詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和『辿る 続地名抄』

2019-09-13 08:30:49 | 詩集
安水稔和『辿る 続地名抄』(編集工房ノア、2019年09月15日発行)

 安水稔和『辿る 続地名抄』はタイトルどおり「地名」を題材にした詩の連作である。「父の村 四篇」の一部を読んでみる。

甲山 かぶとやま

甲山に登ると
父の村が見下ろせる。
すっかり色づいた稲田
刈り入れが始まっている。

東の山と西の山のあいだ
帯のような平地。
雲が流れてきて
流れていく。

 淡々と書いている。なんでもない風景のようにも見える。しかし、二連目の「雲が流れてきて/流れていく。」に、こころがひきつけられる。ここには「時間」がある。「雲の流れ」を「流れ」として認識するための「時間」。これは「瞬間」ではなく「継続/連続」であり、同時に「反復」でもあると思う。「流れてきて」と「流れていく」はひとつづきの動き(連続したもの)だが、私には「繰り返し」に感じられる。たぶん、これと同じことを安水はかつて見ているのだ。その「記憶」を「反復」している。その「反復」がことばをととのえている。
 父と見たことがあるのだろう。そしてそのとき、父はきっと言ったのだ。「雲が流れてきて/流れていく。」と。
 一連目も同じことが言えるだろう。いつか父と一緒に甲山に登った。頂上から父が言ったのだ。「村(のすべて)が見下ろせる。」と。そのことばになっていない「すべて」は「すっかり色づいた稲田/刈り入れが始まっている。」のなかにある。もちろん、それが「すべて」ではないが、「いま」の「すべて」である。「時間」のすべてである。「いま」だから、それは「一瞬」だが、繰り返される「暮らし」、「反復」されることで「永遠」になっていく「時間」。そういう「すべて」。
 安水は、いま父と対話しているのだ。
 三連目。

なんという鳥なのか
尾の長い鳥が。
枝伝いに次々と数十羽
背後の茂みに消えた。

 この鳥を、私は安水の父と読む。「数十羽」は父の「ひとり」という数とはあわないが、それは単に「ひとりの父」ではなく、引き継がれている「父」なのだ。「父の系譜」なのだ。
 「尾の長い鳥が。」と「動詞」を省略して中断されたことばは、鳥の一羽に焦点があたっている。まず、父があらわれたのだ。それから、それにつらなる父があらわれ、雲のように動き、動いていく。飛んで行く。そして消える。

 「父」との「対話」は、「仁豊野 にぶの」という二篇に直接的に書かれているが(とはいっても、何を語ったかは書かれていないが)、具体的には父が登場しない作品の方がより「対話」を感じさせる。
 「豊富 とよとみ」、甲山をおりたところの地名か。秋の風景が語られる。その三連目。

土塀
気持ちよく乾き。
土塀に乾した子供の運動靴
気持ちよく乾き。

 この「土塀」と「子供の運動靴」が「父」と安水に見える。それは「気持ちよく乾き。」という同じことばで結びつけられている。
 この「気持ちよく乾き。」という中断されたことばは、安水の記憶のことばだろう。「気持ちよく乾いているなあ」というようなことを安水の父は言ったのだと思う。聞けばなんでもないことばだが、「乾いた」状態を「気持ちよい」ということばで修飾することは、こどもにはむずかしい。特に「土塀/気持ちよく乾き。」はこどもには言えない。
 秋の光、空気の感触。そういうものを含めて「気持ちよく乾き。」ということばがある。ああ、こういうことを「気持ちよく」と言うのか、と安水は学んだのだ。それが「肉体」の奥に残っていて、いま、ここに噴出してきている。
 最終連。

ゆっくりと曲がる
村なかの道。
無人
蒼空。

 この「無人」は、単にひとが出歩いていないということではない。父がいないということだ。かつては父といっしょに歩いた道。そこをいま安水はひとりで歩いている。
 蒼空は「蒼穹」と読んだ。宇宙だ。

 こういう比較は変かもしれないが。

 池井昌樹のことばは「父」を超えて、その向こうにまでたどりつこうとする。あるいは「父」のさらに向こうから「いのち」を呼び寄せようとする。そういう広がりをもつ。
 それに対して安水のことばは、「父」を超えてやはりどこか遠いものとつながっているはずなのに、あえて、その遠くへは踏み込まない。「父」で踏みとどまる。「知っている」領域で踏みとどまる。
 「土地」がある。「土地」は「名前」がある。「名前」は「存在」をはっきりと記憶するためのものである。そういう「明確」なものを、安水はつかみとる。それ以上を求めない。そこに清潔な美しさがある。




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