ベニスに死す [DVD] | |
ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ | |
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(2)(★★★★)
監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ
(きのう書いた感想のつづきです。)
「タージオ」のオーディションフィルムを見た。ルキノ・ビスコンティがビヨルン・アンデレセンに横を向いて、笑って、セーターを脱いで、とかいろいろ指示をしている。その中に「立って」という指示がある。そして、ビヨルン・アンデレセンが立ち上がるのだが、
「背が高いなあ。驚いた」
と思わず声をもらす。
この瞬間、私は、この映画のすべてが決まったと感じた。
ビィスコンティは採用しようかどうしようか迷うのだが、この「迷い」の中に映画の決定するものがある。「背が高いなあ」と驚いたのは、ビィスコンティはタージオ役に背の高くない美少年を考えていたからだ。ダーク・ボガードは、そんなに背が高くない。体つきががっしりしていない。中背というよりも低い方かもしれない。「恋人」としてはビヨルン・アンデレセンは背が高すぎる。一緒に並んだとき、釣り合わない。別に、年上の男の方が背が高く、少年は背が低くなければならないという決まりはないのだが、背が低い方が「少年」のイメージに近いだろう。背が高いと「青年」、あるいは「大人」になってしまう。
でも、ビィスコンティはビヨルン・アンデレセンを選ぶ。この瞬間、この映画は男色に目覚め、苦悩する初老の男のうじゃうじゃした「抒情」から、美少年が初老の男をたたきのめす「神話」(悲劇)に変わったのだ。
ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに会う前から男色だったかもしれない。秘書か同僚かわからない若い男がすでにダーク・ボガードのそばにいて、「芸術論」を戦わしている。この男はダーク・ボガードを批判し、刺戟を与えるが、インスピレーションは与えない。もうすでに「関係」は終わっているのだろう。
一方、ビヨルン・アンデレセンは「議論」などしない。ただ、見つめられ、そしてときどき見つめ返す。ほんとうに見つめているのか、ただダーク・ボガードの周辺を視線が動いていっただけなのかわからないが、わからないからこそ、ダーク・ボガードには、それが強烈に感じられる。ふいに音楽が浮かんできて、五線譜に音符を書き始めたりする。いわば、音楽のミューズだ。予想していなかった「美」をダーク・ボガードはつかまえたのだ。
同じことがビィスコンティにも起きたのだ。背の高い美少年は、ビィスコンティの「予想」を裏切った。「予想」を裏切られて、そこからいままでビィスコンティの表現してこなかった「美」の可能性があふれてきたのだ。ビィスコンティが即座にビヨルン・アンデレセンに決めかねたのは、ビィスコンティの予想していなかった「新しい美」にビィスコンティ自身が追いつけるかどうか、わからなかった、確信がなかったからだろう。しかし、確信がないからこそ、可能性に欠けるという喜びがある。興奮がある。これからつくる映画が、「現実(事実)」の再現ではなく「神話」の創造になるという予感がビィスコンティを突き動かす。その衝動にビスコンティは身を委ねる。
実際、これは「神話」である。ラストシーン近く、ビヨルン・アンデレセンは海の中に進み、片手をのばし遥か遠くを指し示す。それは「永遠」のありかを指し示しているように見える。この逆光のシルエットは、確かに、長身の、痩せた少年でないと「絵」にならないだろう。「神話」には「神話」にふさわしい「形」というものがあるのだ。
このラストシーンの前に、一つ、とても生々しいシーンがある。ビヨルン・アンデレセンが砂まみれで汚れている。それを保母(?)みたいな女性がバスタオルで吹き清める。砂をぬぐい取ると、その下から完璧な美があらわれる。現実の不純物をとりはらうと、その奥から美があらわれるというのは、美を生み出すためには現実の汚れ(事実)を振り落とし、清めるということが必要なのだ。
オーディションにやってきたビヨルン・アンデレセンは、さまざまな「現実」を身にまとっている。それをビィスコンティはセーターを脱がせるように払い落とし、立ち上がらせ、「神話」にふさわしい「肉体」に変えたのだといえる。
このときビスコンティはダーク・ボガードになったのだ。
トーマス・マンの原作を私は読んでいないのだが、最後の「永遠」を指さすシルエットと、砂まみれの少年の砂をぬぐい取るシーンはビィスコンティの「創作」ではないだろうかと想像した。