瀬崎祐「望楼病棟」、岩佐なを「仙人掌じいさん」(「交野が原」87、2019年09月01日発行)
一部分だけを取り出して感想を書くのはよくないのかもしれないが。
瀬崎祐「望楼病棟」の二連目が好きだ。
老婆たちのほとんどは 原因不明の口渇状態を呈してお
り つねに薄い唇を舌で湿らせながらあえいでいる そ
れにもかかわらず 異様なまでに発汗は亢進していて
皮膚をなま暖かく光らせている 暗い病室には微細な生
きものが繁殖しはじめている
「病室」と「老婆」の描写だが、「原因不明」という日常的につかうことばさえ、「病気」に向かって収斂していく。--というのは、ほんとうは逆の言い方をしないといけないのだけれど。一連目にはすでに「診察器具」ということばが出ているのだから。
しかし、「原因不明」「口渇状態」「呈する」「異様」「発汗」「亢進(する)」という丁寧に動くことばを読むと、病気の中にひきずりこまれていく感じがする。個人的なことはあまり知らないが、瀬崎は「医師」であると聞いたことがある。「病気」というか「医療」のことばが「肉体」として動いていく感じに揺らぎがない。
その動きの中に、
皮膚をなま暖かく光らせている
ということばが割ってはいる。これは「老婆」が発する何かによって、瀬崎のことばが一瞬ゆらいでいる。「皮膚が光っている」のを見るのではなく、「皮膚を光らせている」のを見る。そして、そのとき「なま暖かい」と感じるのだが、これは「皮膚」のことではなく「光り」のことである。それも「名詞」の「光」ではなく「動詞」の「光る」なのだ。「光らせている」と、そのことばは「使役形」で動いている。何かが「光らせている」のである。何か。「老婆」である。「あえぎ」である。
詩は、このあともつづいているのだが、私は、あえてここで引用を断ち切った。
暗い病室には微細な生きものが繁殖しはじめている
この「生きもの」を私は「老婆」そのものと感じたからだ。「老婆」とは違う「生きもの」がいるのではなく、「老婆」が「生きもの」に「なる」と読んだからだ。
私は「誤読」を訂正しない。「誤読」のなかにこそ、私の読んだ詩がある。それは瀬崎の書いた詩ではない、と瀬崎はいうかもしれないが。
岩佐なを「仙人掌じいさん」。自画像ではないかもしれないが、私は自画像と思って読んだ。
急病の仙人掌じいさんはこっちです
こっちです
ぺーぽーぺーぽー
夜の救急車直進します。
闇の火車右に曲がります。
赤い火の手を想わせる
白い救急車ちかちか
爺仙人掌一ケ、確保、収納終了。
しかしまだ動かない
動けない
どっこも受け入れない
行く手が決まらないうちに
みるみる車ごと
てのひらは火事
もう揉み消すわけにはいかない
揉めば爺はちくちくする
救急車に乗ったものの、受け入れ先の救急病院が決まらず、救急車はどこへも行けない。ときどき聞くニュースである。笑い話ではないのだが、この妙な「余裕」は瀬崎の書いた「老婆のあえぎ」に似ている。「仙人掌爺」を内部から光らせている。
岩佐のことばは、ぬるっとしたところがあって、私は昔は苦手だった。嫌いだった。だが、このぬるっが表面的なだけではなく、「内部」まで変形させ、「形状」から「運動」にかわり、それが「批評」(笑い)になった。いつのころからか、はっきりとはわからないが、そのころから私は岩佐のことばが好きになった。
瀬崎のことばが「医学」という客観によって動くのだとすれば、岩佐のことばは確立された客観を否定して、その瞬間に存在してしまう客観から逸脱した主観によって動く。渇いた唇を薄い舌でなめるような、あえぎ。おのれを苦しめる、おのれの力。それを受け入れ、苦しみを「見せつける」という逆襲。--いや、苦しむひとはそんなことを考えないと瀬崎なら言うだろう。そう感じるのは「錯覚」だと。だが、そのとき「老婆」、あるいは「仙人掌爺」は、その「錯覚」を笑って見せるのである。死に行くものには、どうせ死ぬのだからという「余裕」がある。
救急車の「ぺーぽーぺーぽー」という、この間のぬけた音の、何とも言えない強さ。
岩佐は、死にそうになっても、なかなか死なないだろうと思う。まわりの人間が「もう死んでもいいころだ」と思っていると、「私も、もう寿命だ。あと十年生きられるかどうか」などと言って、周囲の手を焼かせるだろう。
そういう「乱暴(ことばの暴力)」をふるわないと、私の身(ことば)が持たない。
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