詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

2019-09-23 07:42:54 | 午前十時の映画祭
ベニスに死す [DVD]
ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルバーナ・マンガーノ,ロモロ・ヴァリ
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ルキノ・ビスコンティ監督「ベニスに死す」(★★★★)

監督 ルキノ・ビスコンティ 出演 ダーク・ボガード、ビヨルン・アンデレセン、シルバーナ・マンガーノ

 この映画の見どころは、三つ。
 ①ビヨルン・アンデレセンの美少年ぶり。確かに切れ長の目、細面の顔、透明な肌と美少年(少女マンガ風)なのだけれど、よく見ると口角が下がり気味。ソフィア・ローレンタイプ。つまり完璧ではない。それが逆に美少年という感じを作り上げている。つまり、観客の目は少年の口元を避けて、あの切れ長の目に集中する。流れるようにカールした髪が、それを隠そうと揺れ動くから、なおさら神経が少年の目に集中する。その切れ長の目で、ダーク・ボガードに流し目をする。どこまで意識しているのかわからないが、ダーク・ボガードが見つめているということ、その視線だけはしっかり意識している。それで、海水浴場へつづく通路のポールに手をかけて、くるり、くるり、くるり。三回もダーク・ボガードを誘うのだ。
 ②ダーク・ボガードの表情の変化。これはもう、なんというか。よくまあカメラの前でこんなあからさまな表情ができるものだ、と感心する。私が特に気に入っているのが、ビヨルン・アンデレセンの誘惑(?)を振り切ってドイツに帰るつもりが、駅に着いてみると荷物が手違いで別の場所へ行っている。それを口実に帰国するのをやめてホテルに引き返すときの表情の変化。駅の係員たちに怒りをぶちまけながらも、「よかった、これでドイツに帰らなくてもいい。ホテルにもどれる」と思う。「どいつに帰ったのでは?」と人に聞かれても「いや、荷物の手違いで」と言える。「少年に会いたくて」と言わずにすむ。その「ことば」にならない欲望、いや、ことばにしたいあれこれ、喜びが顔に表れてくるところ。実際、何も語らないのだけれど、ダーク・ボガードが頭の中で繰り返している「ことば」が聞こえてくる。「顔に書いてある」というのは、こういうことを言う。
 こういう相手のいないところで、相手がいないからこそ見せてしまう感情の輝きというのは、まあ、誰でもしてしまう顔なのだろうけれど、それをカメラの前でできるということがすごい。人と目をあわせて、人の力を借りてこころを動かすのではなく、カメラに向けてこころをさらけだすんだからねえ。こういう顔を見ると、この表情(その一部)を、ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンと目が合うたびに見せていたんだろうなあ、とも思う。それは、スクリーンには映し出されないのだけれど、そうであったに違いないと感じさせる。ひとつの「顔」が、「いま」だけではなく「過去」にさかのぼるようにしてスクリーンの奥で輝くのだ。
 砂浜でビヨルン・アンデレセンが少年と砂じゃれ合うのを見たあと、ダーク・ボガードが自分の頬を指で触るシーンもすごいなあ。セックスをしているわけではないのだが、ものすごくエロチックだ。そこではダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンに触っているというよりも、少年に触られたビヨルン・アンデレセンになっている。そして同時にダーク・ボガードに触られたビヨルン・アンデレセンにもなるのだ。そうか、恋をするというのは、その瞬間に自分が恋する相手になってしまうということなのだ。「君の名でぼくを呼んで、ぼくの名で君を呼んで」だったか、奇妙なタイトルの映画があったが、「あ、あれは、こういうことだったのか」と今になって思い返すのだった。
 で、この自他の区別がなくなる統帥感覚が、後々まで尾を引いてしまう。ダーク・ボガードはビヨルン・アンデレセンではありえない。「美形」の度合いも違うが、何よりも「年齢」が違う。おそろしいほどの隔たりがある。深淵がふたりの間に横たわっている。「老い」は残酷である。知っているくせに、床屋で髪を染められ、ヒゲをととのえられ、化粧する。口紅と頬紅、アイシャドー(?)までつける。旗から見れば醜悪(悪趣味)なのだけれど、ふっと、見せ掛けの「若返り」酔ってしまう。そのときの陶酔が、あ、これは怖いなあ。淀川長治なら「こわいですね、こわいですね、こわいですね」と言うだろうなあ。もう引き返すことのできない「悲劇」へ進むしかない。
 そのあとのあれこれは省略して。
 ③ビスコンティと言えば、豪華な映像美。貴族にしか出せない味。それは最初の方、ホテルの夕食前の、客がラウンジに集まっているシーンに象徴される。みんな着飾っている。女性陣は豪華な帽子をかぶっている。(いまなら、食事中にあんな帽子はかぶらないだろうなあ。)一人一人は豪華なのだろうけれど、集まるとうるさい。ごちゃごちゃして「汚く」なるはずなのに、妙に競合しない。おしゃべりの雑音とか、一人一人のくつろぎ方とかが、個を守っている。豪華なまま独立している。美しい花瓶や花が、人間の固まりを区切る仕切りのような働きをしている。これはシスティナ礼拝堂の壁画と同じ。なぜ、こんなことが可能なのか。和辻哲郎の受け売りだが、ローマ帝国は「分割自治」によって世界を支配した。「自治」をそれぞれの都市にまかせてしまった。だからこそ、フィレンツェのようなとんでもない都市が誕生するのだけれど、その歴史が「芸術」に反映している。ばらばらでありながら、争いあわないのだ。どこかで「区切り」をつくり、その「区切り」のなかに「ひとかたまり」をおさえてしまう。こういう感覚というのは、きっと「生まれつき」というか、民族の「血」なのだろうなあ。日本人には、あういうシーンは撮れないと思う。「空気」を読んでしまう日本人は「区切り/枠」を抱え込みながら「世界」になることができない。「シンプル」にはなれても「豪華」にはなれない。

 不満は。
 これは映画館のせいなのかもしれないが、デジタル版のはずなのに、映像がシャキッとしない。色も記憶の方が鮮やかで、スクリーンに映し出されたものは、どうもよろしくない。音も、妙に「雑音」っぽい。マーラーの、いつ終わるともない音楽が、あ、早く終わってくれないかなあと思うくらい、ざわざわしている。
 他の映画館で見れば違う印象になるだろうと思う。
 (中洲大洋スクリーン2、2019年09月22日)
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