ジェームズ・グレイ監督「アド・アストラ」(★★)
監督 ジェームズ・グレイ 出演 ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ
宇宙映画が傑作になるか駄作になるかの分岐点は、とても単純なことを土台にしている。「宇宙の果て」については誰も何も知らない。死と同じように、いろいろ語られるが、それ実際に体験した人はいない。
で。
その何にもわからないところで、何が起きるか。ここにもう一つ大事なポイントがある。人は知っていることしか考えることができない。「宇宙の果て」なんだから何があってもいいはずなのに、ドラマはいつも知っていることを繰り返すしかないのだ。
つまり、人を愛する、人を憎む、人を殺す。人を「父」に変えると、この映画のストーリーになるし、よく知らないがギリシャ悲劇にもなる。宇宙という舞台を借りた父親殺しの悲劇が展開されるだけなのだ。この悲劇は、逆読みすれば、権力者は暴君(独裁者)になり、暴君はこどもによって否定されることで新世界がはじまるということになる。どう読むかは、まあ、読者次第だ。読者が、どっちを「知っているか」ということにかかる。
この映画の最初のクライマックスシーン。トミー・リー・ジョーンズあてのメッセージを読むブラッド・ピット。初めは、組織が用意した手紙を読む。返事が返って来ない。また繰り返す、でも返って来ない。そして何度目か、ブラッド・ピットは用意されたメッセージをそばにおいて、自分自身のことばを語り始める。よく覚えていないが「父さん、愛している」というようなことを語る。この瞬間、この映画は終わる。要約すれば、ブラッド・ピットはトミー・リー・ジョーンズ(父)を愛していたし、トミー・リー・ジョーンズもまたブラッド・ピットを愛していた。だからこそ、その愛は、父が死ぬこと(父殺し)によって完結する。父を殺さないかぎり、ブラッド・ピットは「人類の父」にはなれないのである。
こういうことは「文学」では何度も何度も形を変えながら語られていることだと思う。人間は同じこと(知っていること)しか語れないから、そうなってしまうのだ。問題は、どんなふうにそれを語るかである。「語る」ということに限定して言えば、これはもう「ことば」の方がはるかに「自在」である。どこまでも「でたらめ」を言うことができる。どんな「でたらめ」でも「ことばの論理」は「論理の完結性」を実現できる。いざとなれば、これまで書いてきたことは間違いで、新たな事実をもとに語りなおせば、こういう結果になるというようなどんでん返しも簡単にできてしまう。これは、裏を返せば、こういう「宇宙を舞台にした父殺しのギリシャ悲劇」は、ことばで表現してこそ「宇宙の果て」まで行き着くことができる。映像では無理なのだ。
映像は、どうしても具体的である。映像もことば(声)と同じように消えていくが、瞬間的な情報量は映像の方が多い。すべての情報を「嘘」で統一することはできない。ことば(声)は情報量が少ないから「嘘」をひとつひとつ消しながら「嘘」を積み重ねていくことができるが、そういうことが映像にはできない。
だから、私は声を上げて笑ってしまった。最後の見せ場で。
父を殺した後(父が死んでゆくのを、死んでゆくのにまかせた後)、ブラット・ピットは地球へ帰るために、「宇宙遊泳」しながら母船に帰る。このとき母船とブラッド・ピットとの間には砕けた岩のような障害物が散らばっている。ぶつからずに帰船するために、ブラット・ピットは捨てていくステーションの一部を剥がし、それを「楯」にする。宇宙の浮遊岩石は「楯」にはぶつかるがブラット・ピットにはぶつからない。このとき、ブラット・ピットの質量の方が大きいから、はじき返されるのは浮遊岩石だけであって、ブラット・ピットの側には「反作用」はないということになるのかどうか、私は知らないが、見ていて変に感じるのだ。一方で、浮遊している岩石にぶつかれば宇宙服(船外活動着)が破れる、ヘルメットが破れる)と状況設定しておき、他方で「楯」で防御すれば衝突していても作用・反作用は起きない。まっすぐに目的へ向かって遊泳できるということが、私には理解できないのだ。もちろん私が無知だから理解できないのであって、そこで起きていることは物理学としては正しいことなのかもしれないけれど、何といえばいいのか、私の「知っていること」とそこで起きていることが「合致しない」。つまり「知らないこと」を信じろと求められていると感じ、私は、つい笑いだしてしまったのだ。「真実」であるにしろ(真実だからこそ)、荒唐無稽。
もし最後のクライマックスシーンが「宇宙物理学(?)」的に見て「真実」だとしても、それを「真実」と直感できなかったということは、それまでの映像の積み重ねの随所に、嘘がいっぱいあったということだろうなあ。映像の「嘘」を消してしまうほど、ことばが「ドラマ」になっていなかったということだろうなあ。
ついでに言えば。
父のトミー・リー・ジョーンズにあわせたのだろうが、ダークヘアーのブラット・ピットというのは奇妙だった。目にもコンタクトを入れているのか、妙な色をしていた。私の偏見かもしれないが、ブラット・ピットは「軽さ」が魅力なのに、それを発揮できないときは、もう別人である。前に見た「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、私は好きではないが、ブラッド・ピットには、ああいう「ノータリン」的ムードがよく似合う。ノータリンだけれど、足が地についているというのが、なかなかおもしろかった。高望みしないというのが、逆にかわいらしかった。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン13、2019年09月25日)
