲案)思想及び良心の自由は、保障する。
似ているが、違う。現行憲法は、「これを侵してはならない」と国に対して「禁止」を明言している。改憲案は、国に対してどういう「禁止」を明言してるのかわからない。
憲法は国に対する禁止事項を明示したものであるはずなのに(国の行為を拘束するはずのものなのに)、それが具体的に書かれていない。
現行憲法は「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」と国に対して禁止を申し渡した後、補足として(追加として)21条に「表現の自由は、これを保障する」と書いている。この「保障する」は「これを侵してはならない」を簡略に言いなおしたものである。
改憲草案に「侵してはならない」の文言がないこと、抽象的に「保障する」と行っていることに危険を感じた。だから、そういうことを書いた。ここでは繰り返さない。
「あいちトリエンナーレ」の問題でいちばん問題なのは、「慰安婦像(少女像)」を名古屋市長が強制的に撤去させたこと、企画展を中止に追い込んだことである。これは検閲に当たる。許されることではない。
今回の文化庁の決定は、それを追認したものといえる。
いずれも「後出しジャンケン」である。展覧会に行ってみたら、そこに自分の気に食わない作品がある。だから撤去しろ、だから補助金を払わない。「事前に、そういう作品のことを知らなかったから許可した」と言う。
これを私は、憲法に規定してある「検閲の禁止」に違反すると考えるが、一部のひとは、「事前に検閲していない(事前に禁止していない)」から検閲にならないという。しかし、検閲というのは、いつでも「作品」が完成してからしかできない。「事後の禁止は検閲にならない」というのは、とても奇妙な論理である。
さらに重要なことがある。
「慰安婦像(少女像)」は、今回展示されたものが唯一のものではない。同じ作者によってつくられた、同じ「鋳型」からつくられたものであるかどうかは私は知らないが、世界にいくつもある。ソウルにもあるし、アメリカにもある。今回の企画展で展示されようが、されまいが、それは存在している。そしてその展示(公開)は、世界では認められている。
こうした作品の展示(公開)を禁止するとは、どういうことなのか。世界初公開の作品、その存在を誰も知らず、公開されてみると、とても鑑賞にたえないものであるとわかったという作品ではない。世界初公開の作品であっても、権力が「検閲」し、その公開を禁止するというのはおかしな話だと思うが、すでに存在し、多くの人が知っている作品の公開を禁止するというのは、権力の恣意的行為(作為)以外の何ものでもない。
「権力者として、その作品を許すことができない。その作品は権力を批判している、そういう批判は許さない」と明言しているに等しい。こういう行為は、現行憲法で禁止している「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」「表現の自由は、これを保障する(これを侵してはならない)」という規定を破るものである。しかも、すでに存在し、多くの人が知っているものを「気に食わない、公開を禁止する」と言うのである。
これがいったん通ってしまえば、あらゆることにこの「やり方」が適用される。権力は、権力にとって不都合なもの(気に食わないもの)を、次々に葬り去ることができる。しかも、公開された後なので、その禁止は「検閲には当たらない」と主張できる。
権力が、権力が気に入ったものだけを「芸術(表現)」と認め、それ以外を排除するということがおこなわれてしまう。
このわたしの文書も、「この文章は権力批判を含んでいる。そういうものは日本の国益には反する」という理由で公開を禁止することができるようになる。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の「侵してはならない」という禁止規定を隠し、「思想及び良心の自由は、保障する」と言いなおしている、この「罠」について、私たちはもっと厳しい点検をしないといけない。「侵してはならない」という禁止外しは、今回の「事件」で実際におこなわれた。そして、それは2012年の自民党改憲草案の先取り実施なのである。
すでに何度か、改憲案の先取り実施がおこなわれていることを書いてきたが、今回も問題も、文化庁の補助金行政の問題としてではなく、改憲の動きの一環として見つめる必要がある。
#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位
*
「天皇の悲鳴」(1000円、送料別)はオンデマンド出版です。
アマゾンや一般書店では購入できません。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
ページ右側の「製本のご注文はこちら」のボタンを押して、申し込んでください。