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最果タヒ『恋人はせーので光る』(3)(リトルモア、2019年09月07日発行)
最果タヒ『恋人はせーので光る』の「まぶた」は、こう始まっている。
横たわっていると、地平線の形がきこえることがあるんです。
この行について、何か書きたいと思う。何かは、書き始めてみないとわからない。読んだ瞬間と、それについて何か書くために引用するために書き写す間に、それは生まれてくる。書きたいと思ったこととは違うことばが先に出てくることもある。
この一行で思ったのは「形がきこえる」という動詞のつかい方だ。
でも、そう思うだけで、まだ何が書きたいかは、はっきりわからない。わからないから、行を読み進む。
二段目のアイスクリームのように地球の表面にぼくは広がり、
球面を描く。それでもぼくは生きていて、地球は死んでいるの
だということが、とてもつらくおもいます。
「二段目のアイスクリーム」は生々しい。言い換えると、私の想像しなかった「もの」がそこに「事件」のようにして出現している。そのあと「死んでいるのだ」ということばがある。最果の詩には「死」がいつも見え隠れしている。
このことと「形がきこえる」はつながるか。
「形(視覚)」を超越して「きこえる(聴覚)」が動く。聴覚が動いたのは、視覚が死んだからか。でも「二段目」「表面」というのは聴覚がとらえるものではない。
何を書きたいのか、「保留」したまま、ほかの詩を読む。ほかの詩のなかに、「形がきこえる」に通じるものがあるかもしれない。
「約束した」では、次の一行に私は惹かれる。
ぼくの手のひらが熱くなる、海水に触れて、
海に触ったときの記憶が蘇る。この一行は、しかし海の記憶を書こうとしているわけではない、とすぐに知らされる。「海水に触れて、」は倒置法ではなく、次の行につづいているのだ。
生き返るように、誰かの体温をもらったよう
に、そうして眠たくなるのだ、そうして赤ん
坊に帰っていく、ぼくの体の内側にまだ、ま
るまっている、小さな子。
この「裏切り」というか、私の勝手な「誤読」を追い抜いて動いていくことば。「熱く」は「体温」へつながり、「眠る」へつながる。そして、それは「赤ん坊」にかわる。生まれてきたけれど、まだ生まれてきていない「一部」。「8月」の「私の1%」のようでもある。
「赤ん坊」は「いのち」なのだが、「生まれていない」感じが死ともつながっているようにも感じる。
最果のことばは、いつも、生と死を行き来している。
「氷河期」の、
わたしは、誰とも友達でないから、
誰とも恋人でないから、誰のことも殺せてしまうのだ、
記憶の中で。
を読んだとき、私はふと秋亜綺羅を思い出した。ここには「論理」が書かれているのだが、秋のことばから「論理の罠」を取り外したら最果の詩になるかなあ、と思ったのだ。ことばの軽さ、明るさ、きれいさが、秋のリズムとも似ている。(軽い、明るい、きれい、という印象が秋亜綺羅の「綺」という文字に象徴されている--これは、寺山修司がつけたペンネームなのだが、たぶん、軽い、明るい、きれいなことばとつながるものを名前のなかに刻印したかったのだろうと思う。「本名」で書いていたら、秋の詩は違った印象になる--というのは脱線だが。)
でも、最果のことばは、秋ほど「論理」を強く表に出さない。むしろ、少し「ゆるい」部分があって、そこに新しさもある。
次の部分。
春の光が、まだ冷たさに競り負けて、
ぱらぱらと上空で砕けていくのが見える。
どうしても、愛は愛として成立してしまう。
歪んだ世界でも、歪んだ愛が、
まるで垂直な雨のように、降り注いでいる。
そんな、うつくしい偽りがあるんだと知っているから、
もう誰のことも愛しているよ。
最終行の「もう」は、ふつうなら「愛していない」につながると思うが、最果は肯定のことばにつないでゆく。
ことばの乱れなのか、わざと乱れさせることで自己主張するのか。
そういう「文体」の内部に入り込んで、感想を書いてみたいという気持ちも生まれる。でも、まだ、どう書いていいのかわからない。
そうしているうちに、「0時の水」という作品に出会う。
わたしは、わたしの喉奥から、
背骨の鳴く声を聞く、
クジラもイルカもセイウチも、
わたしと同じ生き物であると、
骨の芯が知っていて、語り合える、
本当は、わたしも海を泳いでいるし、
光の筋をひろいながら、夜の音を聞くことができる、
そう思いながら深夜のコンビニから、外の景色を見つめて
いると、光が、生き物のよう。わたしとコミュニケーショ
ンなど取ることのできない生き物のように、通りすぎてい
く。わたしはしらない、この星のほとんどの生き物はわた
しの考えていることを、知ることができないのだというこ
とを。わたしが読んでいる本、わたしが食べているもの、
何一つ理解ができなくて、彼らがもし、わたしを好きなら、
とほうもない孤独におそわれているということを。
かわいそうと思う。
そう思えた途端に、明日が頭上に降りてくる。
これを読んだ瞬間、私は、それまで考えていたこと、ことばにしたいなあと感じていたことを忘れてしまう。
この詩はすごい。傑作だ。
それから、私はことばを探し始める。
私は何に感動したのか。
「肉体」の書き方に感動した。「背骨が鳴く」。その「声」を「喉奥から」「聞く」。私は聞いたことはないが、聞いたことがないことを忘れて、「あ、その声を覚えている」と感じる。私も知っている、と。
これはもちろん私の錯覚だが、そういう錯覚を引き起こす力が最果のことばにある。
この「背骨の鳴く声」が「クジラもイルカもセイウチも」とつながっていくが、そのすべてが「わかる」。それから、それにつづく「骨の芯」も。
そのとき私は海を泳いでいる。クジラかイルカかセイウチか、どれになっているのかわからないが、たぶん、それは名前が違うけれど、同じ「背骨」をもった「生き物」である。
そう思うのである。
しかし、最果は、そこにとどまらない。
クジラ、イルカ、セイウチを突き放してしまう。一体にならない。
何一つ理解ができなくて、彼らがもし、わたしを好きなら、
とほうもない孤独におそわれているということを。
かわいそうと思う。
そう思えた途端に、明日が頭上に降りてくる。
「孤独」という使い古されたことばが、しかし、まったく新しい形で、そこに存在している。
「彼ら」を「孤独」と呼ぶとき、最果は「孤独」以上に「孤独」である。名づけられない「孤独」のなかにいる。なぜ、名づけられないのか。どう名づけてみても、結局「孤独」というこことばのなかに取り込まれてしまうからだ。
違うのに、同じことば。
ひとりひとり、というか、最果が感じていることは、ほかの誰かの感じていること(たとえば私が感じていること)とは違うのに、「同じことば」になってしまうのだ、ことばにした瞬間。
そう知りつつ、あるいは知っているからこそ、最果は詩を書く。
「かわいそうと思う」と書いているが、だれを「かわいそうと思う」のか。それは私たち読者がひとりひとり感じとるしかない。最果に「答え」を聞くのではなく、感じたことが、私の「答え」なのだ。
*
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