監督 ジェームズ・グレイ 出演 ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ
宇宙映画が傑作になるか駄作になるかの分岐点は、とても単純なことを土台にしている。「宇宙の果て」については誰も何も知らない。死と同じように、いろいろ語られるが、それ実際に体験した人はいない。
で。
その何にもわからないところで、何が起きるか。ここにもう一つ大事なポイントがある。人は知っていることしか考えることができない。「宇宙の果て」なんだから何があってもいいはずなのに、ドラマはいつも知っていることを繰り返すしかないのだ。
つまり、人を愛する、人を憎む、人を殺す。人を「父」に変えると、この映画のストーリーになるし、よく知らないがギリシャ悲劇にもなる。宇宙という舞台を借りた父親殺しの悲劇が展開されるだけなのだ。この悲劇は、逆読みすれば、権力者は暴君(独裁者)になり、暴君はこどもによって否定されることで新世界がはじまるということになる。どう読むかは、まあ、読者次第だ。読者が、どっちを「知っているか」ということにかかる。
この映画の最初のクライマックスシーン。トミー・リー・ジョーンズあてのメッセージを読むブラッド・ピット。初めは、組織が用意した手紙を読む。返事が返って来ない。また繰り返す、でも返って来ない。そして何度目か、ブラッド・ピットは用意されたメッセージをそばにおいて、自分自身のことばを語り始める。よく覚えていないが「父さん、愛している」というようなことを語る。この瞬間、この映画は終わる。要約すれば、ブラッド・ピットはトミー・リー・ジョーンズ(父)を愛していたし、トミー・リー・ジョーンズもまたブラッド・ピットを愛していた。だからこそ、その愛は、父が死ぬこと(父殺し)によって完結する。父を殺さないかぎり、ブラッド・ピットは「人類の父」にはなれないのである。
こういうことは「文学」では何度も何度も形を変えながら語られていることだと思う。人間は同じこと(知っていること)しか語れないから、そうなってしまうのだ。問題は、どんなふうにそれを語るかである。「語る」ということに限定して言えば、これはもう「ことば」の方がはるかに「自在」である。どこまでも「でたらめ」を言うことができる。どんな「でたらめ」でも「ことばの論理」は「論理の完結性」を実現できる。いざとなれば、これまで書いてきたことは間違いで、新たな事実をもとに語りなおせば、こういう結果になるというようなどんでん返しも簡単にできてしまう。これは、裏を返せば、こういう「宇宙を舞台にした父殺しのギリシャ悲劇」は、ことばで表現してこそ「宇宙の果て」まで行き着くことができる。映像では無理なのだ。
映像は、どうしても具体的である。映像もことば(声)と同じように消えていくが、瞬間的な情報量は映像の方が多い。すべての情報を「嘘」で統一することはできない。ことば(声)は情報量が少ないから「嘘」をひとつひとつ消しながら「嘘」を積み重ねていくことができるが、そういうことが映像にはできない。
だから、私は声を上げて笑ってしまった。最後の見せ場で。
父を殺した後(父が死んでゆくのを、死んでゆくのにまかせた後)、ブラット・ピットは地球へ帰るために、「宇宙遊泳」しながら母船に帰る。このとき母船とブラッド・ピットとの間には砕けた岩のような障害物が散らばっている。ぶつからずに帰船するために、ブラット・ピットは捨てていくステーションの一部を剥がし、それを「楯」にする。宇宙の浮遊岩石は「楯」にはぶつかるがブラット・ピットにはぶつからない。このとき、ブラット・ピットの質量の方が大きいから、はじき返されるのは浮遊岩石だけであって、ブラット・ピットの側には「反作用」はないということになるのかどうか、私は知らないが、見ていて変に感じるのだ。一方で、浮遊している岩石にぶつかれば宇宙服(船外活動着)が破れる、ヘルメットが破れる)と状況設定しておき、他方で「楯」で防御すれば衝突していても作用・反作用は起きない。まっすぐに目的へ向かって遊泳できるということが、私には理解できないのだ。もちろん私が無知だから理解できないのであって、そこで起きていることは物理学としては正しいことなのかもしれないけれど、何といえばいいのか、私の「知っていること」とそこで起きていることが「合致しない」。つまり「知らないこと」を信じろと求められていると感じ、私は、つい笑いだしてしまったのだ。「真実」であるにしろ(真実だからこそ)、荒唐無稽。
もし最後のクライマックスシーンが「宇宙物理学(?)」的に見て「真実」だとしても、それを「真実」と直感できなかったということは、それまでの映像の積み重ねの随所に、嘘がいっぱいあったということだろうなあ。映像の「嘘」を消してしまうほど、ことばが「ドラマ」になっていなかったということだろうなあ。
ついでに言えば。
父のトミー・リー・ジョーンズにあわせたのだろうが、ダークヘアーのブラット・ピットというのは奇妙だった。目にもコンタクトを入れているのか、妙な色をしていた。私の偏見かもしれないが、ブラット・ピットは「軽さ」が魅力なのに、それを発揮できないときは、もう別人である。前に見た「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、私は好きではないが、ブラッド・ピットには、ああいう「ノータリン」的ムードがよく似合う。ノータリンだけれど、足が地についているというのが、なかなかおもしろかった。高望みしないというのが、逆にかわいらしかった。
(ユナイテッドシネマキャナルシティ、スクリーン13、2019年09月25日)